結局、人だと思うんです。
この記事は、Kacotam × 寄付月間2023アドベントカレンダーの21日目の記事です。
9月末に実施した、Kacotamを利用していた子、ボランティアとして参加していたメンバーが集う会(Kacotam OB・OG会)に参加した、メンバーが見出したことについて書きました。
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Kacotamに入った頃はまだ学生でした。学生とはいってももう大学院生でしたし、震災後という時代に学生となり、社会の現状への鬱屈した思いも醸成されつつありました。
ずっと家庭教師をしていて、"教えるちから"というものを信じていましたので、何か社会への自己実現の形として学習支援自体に魅力を感じていました。
なぜKacotamに入ったかを断言するのは難しいですが、実際に家庭教師として”支援を必要とするような子ども”と出会う機会がなければ、Kacotamには入っていなかったと思います。
勉学に向き合うことで、生き抜く力を得て負の循環から脱することができる。それ自体は今でも信じていることではありますが、”支援を必要とするような子ども”と向き合う土俵に立つためには、いち家庭教師では力不足だということに気付かされました。それがKacotamに入ったきっかけです。
Kacotamに入ってからは、子どもとの関わりと同じくらい、メンバーとの議論の時間がありました。子どもとのセッションとそれを俯瞰する時間を与えられ、「教え方」ではなく「関わり方」という観点で子どもと向き合うことがデフォルトになりました。
メンバーそれぞれは全く異なる背景で、それこそ当事者性というテーマを抱えながら活動へ感性をもたせるように働く人もいれば、当事者性がなくてもそれを理解しようとする感情によって活動に動力を与えるように働く人もいました。
もしくは、与えられた動力源をうまく活用するよう働くことに意義を見出す人もいます。
皆々は、大きな社会的なテーマ、というよりもゆるーく共有されたある種の実感によって突き動かされているように思います。
子どもそのものよりも、子どもの生活、子どもの生活というよりも、子どもの意志を尊重する視点、1人より2人の子どもへ……
「カコタムをなぜやっているの?」と聞かれたら、こう答えます。
—— カコタムでの出会いや学びは、学生時代から続けてきた人生の軌跡の一部です。
多かれ少なかれカコタムで活動する人はみなそのように感じているのではないかと思います。社会的な課題や現場で発生した問題に対して、必ず子ども越しで見ることを忘れない、実態はそこにあるんだと信じてやまない人たちがいるからこそ、信頼できるし、続けられる。そう思っています。
先日、5年ほど前に教えていた子どもたちと再会できる機会が設けられました。
”大人”にとっての短い時間が、会っていなかったはずの空白の時間が、あたかも埋められていくように、少なくとも皆そう望んでいるような時間でした。
人間の変わらない部分を確認しながら、生活や哀歓の匂いを感じ取って、成長ではなく存在を、かつてからあったその存在を強く認識させられました。
Kacotamの中では、メンバーの役割として、子どもの将来の形を規定しないという話がよく出てきます。大人がするのは環境を整えるだけで、行く先を決める権利は子ども側にあるという理念です。
理念として正しいことがわかっても、今まで実感はしていなかったんだということに今回初めて気付かされました。
「保護し、施す側」と「される側」という拭いきれない関係性から脱した子どもたちをみて、彼らがいまどんな存在になろうとも、歩んできた人生を否定することはできない、受容したい。同様に、その存在を想像することこそが重要で、現場に求められることなのだと思いました。
そう考えると、Kacotamは子どもを成長させる場ではなく、むしろ大人を成長させる場ですね。
そういう私も、Kacotamには多くをいただいた一人です。
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