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【小説】犬飼ツバサの異世界事件簿

※本作は「むつむ高校文芸部誌」という企画の秋ノ号で公開した小説のノーカット&挿絵追加版となります。

「むつむ高校文芸部誌」とは、参加者が共通のテーマを元に作った作品を持ち寄り、架空の高校の文芸部誌として刊行するという企画。秋ノ号は私含め、計7名の部員が「香に迷う」というテーマで作り上げております。

部長である透子さんのBOOTHからPDF版は無料ダウンロード、冊子版は有料で通販が可能です。部員それぞれの香り漂う作品集となっておりますのでぜひご一読ください。
それでは以下本文となります。




 トラック。異世界転移。女神。特殊能力ガチャ。
 聡明な読者諸賢の皆々様におかれましては、この十八文字をもって私の現状を把握するのに十分かと思います。

 * * *

 まぁそんな感じで異世界にやってきた(転生ではなく転移なのがミソだ)私は今、精巧な死体のホログラムが展開するところに立ち会っていた。先生が空中に浮かぶ魔法陣をタップすると、その上へ妙にエレガントなデザインのプログレスバーが表示される。そしてバーが満ちると魔法陣から足元へ、寝かせた棺のような形の半透明なホログラムが投射された。ぴ、とそのホログラムを細かく分割するような線が幾つも走る。その線の交点がそれぞれゆらりと動き、棺だったものは立体的な人間の形へと変化した。と、同時にその表面へ人体や服が表示されてゆく。3Dモデルを作る時の要領に近い。プレステ2ぐらいの時代のモデルかな、私がそんなことを考えているうちにホログラムのモデルは更に細かくワイヤーが入り、よりその造形を緻密にしてゆく。テクスチャも解像度がどんどん上がり、ローポリだったモデルはあっという間に現代の映画ばりの精巧なものとなった。まるで本物の人間がそこに横たわっているようだ……そう言いたいところだが、そのホログラムは数時間前までそこにあった死体を再現しているのである。
 先生が投影された死体の腹部をすっとピンチアウトすると、空中に拡大された傷口がでかでかと表示された。もろにその肉の断面を見てしまい、私は思わず込み上げてきたものを止めるように口元を覆う。その気配を感じとったのか先生はこちらへ振り向くと、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すまないな、ツバサ。配慮が足りなかった。部屋の外へいるといい」
 彼女を頼む、そう言って先生は同じ部屋にいた騎士を付き添わせ、私を事件現場である宿の一室から締め出した。隙のない軍服に身を包んだ美形の騎士が、果実水でもお持ちしましょうか、と気遣わしげな声をかけてきたが、私は首を横に振ることしかできなかった。
 騎士、そう、騎士だ。この世界は騎士や魔法使いのいる、しかしその割には現代的な部分も多い所謂「ナーロッパ」なのである。

 やはり面倒くさがらず、もう少しだけ詳しく私の現状について説明しよう。
 現代日本、とある事情から道路に飛び出した私は大型トラックに轢かれた。ああ、こんなところで死ぬのか。そう思いながら閉ざした意識が再び戻った時、私は真っ白な空間におり、いかにも女神! という格好をしたこの世界の女神の前にへたりこんでいたのである。事態が飲み込めない私へ女神は手馴れた様子で、あるいはカンペでも読み上げるかのように淡々と私の置かれた状況を説明しだした。その契約書じみた、胡乱で婉曲的な話を要約するとこうだ。「間違って連れてきちゃった」「死んではないから準備でき次第元の世界に帰すね」「それまでこの世界で過ごしてね」「かわいそうだから特殊能力あげるね」。
 いつの間にか女神の背後には高さ十メートルはあろうかという巨大なガチャマシンが鎮座していた。カプセルトイではなく、アメリカのデリに置いてあるガムボールマシンに似たデザインだ。女神が私の反応も待たず勝手にレバーを回すと、レールを通って次々に色のついた光の玉が出てくる。それがキラキラとしたSEを鳴らしながら弾けるたび、空中にベベルのついた極太ゴシックが表示された。どうやら私に与えられる特殊能力の内容らしい。

N 深爪にならない
R 嗅覚が鋭敏になる
N シャンプーが目にしみない
N 蚊に刺される確率が少し下がる
R 気合いを入れると目が光る
SR この世界のあらゆる言語を読み書きできる
R 泥水をコーヒー味にできる
N 深爪にならない
R 犬の鳴き声が上手くなる
N ひよこのオスに好かれやすい

