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阿波踊りの完全復活を祝して、その一(「阿呆連」と「ネマキ連」)

この夏、三年振りに本格的な阿波踊りが復活した。徳島市で生まれ育った者としてはこんな喜ばしいことはない。子供の頃お盆が近付くと来る日も来る日も近所の空き地に集まって阿波踊りの練習に勤しんだ遠い昔の日々が懐かしく甦ってくる。
隣町は「えびす連」と言う有名連の本拠地だった。僕が住んでいた安宅町にも「安宅連」があったが、これと言ったスポンサーがなく揃いの浴衣に「安宅連」と入れる費用がなく、観客から「安宅連」でなく「ネマキ連」だと揶揄される貧乏連だった。それでもお盆の一ヶ月くらい前から毎夜毎夜踊りの練習に打ち込んだものだった。
六時前の空き地に行水をして天花粉を塗り浴衣に着かえた子供達が集まってくる。子供達は早速見様見まねで阿波踊りを踊り出す。七時になると晩酌を終えた若い衆が次々と現れ、鉦や太鼓のお囃子で踊りを盛り上げる。夕餉の後始末を終えたかみさん連中が加わるのは八時を過ぎてから。その三味線の音に浮かれて練習は毎夜九時が過ぎるまで続いた。
あれは小学校六年の時だった。僕達も「六年三組連」を作って踊ってゆこうと言い出すものがいて、有志が放課後に校庭に集まり踊りの練習を開始した。そのことが教員室で問題となった。保護者のいない生徒だけで連を作って踊ってゆくのはまかりならぬと止められたが、間に入った担任の先生の計らいで学校の敷地内で踊ることが許された。
お盆の二日目が担任の先生の当直の日だった。陽が落ちるのを待ち兼ねて学校の正門と校舎の間の中庭に浴衣に着替えた有志が十人ばかり集まった。月に照らされた中庭で小太鼓のリズムに合わせて踊り出した。見物客は二宮金次郎の銅像だけ。どんなに一生懸命踊っても二宮金次郎は本を読む目をこちらに向けてはくれなかった。
すっかり拍子抜けして踊りを止めてしまった。そんな僕達に担任の先生が宿直室で用意したお盆のお団子をご馳走してくれた。僕達はそのお礼に校舎の見回りをすることになった。見回りとは名だけで参加した二人の女生徒を脅かしてやろうと企んでのことだった。だがそれを察知した女生徒に逆に男性が驚かされる始末だった。
あの時が僕の阿波踊りの踊り始めだった。中学生になり一度だけ「安宅連」で踊って行った。「ネマキ連」と笑われても気にせず無我夢中で踊った。踊り疲れて腰が抜け歩いて帰れなくなったのは僕だけではなかった。だが道端にへたり込んだ者もお囃子を聞くと手足を動かせた。小太鼓の響きに合わせ皆で踊りながら何とか家に帰り着いた。
それ以外は見る阿呆に徹していた。男衆の豪快なあばれ踊りに魅せられて専ら「阿呆連」を追いかけた。二宮金次郎の前で踊った仲間の一人が「阿呆連」で踊っていた。彼の踊りを見るにつけ僕も一度でいいから「阿呆連」で踊ってみたい、そんな願いが胸の中に沸き起こってきた。以来彼が元気なうちにその夢を実現できるよう願い続けていた。
そして50年が虚しく過ぎ去った。外国から帰国し、公職から身を退き、出席した同窓会で彼が死亡したことを知らされた。僕の夢は叶わぬ夢と成り果てた。いや、彼が不帰の客となる前から、踊りが個人の技よりも連全体のフォーメーションで見せるように変わってしまい、僕の願いが遂げられなくなったことが分かってはいた。
阿波踊りの復活を先導する「阿呆連」の踊りをユーチューブで見ていると、あの「阿呆連」の破れ傘の浴衣に一度は腕を通してみたかった、との思いが甦ってくる。遠い昔「阿呆連」に胡弓を奏でるお年寄りがいたことを思い出し、そんなことを覚えている人は今ではほとんどいなくなったと思ってはちょっぴり誇らしい気分になったりした。

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