嫉妬と憧憬の痴話喧嘩。
性差で「憧憬」についての語らいに差が出るとは思わないが、その対象が異性か同性なのかで差異はあると思っている。
女性は主観と客観のラインが曖昧なのではないかと感じていて、無論、個人差はあるだろうが自分とは別個の命を胎内に宿す能力が影響しているのではなかろうか、と推測する。
我が子も自分と別個体という他者であり、まだ言葉も発せない未熟な我が子の要求や感情を読み解くには相手の立場にたち思慮を巡らせねばならない。
女性は「共感」の生き物だという説もある。他者の感情を汲み取り、自分のことのように喜ぶ、悲しむ。客観的に見ていたものを主観的に摩り替えて、己の感情を揺曳させる。
感情移入の深さこそが主観と客観の境界を滲ませ、追体験をし自分の中に取り込み自分の感情として出産している。
これは自分自身のことだが、えらくご贔屓な愛してやまない選手とは憧憬の極みであるが、それは恋愛感情とはまた異なり、様相はひどく複雑で斑模様だ。
これも客観と主観のはなしになるが、コスプレイヤーは比較して女性が多いように思う。自分と別人格のキャラクターになりきる。心理学で言う「同化」の行為だ。もしくは違い誰かになりたい、というメタモルフォーゼへの渇望から生まれる客観と主観の摩り替えが此処でも発生する。
この心境に「憧憬」も近い、もしくは付随するのではないだろうか。
わたしはあの選手に憧れ、あの選手自身に本当はなりたいんだと思う。
秀でた身体能力、均整のとれた姿態、プロのサッカー選手と言う大勢の人間にいろんな感情を与える立場で、厳しい練習や訓練に耐える強さを持ち、苦境を乗りこえて輝きを見せる。
現実問題、ユニフォームをぺろっと1枚剥がせば、何て事ない平凡な男性かもしれない。
だが、彼はサッカー選手でサッカーに魅了された人生を歩んできている。どんな人生を歩んできたのか、これから歩んでゆくのか。
それを考えた時点で、そこで客観と主観が摩り替わる。すべては妄想の類いに過ぎないが、インタビューなどで語られる彼の生い立ちや軌跡を追体験しようと想像の世界に翼を羽撃たかせる。
不気味かもしれない。そう思われても仕方がない。
それでも、憧れに妄想は必ずや追従するものだ。
心の底に息を潜めた出来るものなら彼になってみたい、という不可能な願望にうっすらと陰を落とすのは嫉妬心。
憧憬の対象に嫉妬心とは、主観と客観くらいの隔たりがある。
それでも再三になるが境界線は靄がかり、それは不意に遭遇するようなものだ。
サッカー選手云々の前にわたしは女性であり、憧憬の対象者は男性である。これは遺伝子レベルの差異で性染色体XXとXYの差であるから抗いようもない。
自分の持ち得ないY染色体を保持し、魅力的なサッカー選手になりたいけれどなれない。羨望であり、嫉妬でもある。
どうにもならない願望を攪拌するのは気休めの妄想だけだ。
客観を主観に摩り替えて微笑んでみる。
彼の楽しそうな笑顔にこちらも破顔一笑し、悔しそうな表情にこちらも悔し涙を流す。
つまらない平凡な生活に楽しみを与えてくれる憧憬が今日も嫉妬と痴話喧嘩をしている。