 しょっぱすぎる。岩塩を舐める馬になった気分だった。しかも深爪が重なってる。言語のやつは少し便利そうで嬉しいが、たぶんSR一個は最低保証だ。つまりこの結果は最も運が悪い部類だと言っていい。やり直しを求める言葉が口から出る前に私はボッシュートされ、(玉座の前でも儀式の間でもなく)今いるこの街の広場、噴水の上へ出現し水の中へ落下した。昼間で大勢の人がいた広場は騒ぎになり、鎧を装備した騎士が数名やってきて私は詰所へ連行され、そして現代日本でいうところの取調べを受けたのだった。
 どうやらこの世界には私以外にも転移者が何人かいるらしい。もれなく転移ボーナスである特殊能力を持つ彼らのめざましい功績と、目が光る能力のおかげでほどなく私が不審者ではなく哀れな迷子だと理解してもらうことに成功した。しかし転移者の処遇に関する手続きや方針は定まっていないようで、ロクな能力を持たない私は「コイツどうするよ……」と今度は持て余すような視線を全方位から浴びることとなった。
「僕が預かろう」
 そこでそう言ってくれたのが、いつの間にか取調室的な部屋に入ってきていた先生だった。壁についていた背を離すと、カソックにも似た服の裾をなびかせながら大勢いる騎士の中央を割ってこちらへ歩いてくる。先生はテーブルを挟んだ私の向かいの席に座ると、両肘をつき、組んだ手を添えた口元で軽く微笑んだ。
「僕は××騎士団××局、西区殺人課××班の騎士だ。周りからは先生と呼ばれている」
……要は殺人専門の、刑事に似た役職の人間であると。そう自己紹介した。
「ちょうど小回りのききそうな助手が欲しかったんだ。君が僕の仕事を手伝ってくれたら助かるんだけど、どうだろう?」
 先生のその提案に、一も二もなく私は飛びついたのだった。

 回想終わり。これが約一か月前のことだ。
 私と騎士が部屋から出たことにより、幻の死体と二人きりになった先生のことを思う。この世界の人間は美男美女が多いが、漏れなく先生も顔がいい。繊細そうな眉根と静かな目線、線の細い体に色気があると思う。あまり細かいところまで覚えていないのでこれ以上の描写は省く。私は現実に生きて動く男に興味が無いのだ。各々好みの美形を想像してくれればよろしい。
 先生はこうして私を事件現場に連れてきては、筆記係だとか物を届けるだとかいった簡単な仕事を任せてくれていた。その対価にと、つましく暮らせば十分生活費を賄える程の給金をくれる。またそれとは別に、彼の家へ居候させてくれていた。郊外にある、意外にこじんまりした賃貸の一軒家は素朴で、しかし内部には質素ながらもセンスのいい調度品が揃っている。私に貸してくれた二階の部屋には、女性が好みそうな繊細な彫刻の施されたベッド、ワードローブ、机に椅子、そしてドレッサーが最初から置かれていた。どれも使われていた形跡がある。私はこれに関して何も追求しないと決めた。
 そのような感じでとても良くしてくれているのに、先程のように捜査から外されたりして給料に見合う仕事ができていないことを歯がゆく思う。ちょっと驚いただけで平気なのに。機会さえ与えてくれれば、私はもっと先生のお役に立てると思う。そんなことを考えていると、がちゃり、と背後の扉が開き先生がその綺麗な顔を出した。
「ツバサ、詰所に戻ろう。大体分かった。後は裏付けだけだ」
 そう言って彼は、私の出る間もなくあっという間に事件を解決してしまったのだった。

