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屋形船、永代橋、そしてスカイツリー、ぼくの2016年。

 「逗子」から「佃島」に引っ越してきたのは2000年の秋。
 それからの17年間、ぼくらは東京の下町に腰を据えた。

 画像は、38階のぼくの部屋の窓からの眺望。

 まさに鳥瞰の図。
 曇天の日に、エントランスに下りてみると小雨が降っていたりした。
 海鳥の群れは、ベランダより下を通り過ぎて行ったし、春には、対岸の桜並木がまるでジオラマに刺したキットのように見えた。

 数日前、高校の同級生から電話があった。先週、地元で「同窓会」が開催され、彼は出席するために東京から出向いたんだと言った。ぼくは知らなかったか、忘れていたか。

 同級生の話には「母校」とか「運動部」、「ふるさと」とか「仲間」という単語がさかんに登場し、「運動部の出席者が少なすぎる」という嘆きの電話だった。
 ぼくは、運動部うんぬんではなく、「ふるさと」の方に反応した。

 高校卒業まで18年間暮らした町をそう呼ぶのなら「ふるさと」かもしれない。しかし、ぼくは、どうもその町を「ふるさと」とは思っていないようなふしがある。
 それなりに「思い出」もあり、「ラグビー部」の同期を何人もいるし、今も妹が住んでいるのだが、「あなたのふるさとは?」と聞かれたら「生まれて高校までは・・・町」と答えるかもしれない。

 話は、「佃島」
 

佃に住んでいたころ、我が家から一番近い文房具屋は銀座の「伊東屋」だった。 小学生のノートとか、筆記用具などを片手間に置いている店はあったろうが、万年筆のインクとか、ちょっと書き心地の良いノートなんかが買える最寄りの文房具屋は銀座「伊東屋」だった。

 「佃」は地続きの「月島」、「永代橋」か「相生橋」を渡れば「門前仲町」、最寄りの文房具屋さんがある世界の「銀座」も、ほぼ同じ生活圏にある。吉本隆明が育ち、浅田次郎が『月島慕情』を著したこの町とその界隈は、まことに不思議で、素敵な下町なのだ。

 天気の良い日には「佃大橋」を渡って、明石町、新富町、東銀座を抜けて松屋の裏通りを右折。「伊東屋」に裏口から入るか、別館で買いもしない絵筆なんかを眺めるか。
 表通りには世界のブランドショップが、それこそ軒を連ねている。なのに、南に下って昭和通りを渡ると、「歌舞伎座」、爆弾が落とされなかった「聖路加病院」がある。

 「勝鬨橋」か、もう一度「佃大橋」か、それとも「鐵砲洲稲荷神社」から「南高橋」、「中央大橋」を渡れば我が家はそぐそこ、それが日常的な散策コースのひとつだった。

 隅田川は「佃島」にぶつかって二手に分かれる。「中央大橋」、「佃大橋」、「勝鬨橋」、「築地大橋」をくぐって東京湾に出る本流と、門仲へつづく清澄通りに掛けられた相生橋から豊洲、晴海方面に解き放たれる支流とに。

 江戸を舞台にした「時代小説」に「大川」と記されていれば、それは隅田川の本流のことで、「吾妻橋」の下流からをそう呼んだらしい。

 「御宿かわせみ」は、その「大川」のそばにある旅籠。
 「るい」という元同心の娘が女主人である。

 池波正太郎司馬遼太郎藤沢周平に逝かれ、ぼくの「時代小説」の棚に次巻が並ばなくなったとき、平岩弓枝の『御宿かわせみ』シリーズに救われた。
 「そんな大げさな」と言われるかもしれないが、今のようにネットでなんにでもアクセスできる前の話、つまり、あらゆる分野の書籍に複合的で得難い価値が宿っていたころのこと。

 池波正太郎からは「漢」というものを教わった。
 司馬遼太郎からは、国家というものの正体を教わった。
 藤沢周平には、「義」のなんたるかを教えられた。

 「御宿かわせみ」は、「初春の客」(はるのきゃく)からはじまる。

 三日ばかり鋭い寒気が襲ったかと思うと、不意に大川の水もぬるむような日もある初春であった。
 日暮方から悪友の集りに顔を出して、宴が果てたのが、もう夜更け。
 南町奉行所の吟味方与力をつとめている兄の屋敷は、とっくに門のしまっている時刻であった。
 屋敷を出る時から、心のどこかで、今夜は大川端町の、るいの許へ行くつもりがある。
 神林東吾は仲間と別れると、自然、酔った足をそちらへむけていた。
 豊海橋の袂から少しはずれて「御宿かわせみ」と小さな行燈が夜霧の中に浮かんでみえる。
 星も月も見えない、しっとりとした晩である。

隅田川を望む日々の暮らしの描写のなかに、登場人物のひととなりと、情のかかわりが、それとなくしのばせてある。
こういうのを“手練れ”というのだろう。

ぼくが週末、散歩していた大川沿い。「亀島橋」、「鉄砲洲」、「佃島」、「深川」など、「時代小説」の出てくる地名が今でも残っている。
そこそこ二百年前に江戸に出てきて、ここをふるさと、終の棲家としたひとたちがいて、平成の世にぼくらが、彼らと同じ川端に暮らしていたことが、ちょいと不思議で、素敵だ。

ぼくは、「高校卒業までの18年間」と書いているが、本当は2,3歳まで同県の他の町で暮らしていて、「高校卒業まで15年」か16年」と書くのが正しく、「逗子暮らし」、「佃暮らし」のほうが少し長い。
だから「ふるさと」はこちらなのだ、というつもりは毛頭ない。

回りくどく、だらだらと書いているが、実は、こんな風に思っている。

高校時代にはそこが「ふるさと」で、ラグビー部の同期たちが仲間だった。

「逗子」で暮らしていたころは、かみさんを筆頭に、葉山在のこうちゃん、「ラ・マーレ茶屋」のバーテンダーだった猫ちゃんたちが仲間で、そこが「ふるさと」だった。

「佃」に引っ越してきて、人見知りのかみさんを仲間にしてくれた「Red String」のエリカさんや、酒飲み仲間たちが、そのまま「ふるさと」だった。

ぼくは思っている。

ぼくらには、一日、一日を大切に暮らすための「ふるさと」が、毎日やってくるんだと。



 


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