「やすらぎ寄席」で「芝浜」。
「やすらぎ寄席」に行って来た。
相変わらず、近所の愛宕神社の「出世の石段」を登り、お参りしてから会場に向かう。「やすらぎ寄席」は、ネタ数の豊富な立川談志師匠の直弟子の方々が、ゆったり、たっぷりと演じる会、いつも何を演ってくれるのか楽しみにしている。
今回は、談幸師匠が休演で、志遊師匠が「ふぐ鍋」。
前回観た「船徳」同様、所作や仕草が丁寧で、ひとつひとつを綺麗に演じる方だ。あまり噺を崩さずにきちんと演じている事から、その落語が持つ本来の面白さを伝えようとしているかのような硬派な落語。志遊師匠の落語に対する信頼感や、真っ直ぐな想いが伝わってきて、気持ちがいいし、実にわかり易い落語になっている。
続いて、雲水師匠の「竹の水仙」。
こちらも、丁寧に振ったマクラが落ちの工夫に効いていて面白かった。
「竹の水仙」って、色々な形でやられていると思うけど、関西弁で演る笑いの多い「竹の水仙」も、また味があっていいなぁと感じた。雲水師匠は、ちょっとキツメの関西弁やキツメの言い回しを使っても、それほど嫌味に感じず、すんなり受け入れられるし、むしろ可笑し味に変えられる方なので、その臨場感あふれるリズムが心地良いテンポの噺になっていた。論理的な語りのマクラや、少々毒のあるアドリブも、自然と受け入れられるのは、雲水師匠の人間味のなせる技なのだろう。
そして、主任のぜん馬師匠の「芝浜」が絶品だった。
全く無駄がなく、それでいて気迫のこもった高座と、それを聞き逃すまいとする張り詰めた空気感の客席。その場に居合わせた者しか味わえない最高の感覚を享受した至福の時間だった。おそらく、三代目桂三木助師匠の形を継承しつつ(談志師匠も、元々はその形かな?)、時々、談志師匠流のギャグやフレーズ、狂気が見え隠れする。病気を抱えながら幾多の稽古を重ねて来たのだろう・・・ぜん馬師匠の落語愛と情熱を見せつけられた、まさに、「聴かせる」落語だった。この日、この時間に足を運んで、これを生で観られて良かったと思える芸、家に帰るまで、いや、家に帰ってもその話でもちきりだった事は言うまでもない。師走の中頃、ぜん馬師匠の「芝浜」で心温まり、笑顔になれた夜だった。
人情噺のようでいて、しっかりと笑いどころもあり、人間の可笑しさを描いていて、セリフや言葉で、噺の中の情景や温度、師走の慌ただしさまでもを表している「芝浜」という落語の凄さや奥深さを改めて感じた、凄い噺だな・・。