 * * *

 死体の外観を再現するホログラムをはじめとした、この世界の高度な魔法技術はエンターテインメントや産業ではなく、主に犯罪捜査の研究の中で発明されている。そうは見えないが、そうならざるを得ないほど物騒な世界なんだろうか。仕組みは違うが指紋鑑定や血痕調査、DNA鑑定などに相応する技術もあり、捜査技術に関しては元の世界の上位互換なのではないかと思うことすらある。おかげで事件の解決率は非常に高い……発生率が低い、ではないのが悲しいところだが。
 特に西区殺人課の事件解決率は抜きん出て高いらしい。しかしそれは捜査技術ではなく、エースである先生の推理力に拠るところが大きいのだと思う。先生は殺人現場を検分しただけであっという間に全てを推理し、事件の全容を見通してしまうのだ。後は素晴らしい捜査魔法と、優秀な部下たちに裏付けさせて解決、終わり。先生が先生と呼ばれ慕われる所以だ。
 先程の事件も、その後先生が言ったとおりの場所で言ったとおりの証拠が発見され、言ったとおりの証言が出てきて、恙無く全てが解決した。あまりにスピーディだったために午後の予定が丸々空いてしまった私達は、報告ファイル作成もそこそこに早めに仕事を切り上げ、とある屋敷へ向かうこととなった。
「急な話だからどうなるかと思ったが、無事アポがとれたよ。ついておいで、ツバサ。今から向かう屋敷のお嬢さんもニホンからの転移者なんだ。同郷の人間と話すのはいい息抜きになるだろう」
(「アポ」という言葉は、おそらく私が能力で先生達の言語を解釈しているために出てきたものだ。実際には違う言い方をしているのだと思う)

 詰所を出たところで先生はそう言って、肩にとまっている、つい先程返事を持ってきてくれた半透明な魔法の鳩の首裏を撫でた。機嫌が良さそうに鳴くその鳥は、伝書鳩に見えてその実、魔法の次元を飛び一瞬で音声データを届けてくれる代物である。つまりボイスメールだ。
 先生が懐から取り出したカードを当てると、鳥は青白い粒子に変わり、カードへ吸い込まれるように消える。真っ白だったカードに先程の鳥の姿が浮かび上がった。鳥の下には「××メールサービス By××通信」と文字が書かれている。
「行こうか。少し遠いから馬車を使おう」
 先生の言葉に私は安心した。二人連れ立って馬車乗り場へ向かうと、箱型の辻馬車がちょうど一台停まっていたのでそれに乗り込む。
 安全運転、時速二十キロほどで走る馬車に揺られながら、ゆっくりと過ぎ去る街の風景を眺める。右手には赤い屋根に白い漆喰の壁のアパートが数棟並んでおり、それぞれの窓辺に置かれた素焼きの鉢には、ナスタチウムに似た花が色とりどりに揺れていた。もうすぐお茶の時間だからだろうか、スコーンを売るワゴンの前で女性が何人か姦しく品定めをしている。街のあちこちにレンガで舗装された水路が流れており、透き通った水が秋の穏やかな太陽の光をきらきらと反射していた。水路脇の街路樹は鮮やかに紅葉しており、そういえばここは日本のように四季のある国だったな、と過去に聞いた情報を思い出す。
 ――そこへ、ばしゃり、と嫌な音が響き、私は反射的に窓から顔を逸らした。
 バカヤロー、よく見て捨てろ! という御者の罵倒が聞こえる。すみませぇん、と悪びれもしない男性の声がすぐ脇の家からした。何事もなかったかのように平然としている先生に対し、私はというと見たくない、見たくないのについ扉の窓を見てしまう。薄黄色の液体がぶちまけられていた。ガラス越しではあるが、喉の奥から吐き気が込み上げてくる。
 これは……信じ難いことだが、人間の尿だ。そう、この町の人々は、中世ヨーロッパのごとく家の中で容器に排泄をし、そしてそれを家の外に捨てるのである。どこかへ捨てにゆくのではなく、窓や扉から、通りに向かって。あまり長々と話したい話題ではないのでこれ以上の説明は避けるが、私が箱型の馬車を愛している理由がこれで分かってもらえるはずだ。
 実を言うと、この世界の人達の問題は他にもある。まず、週に一回程度しか風呂に入らない。みんなそれで気にならないらしい。洗濯もあまりしない。たくさん汗をかいたり、汚してしまえば洗うが、そうでもなければ脱いだままクローゼットにしまってしまう。それなのにみんな嫌な匂いがしない。むしろいい匂いがするのは美男美女だからだろうか。そう、美男美女だらけのこの世界で、特に先生に至っては一緒に住んでいるのに、何のロマンスも始まらない理由の一つがこれだ。毎日風呂に入って、毎日洗濯する日本人としては、この世界の人々はちょっと恋愛対象にしづらい。そのうち慣れて受け入れられるのかもしれないが、この世界に来て一ヶ月の私にはまだ厳しかった。幸い風呂や洗濯機は普通にあるので毎日使わせてもらっているが、この世界では相当な変わり者に分類されるだろう。この世界に衛生観念というものを広めたい。
「すみませんねぇ、お客さん」
 御者が馬車を停めてボロ切れで窓を拭いてくれたが、車内には少し嫌な臭いが残った。僅かな隙間から入ってきた匂いを、能力で強化された私の嗅覚は拾ってしまう。女神が憎い。

