見出し画像

サッカー観て 神社行きたい。ーガンバ大阪編

 インフルエンザの予防接種受けなくても、罹ったことないから、きっと新型コロナも平気!というバイアスを見事に砕かれ、陽性からの快復を果たしました、かちこです。
知らんけど。

今回はっ!ガンバ大阪さんだよっ!

大阪府は北海道と沖縄を入れて、日本のほぼ中心。
旧石器時代から人は住んでいたけど、弥生時代頃に海面低下が起こり沖績低地が形成された。

律令制になると摂津国(兵庫の一部+大阪)となり、摂津地方の山間部を「北摂」平野部を「東摂」と呼び、吹田は後者に当たります。ちなみに摂津国島下(嶋下)郡になります。

「摂津」は「難波津を管理する」と言う意味。「津」は港の意味合いで、難波津は外交も盛んな港でした。
「難波」の由来については諸説ありまくりなので、気になる方は調べてみてください。
わたしは「魚(な)」+「庭」で「なにわ」の説が好き。
難波津はたくさん、魚が採れたそうなので。
「吹田」は「水田」とも書き、淀川水上交通の一拠点でした。
元は「次田すきた」が「すいた」に変化し、「次」→「吹」になったと吹田市のホームページにあります。

「次田」の次は継ぐ、もしくは主基(これも次の意味)ということでしょうか。※主基については「横浜Fマリノス編」(杉山神社)に記載。

吹田は千里丘陵(昔は千里山丘陵)にありますが、現在丘陵の原形はほぼ失くなっています。
旧石器~縄文時代の遺跡もあり古くから、集落のあった場所です。
市内には約70の須恵器窯跡を有し、5~7世紀に生産が活発に。
平安時代になると荘園、摂関家領(垂水・東牧西牧)となり、平安末期には奈良興福寺領吹田庄となり、その関係性か奈良春日大社の神人じにんが吹田にいたようです。
吹田の地は鎌倉時代には「方違かたたがえ」の場として、貴族の日記に度々登場し、藤原定家の明月記にも方違の地として出てきます。
※「方違かたたがえ」とは、陰陽道において忌むべき方角を避けるために、本来の目的地と違う場所に移動してから、改めて目的地に向かうこと。(堺市には「方違神社」があります。)
この方違って大変で、方違の場所にされた家の人たちは、方違に来る方々を饗さねばならず、それが御幸(天皇のお出かけ)だったりすると、まぁ大変にお金も気苦労もかかるのですなぁ。ポケットマネーから出すんだもの。
清少納言の記した枕草子で「すさまじきもの(不愉快なもの)」として、「方違に行った家で、まともな饗しがないことくらい不愉快」という一文があったりして。いや、饗すのも大変よ。

どうにも吹田とか、パナスタというと万博記念公園のイメージが強いですが、古い歴史を見ても楽しいですね。

垂水神社たるみじんじゃ

パナスタから車で15分。電車では行きにくいみたい?

千里丘陵南端、標高50mの場所に鎮座。
境内には弥生時代の遺跡があったが、特に祭祀の跡という訳でなく生活の場であったようです。
摂津一番の薬水と云われる「垂水の滝」があります。霊水であり、味も美味しいと謳われていました。
この滝(泉)があったことから「垂水」の地名になったようです。
古来から水神を祀るとされ、朝廷から祈雨祈願を命じられる事もありました。

 御祭神は豊城入彦命とよきいりひこのみこと、大己貴命、少彦名命
豊城入彦命は崇神すじん天皇の皇子で、彼を祖神とする子孫の阿利真公ありまのきみが、垂水の水を干魃かんばつに苦しんでいた難波に通した褒美に「垂水公たるみのきみ」の姓を賜った。そして、この垂水神社を創始したとのこと。
ちなみに豊城入彦命の母は、紀国造きのくにみやつこの荒河刀弁とべの娘「遠津年魚目目微比売とおつあゆめめくわしひめ」。すごいお名前だけど、名前の通りに「年魚(鮎)のような美しい目をした乙女」の意味だそうです。
きっと、豊城入彦命の御目目もキラキラだった筈。

神紋は十六弁菊。境内5600坪。本殿裏手の鎮守の森は、あべのハルカスから見えるらしい。
鎮守の森はマンション建設計画があったものの、住民の反対運動により計画は中止になり、鎮守の森は守られました。すごいね。喜ばしいことだ。

本殿の脇から下る?と「垂水の小滝」が現れ、その先を進むと、「津くよみの池」と聖域の「垂水の大滝」があります。
大滝は土足禁止で、スリッパ(!)に履き替えるそうです。
境内には、注連縄を掛けられた「金伯白龍」「金白龍王」と書かれた石碑?があります。どれも龍神、水神を祀ってますね。
(金は五行で水を生じる相生の関係。金は方位で西、色で白。龍はそのまま水神を表すし、「伯」は神様の意。垂水の滝は本殿の西側にある)

