華燃えんと欲す
シーズン開幕戦、新しいシステムに挑戦し新加入選手も躍動。明るい兆しに胸踊らせる結果である。来週のリーグ開幕戦も待ち遠しい。
試合後の祝杯のビールの喉ごしの爽快さは最高だし、長く長く感じたオフシーズンの鬱憤を晴らすようにゴール後のタオマフを振り回したのも心地良かった。
だが、心に停滞する想いに不実さを認識せずにいらなれかった。
わたしはフロンターレのサポーターであるから、どんなかたちでもどんな状況でもチームへの愛は変わらず貫きたいという気持ちを持っている。
けれど、その側面でチーム内で愛をひたすらに傾ける贔屓の選手がいる所謂「個サポ」とも呼ばれる立場でもある。それが尊称なのか蔑称なのかは今は問わないでおく。
そして、その立場であることは周知のこと。
車屋選手はスターティングメンバーには選出されず、ベンチスタートだった。それでもアップの際に目の前の等々力のピッチでボールを蹴る姿を見られた。昨年11月末以来である。渇いた土壌に雨の降る瞬間だ。
動作の全てが美しい舞踏のように煌めいてわたしの瞳には写るので、アップですら車屋選手の動きを1秒足りとも見逃したくない。
よく、SNSで犬だの猫だのの愛くるしい動画が流れてくるが、車屋選手の動画というのはそれに匹敵するくらいの魅力なのだと理解していただけるとわたしの感覚が解りやすいかもしれない。「仔犬だから」「仔猫だから」という条件と同じで「車屋紳太郎だから」なんでも愛しいのである。
脱線した。
不実の正体は言わずもがな。
車屋選手の出番がなかったからである。
不満とは、やや違った面持ちの感情で複雑な綾を成している。
「車屋選手がスタメンじゃない」という事実。
周囲の皆さんは気を遣ってくれて「大丈夫だよ。今後、絶対に車屋先生の出番はあるよ」と励まして慰めてくれる。これはとても嬉しいし、なんだか申し訳無くも感じる。いらぬ気を遣わせる個サポの存在よ。
だが、その言葉ですら、わたしは唇を噛み締めてしまうのだ。
お気遣いをいただいているみなさんには本当に申し訳無いし、失礼だとも思うし、そう言うしかないというのも重々承知だ。
それでも、わたしは心の底から選手を想うあまりに苦しくなるのである。
リーグのみでも年間34試合ある。他にカップ戦もある。出場の機会は巡って来るであろう。それはチームの勝利が一番だから、その時に調子の良い選手がスタメンになる。序列もあるだろう。作戦もあるだろう。相性もあるだろう。
けれど、その状況に甘んじてはいけないのだ。
それは無論、選手本人もそう思っているだろう。選手自身も回りの人たちに「チャンスは来るよ。お前なら大丈夫だよ」と声を掛けられているかもしれない。そして、そうじゃないと反骨を芽生えさせている筈だ。
不動のスタメン、監督のファーストチョイスでいることに意味があると。
そうなるためにの努力、鍛練の日々なのだろうから。
チャンスを虎視眈々と待つだけではなく、自分で扼ぎ取りに行かねばならない。
まだシーズン開幕、1試合目。シーズンは長い。1年通して見る必要があるもの理解は出来るが、心に巡る期待と不安。
サポーターである以上、応援しか出来ない。
精一杯の応援とは選手の努力能力を信じて信じて信じきることだと想う。選手のすべてを知ることは不可能だし、日々の努力も鍛練も目には届かない。ごく一部を垣間見る程度だ。
だから、1試合のベンチくらいで不安になってはいけない。
そう唇を噛み締める自分を奮起させようと、心に往復ビンタをかましてみる。
それでも、選手本人はどれほどに悔しいだろうか。
チームの勝利、仲間の活躍。自分のいないピッチの戦況に湧く観客席。
それをビブスを着たまま眺める後ろ姿。
勝利を祝いながら、頬の片隅にこびり付いた悔しさの影よ。
わたしの心に滲むように広がる歯痒さ。
けれど、わたしの想像が及ばないほどに静かだけれど、不屈の炎を燃え滾らせている筈だとわたしは信じる。
見えない牙を研ぐ音に、わたしは耳を澄ましている。
チームの勝利の一端には車屋選手がいつもいて欲しいという、不実な響きを内に抱いて。