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マエストロのスーベニール

ぬばたまの夜空が広がる中、皓々と照明が緑の芝を鮮やかに浮き出たせ、多くの視線と様々な感情を秘めた息吹が其処を舞台にと変える。

今宵もまた、その等々力という舞台に歴史が一つ刻まれた。
歴代最多得点樹立。

だからと言って特別な雰囲気は感じなかった。
憲剛さんの大きな大きな横断幕も幟も見慣れて来て、どこか引退の現実は薄れて、それすらイベントのひとつのような捉えていたかもしれない。

寒さに怯えていた所為もあるかもしれない。

ピッチに姿を現した憲剛さんの前髪が少し短くて、なんだか可愛らしくフフッと微笑んだ。それくらいの暢気さもあった。

前半は怪我から戻ってきた登里選手の様子を気にかけつつ、先制点を相手に許してしまい、眉をひそめ寒さにもぞもぞしている内に終わってしまった。

ハーフタイムは空腹だと寒さを感じやすい筈と売店の列に並び、ホットドッグを調達。売店の女の子が「マスタードつけて大丈夫ですか?」と言うのを「カスタードつけて大丈夫ですか?」に聞こえてしまい、湯気の立つホットドッグ片手にニヤニヤしながら席に戻った。

思いの外、たっぷり掛けられたマスタードに鼻がツゥンとして涙ぐんでいると守田選手のゴールが決まった。

三笘選手のヘディングも今日は見事に決まり、そのすぐ後に憲剛さんからのパスを悠選手が華麗に決めた。悠のこと、見えてたの?!と驚くようなパス。試合後に「いると思ってた」とのことで見えてなかったと判明したが、正に阿吽の呼吸。

三点目に沸き立ち、拍手で溢れる等々力。

そのなかでわたしはハッと我に返った。

「あと30分」 マスクの中で小さく呟いた。

わたしは天皇杯の準決勝の日には用事があって等々力に来られない。

等々力で目の前で憲剛さんが、いや中村憲剛選手がプレーする姿を見られるのは、あと30分。

そこからはずっと視線は憲剛さんを追っていた。そして、憲剛さんの引退を受け止めていたと思っていたけれど、頭の中に沢山の「なんで」が浮かんではグルグルと回った。

40歳にして周囲の選手と見劣りすることなどないプレー。いくつもの努力や鍛練や辛さを乗り越えてのことだろうけれど、引退するには勿体ない。もっともっと見ていたい。

わたしは若い頃の憲剛さんを知らない。サポーター歴も短い。

サッカー選手を夢見た元少年でもなければ、家族で応援している明るい環境でもない。

憲剛さんに関わる胸を揺さぶるような思い出も珠玉のエピソードも持ち合わせていないけれど

鬱屈と淡々と過ぎ行く日々の中で、ドラマティックな展開や将来への希望を与えてくれるのがサッカー観戦で、そのなかに憲剛さんは常に中心にいた。いるのが当たり前だった。

等々力にも麻生にもいつもいてメディアにも率先して出てくれる川崎フロンターレといえば、中村憲剛選手であった。

選手にとっても悠選手曰く「リボンの付いたパス」をくれ、悩んでいる時にはアドバイスをくれる。アカデミー育ちの若い選手たちは子供の頃に、夢と憧れを憲剛さんから貰っていた。

憲剛さんはサポーターにとっても、選手たちにとっても、きっと他の関わる方々にとっても偉大な贈り主。

たくさんのスーべニールをくれた。

記念であり、思い出であり、お土産のような。

まだまだ実感がわかない。

選手紹介に中村憲剛の名前がなくなること、幾度新しいユニフォームになっても変わらないモレリアがピッチにいないこと、猫背の14番がピッチに見当たらないこと、なにもなにも信じられない。

自嘲するほど熱いエピソードがある訳じゃないわたしでも、これらの信じられないことが来シーズンから起こるなんて考えただけで涙が出てくる。

フロンターレの想い出の中に必ず憲剛さんは存在していて、優勝を逃した時も初優勝した時も連覇の時もフロンターレの歴史の大きな部分と共にいた。だから、対個人としての涙するような思い出話がなくとも

初優勝の時の憲剛さんの姿は一生忘れないだろうし、何度見たってあの瞬間は泣くだろう。

そんな風に末端のサポーターであるわたしにですら、憲剛さんは消え去ることのない感動の涙という、スーべニールを与えてくれたのだ。

苦しみも悲しみも嬉しさも混じった憲剛さんのあの日の涙が染み込んだ等々力の芝はきっと偉大なバンディエラを忘れることはないだろう。

これから、ピッチ外に活躍の場を変えても

たくさんの人々にきっとスーべニールを与え続けるひとなのだと思う。

そう、中村憲剛選手こそスーべニールのマエストロだ。

まだ実感も湧かず引退なんて似合わないと反論したくなる気持ちも噛み砕きつつ、それでも万雷の拍手と抱えきれない程の感謝を憲剛さんに贈りたい。

ずっと待ち望んでいた景色の一部にさせてくれて、ありがとうございます。

憲剛さんのいたフロンターレを好きになれたこと、4つも星の着いたユニフォームを着られること、本当に誇りです。

2020年12月16日

ホーム最終戦の夜に綴る。

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