住宅街にあるので、ちょっとした異世界気分も味わい易そうです。

吉志部神社きしべじんじゃ

パナスタから車で10分、歩いて30分くらい。

吉志部は「岸部」「岸辺」とも書きます。
住所も「吹田市岸部北」。普通の人なら「吉志部」なんて、どんな宛字よ?なんて思うかもしれません。
岸部よりも、吉志部の歴史は長いのですよ。

「吉志」「吉士」「吉師」と書かれますが、元は新羅の官名で古代朝鮮における「首長」を意味する語に由来。
朝廷で外交事務を職務にした渡来人の敬称だったが、後に姓となった。
吉士氏は、難波吉士なにわのきし(孝元天皇の子・大彦命おおびこのみことを祖)、調吉士つきのきし(百済の努理使主ぬりのみことを祖。ちょっと浦和レッズ編に出てきた)、三宅吉士みやけのきし(新羅王子の天之日矛あめのひぼこを祖)と三つの流れがある。
かつて大嘗祭に奏した舞で「吉志舞きしまい」と呼ばれる舞いがある。現在は廃絶しているが、この吉志舞も「きしべのまい」「きしべのがく」とも呼ばれてた。
 安倍氏の祖が舞ったとのことだが、安倍氏の祖は建沼河別命たけぬながわのみこと。この神様は大彦命の息子。

神社西側に広がる公園名にもなっている紫金山しきんやまに鎮座。
紫金山の南斜面にあり、社と参道はほぼ、吉志部の中央と南北に走る条里線上にある。
御祭神は天照皇大神、豊受大神。
 他にも六柱の神様が祀られています。(八幡大神、素戔嗚大神、稲荷大神 、春日大神、住吉大神、蛭子大神)
昔は豊受大神がいらっしゃらなかったので、七神だったので「七神社」「七社明神」などと呼ばれていました。
元々は吉士氏の氏神を祀っていたようで「大神宮」と呼ばれていたのが、831年改称「天照御魂社」、そして「天照皇太神社」となり近代にはいり「吉志部神社」となりました。

 社殿は応仁の乱の戦火で焼失、1610年に再建されましたが2008年に不審火により焼失、2011年に竣工さました。
なので、社殿はピカピカ。
元々、お寺と違って神社は、数年おきに建替えるものだったのです。伊勢神宮も二十年毎に遷宮してますよね。神嘗祭で使用する小屋もすぐに壊しますし。
なので、焼失は悲しい出来事ですが、神様は新築を堪能しているかもしれないですね。

境外になりますが、紫金山公園に「吉志部瓦窯跡がようあと」があります。
ここでは、平安神宮造営のためにたくさんの瓦を生産していたそうです。つまり、官窯かんよう(朝廷が管理する窯)だったようです。

すぐ近くには吹田市立博物館もあり、吹田市について学ぶにはもってこい!

伊射奈岐いざなぎ神社

通称「山田神社」
吹田市山田東、高庭山に鎮座するので、通称「山田神社」。
「五社宮」とも呼ばれます。
山田の地名は元は「山田原」で伊勢山田から名前をとったそうです。
パナスタから徒歩5分!ガンバさんが必勝祈願に参拝される神社です。

伊射奈岐神社は、山田神社から北に徒歩26分、吹田市佐井寺の地にもあります。こちらは「佐井寺神社」とも呼ばれます。
両社共に式内社、「摂津国島下郡、伊射奈岐神社二座」と書かれております。

御祭神は伊射奈美之命いざなみのみこと
相殿に天児屋根命 、天手力男命 、天忍熊根命 、蛭子命……って、「伊射奈岐神社」なのに伊射奈岐命は????
 佐井寺の伊射奈岐神社の御祭神が「伊射奈岐命」なのです。
なので、この二社がペアだったようで、伊射奈美之命を祀る当社が姫宮で佐井寺が奥宮だったなど、いろんな説があるようです。

 秋祭りでは、御神輿が珍しく太鼓と、太鼓を叩く乗り子を乗せる「太鼓神輿」。無形文化遺産。
迫力満点の和太鼓の演奏もあるようです。

おまけ。
神社ではないけれど、パナスタに近く…民俗学好きならオススメ…と言ったら「みんぱく」こと「国立民族学博物館」!
わたしはバーチャル(パノラマ展示)だけでも、楽しくて堪らないけれど、生でじっくり見たいな~。


いいなと思ったら応援しよう!