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エフェメラルの味わい。
年明けて再度の緊急事態宣言である。
頭を過るのは自粛の日々、仕事も休業、人生の楽しみでもあるサッカーの試合はもちろん無い。チーム自体が稼働せず、選手たちの練習すら無かった、青空を見上げても不安ばかりが打ち寄せていた。
去年ほどではないにしろ、再びの無観客試合の可能性は状況によってはあるかもしれない。
仕事や家庭事情や様々な理由から現地参戦を回避した人々も多かった昨年、それと共に限られた観客数の中、現地での観戦を望む人々がチケットの争奪戦に疲弊していた。
SNSで「現地観戦に拘らずDAZNでの観戦でも良いのでは?」も目にした。
各々の楽しみ方でよいと思う。状況が状況だし、心も体も安全が一番だ。
だが、わたしは現地で試合を見たい気持ちが強い。
なぜだろう?
サッカーの試合展開を楽しむなら俯瞰で見られる中継映像でも楽しめる筈だ。
コロナ禍においてチャントも歌えず、声援も届けられない。
フロンパークのイベントも縮小して以前のような活気にも届かない。
それでも、わたしを突き上げる現地で見たいという欲求。
わたしは初めて等々力でフロンターレの試合を見るまで、テレビでフロンターレの試合を見たことがなかった。映像などで触れたこともなく、初めて目にしたフロンターレの試合が等々力での生観戦だった。
フロンターレのサッカーを等々力劇場を初体験したのが等々力だったことも起因のひとつかもしれない。
ただ、当時の鮮烈な記憶になっている賑やかなフロンパーク、壮大な規模のイベントもなく、スタジアムに溢れる声援もなく、チャントも響かない状況にあって「これがサッカーの試合なのか」と興奮と感動を産み出した要因は欠いている。
他に想定される起因としては、わたしには特に愛情を傾ける選手がおり、所謂、「個サポ」と呼ばれる分類のサポーターであること。
自分としては同じくらいの愛情をチーム自体にも抱いているので、そこまで個サポである自認は高くないのだが、その選手の姿を拝見できるだけで多幸感が胸を溢れ出そうになるので、それはそうなのかもしれない。
スタジアムで観戦するのはDAZN中継には映らないところまで見られることも醍醐味だと思う。
応援する選手を試合前のアップから見たい。
一秒でも長く、一瞬でも多く大好きな選手をひたすらに見続けたいという深い重い・・想い。
現役のサッカー選手でいられること、そして自分の愛するチームの選手でいることはどれだけ続くのかわからないから、刹那にですら縋り付く。脳裏の思い出のアルバムに幾許の頁をどれだけ増やせるか。
ここまで熱く語れば、そりゃお前は個サポで目当ての選手を見たいから生観戦に拘ってるんじゃねーかよ、と突っ込みも入りそうだが、それだけではない。
画面を通さず、目の前で見るということ。体感すること。
言葉で言えば「臨場感」。
臨場感は溢れる、もので
その溢れるものはどうなっているのか。ただ垂れ流している訳がない。その場にいる人間がその溢れたものを享受しているのだ。
全身全霊で選手たちが戦っているように、わたしもまた全集中をピッチに向ける。呼吸を合わせるように危機も機会も結果にも、その場で感情を昇華したい。全ての感覚を選手同様にサッカーに浸したい。
戦うものと応援するものという関係絵図で、現地観戦は同じカンバス内に描かれているように感じる。
空気感、臨場感、雰囲気。
その場の端々を小さなディティールから、目に見えない熱気までをわたしは感じている。
視覚では映像で届かないスタジアムライトの眩しさや、ピッチに伸びる選手の影、立体的なボールの動き。目を見張るボール捌き。
コロナ禍特有だがスタジアムに満ちる拍手の渦や、選手や監督、コーチの声。静かな時に響く子どもの声。それらも聴覚はスタジアムを感じる。
冬場の観戦では寒さの中で飲むホットココアや齧るホットドック、夏場に飲む凍らせたスポーツドリンクやかき氷、という冷温感と味覚。
それらに付随する嗅覚。汗拭きシートのミントの香り、まぜタンのスパイシーなニンニクの香り、ビールのポップの香りや唐揚げの油のにおい、自分が試合に行く時によく付けるお気に入りの香水の香り。
体の隅々まで画面越しとは違う刺激を堪能して、それらは癖になり中毒のようになる。
それでいで、等々力には旅行から帰宅した時のような、地元に帰った時の望郷の念に酷似したものを抱くようになっていて、これぞ「ホームグラウンド」なのである。
曖昧な感覚で言えば
試合直前とビリビリとした緊張、引き締まった選手たちの表情や立ち姿。それらを際立たせる夜空だったり、少し朗らかさを与える午後の日差しだったり。それらの情景の中で毎回必ず、「勝ちますように」と祈ること。
身体に染み込んでいて、欲してしまうんだろう。
勝っても負けても、90分という戦いの時間の共有が、選手たちとの思い出となり、同じ時を刻み共にチームの優勝を目指し歩んで行く。選手たちとサポーターが同じ方向を見据える瞬間の連続。その連続の隙間に自分を埋没させたい。90分は儚くて束の間で、それでも展開によっては伝説で永遠になる。そんなエフェメラルを味わいたい。
そんな要因たちが膨らんで、わたしは試合をスタジアムで見たい。