幼なじみと再会
4月に生まれるはずだった僕は、母の骨盤が狭く産み月まで待っていたのでは母子双方の生命が危険に晒されるとの判断により、急遽執り行われた帝王切開で2月に誕生した。お陰で幼稚園へ行くのが一年早まった。体力、知力が発達途上の幼児にとって一年の差は絶大である。誕生後も病院に1年間隔離されていた僕が幼稚園でいじめにあわないよう気遣った母が僕の庇護者として白羽の矢を立てたのがその女の子だった。
仮にその子の名を陽子ちゃんとしておこう。陽子ちゃんは足がすらりと伸び、背が周りの子供達より頭一つ抜きん出て高かった。鬼ごっこや縄跳びで常に近所の子達の先頭に立っていた。母はそんな陽子ちゃんを我が家に呼び寄せて僕と遊ばせようとしたが、陽子ちゃんは家の中で僕などといるより外で駆けずり回っている方が好きだった。僕はただ遠くから男勝りの陽子ちゃんを羨望の眼差しで眺めているだけだった。
ところがどういう風の吹き回しか僕が幼稚園へ行くようになると陽子ちゃんが僕を迎えに来てくれるようになった。玄関で僕の名を呼び僕と手をつないで幼稚園へ通った。幼稚園ではか弱い僕をいじめっ子から護ってくれた。僕は陽子ちゃんを姉のように慕い陽子ちゃんを僕の守護神として頼りにした。母の当初の目論見通り僕は陽子ちゃんの庇護のもと幼稚園を無事卒園することができたのだった。
その陽子ちゃんが目の前にいた。歳月がどんなに姿形を変化させようともその顔から幼い日の面影を拭い去ることは出来なかった。頬に肉が付いたせいで顔が丸まっているが、その顔付きは陽子ちゃんに違いなかった。まさかこんな奇蹟が用意されているとは思ってもみなかった。あくまでくじを引くと言い張ったのがよかったのだ。そう思うと嬉しさが込み上げてきて、それまでの嫌な思いが一挙に吹っ飛んでしまった。
「あなた陽子ちゃんでしょう。ねえ、僕を覚えてる。子供の頃よく遊んだじゃない」感極まった僕が突如発したのがこの言葉だった。そして陽子ちゃんがどんなに驚くだろうか、その反応を見逃すまいと目を凝らして見つめていた。「そうよ」との儀礼的な返事は返って来たが驚いた様子も嬉しそうな様子も見せずただ怪訝そうに僕を見つめている。「ほら、手をつないで幼稚園に通ったよね」と言おうとして慌ててその言葉をのみ込んでしまった。
代わって陽子ちゃんが口を開いた。「そういえば近くに男の子が住んでいたわね。でもすぐ遠くへ引っ越したんじゃないかしら」と。奇蹟の再開にしては陽子ちゃんの反応が鈍すぎる。僕のことを思い出してはいるようだが、一時期近くに住んでいた男の子としか思っていないようである。それも仕方がないといえば、仕方のないことだった。陽子ちゃんと親しかったのは幼稚園を卒業するまでで、それ以後彼女と付き合った記憶が全くないのだから。
幼稚園を卒園と同時に田舎に疎開した。空襲で家は焼かれ疎開から帰ると他の場所に引っ越さざるを得なかった。だが通学の圏内で学校はずっと同じだった。それなのに何故か僕の目は彼女に向かわなかった。12年間同じ学校に通ったのに一度として声を掛けてもらえなかった。彼女にしてみればそんな男に陽子ちゃんとなれなれしく呼ばれて嬉しい顔ができるはずがなかった。
僕にとって陽子ちゃんは世間知らずの僕の手を取って世の中に連れ出してくれた姉のような人だったが、彼女にとって僕はたかが二年か三年ままごと遊びをしただけの男の子に過ぎなかった。でも僕が恩義をこうむった思い出は彼女にとっても誇らしい記憶であるはずだった。とはいえ、藪を突いて蛇が出てきては大変だ。当面は当たり障りのないことから話し始めて彼女をあの時代に引きずり込むしかない、と肩の力を抜いて話し始めた。
「確か陽子ちゃん左利きだったよね」
「そうよ。よくおぼえているわね」
「髪の毛がショート・ヘアーで、すばしこい陽子ちゃんに良く似合っていた」
「あら、そうかしら」
「うまく説明できないけど、おかっぱ頭の後ろ側を短く借り上げた、といったらいいのかな」
「そういえばそんな髪形をしてたわね。嫌だわ、よくそんなことまで覚えているわね」
「小学校に上がっても駆けっこは一番だった。運動会の花形だった」
「そんなこともあったわね。でもね、わたし中学校、高等学校と進むに従い段々と普通に人間に逆戻りしてしまったのよね」
陽子ちゃんの態度が思いのほか打ち解けてきた。あと一押しで奇蹟が起きると気負い立ち当時僕達が住んでいた町内のことへと話を進めた。県道から北に延びた横丁が運河と接する角のお屋敷が陽子ちゃんの家で我が家はその手前の借家の一つだった。漁師だった大家さんは楽隠居ののちも時折船に乗って夜釣りを楽しんでいたなどと話し合っているうちに息もぴたりと合ってきた。
ところがその船がどこに置いてあったかで意見が分かれた。僕が大家さんの家の庭に置いてあったと言うと、陽子ちゃんがいや違う彼女の家の前の運河に繋いであったと反論する。釣りに出掛ける前後には川に係留していただろうが普段は庭に置いてあったと主張する僕に陽子ちゃん何時も川に置いてあって私はその船の上でよく遊んだと言い張って一歩も引きさがらない。二人が子供の頃に返ったかの如く喧々諤々と言い合っているその時だった。思わぬ横やりが入ったのは。