 そんなことがありつつも、ほどなく件のお屋敷へ到着した。必要以上に背の高いアイアンの門の前には剣で武装した門番がおり、タブレット的なスクロールに映った情報と先生の顔を不機嫌そうに何度か見比べた後、無言で門扉を開けてくれた。その先には見事な前庭が広がっており、彼方に屋敷の玄関ポーチが見える。門番が飛ばした鷹のメールを受け取ったらしい白髪の執事が迎えに来て、私達を「お嬢様」とやらの部屋まで案内してくれることとなった。道中、庭の植物、屋敷の主人である男爵の来歴、日本から来た転移者を「お嬢様」として受け入れた経緯、などなどを説明してくれていた気もするが、初めて見る豪華な屋敷に興味津々な私はろくに聞いていなかったのでよく覚えていない。壁にかかった静物画を眺めている間にご令嬢の部屋の前に到着していたようで、執事が部屋の扉をノックする音で我に返った。よく知らないがこういう時はまず応接室に通されるものではなかろうか。そんなことを考えていると、重厚な木の扉が内側からぐいっと開いた。よくその細腕で開けられたな、そう思わせるほど華奢な体を華やかなドレスに包んだ女の子が飛び出してきて、
「あなたがツバサね!」
と嬉しそうに私の手を両手で握った。その黒髪を脱色さえすれば典型的な悪役令嬢の見た目になるであろうその子は、しかし穏やかで無垢な笑顔を私へ向ける。
「日本人の女の人が来てくれるって聞いて、私いてもたってもいられなくって! いっぱいお話ししたいことがあるのよ!」
 彼女は握った手をそのまま引いて、私を部屋へと招き入れる。凄い歓迎ぶりだ。私が来るのを今か今かと待ち構えていたのだろう。だから応接室へ通されなかったのかもしれない。
 視界の隅に(私が気づかなかっただけでずっと扉の脇に立っていたらしい)護衛の男性と、執事が困惑したように顔を見合わせているのが映った。どうやら彼女のこの行動はよくあることではないらしい。私と先生が扉をくぐったのを確認すると、二人は一礼しながら扉を閉めた。
 そんな中でもご令嬢は先生が見えていないのか、或いは高貴な人間特有の、有象無象を気にかけない振る舞いなのか、私にだけ話しかけてくる。
「あなた、髪色が明るくっていいわね! 髪を金色にする方法を知ってたら後で教えてちょうだい!」
 この世界にブリーチ剤の類はないのだろう。確か動物の尿で髪を脱色できたはずだが、私は敢えてその知識を頭から追い出すことにした。そういうのは先程の事件で十分だ。
 そんなことを話しながら、彼女は凝った刺繍のクッションが乗った座り心地のよさそうなソファを無視し、他にも一級品であろう数々の家具の間を抜けて部屋の左手奥へ向かう。そこにはロココ調の部屋に似つかわしくない、いかつい金属の扉があった。物々しいパーツとガラス窓がついており、元の世界でいう気密扉のように見える。いつの間にか隣に立っていたメイドさん(本物だ!)が進み出ると、ハンドル脇についた魔力認証を手際よくパスする。そうして重々しい扉が開くと、

 ――ひどく嫌な匂いがした。

 これは何の匂いだったろう。何度か嗅いだ覚えがあるが、よく思い出せない。ご令嬢は全く気にならない様子で扉の先の部屋へ身を滑り込ませると、早く来て! と私を呼んだ。胃の中の物がせりあがってきそうになるのを何とか堪え、扉を押さえてくれているメイドさんに頭を下げながら入室する。ちら、と先生を見やると今までにないしかめっ面をしていた。能力で強化されていない普通の人でもさすがにこれは臭いらしい。安心しながら視線を部屋に向けると、思わず感嘆の声が漏れた。
 この光景にタイトルをつけるなら「錬金術の実験室」といったところだろうか。部屋中央の大きな机には、色とりどりの液体の入ったフラスコやビーカーに似たガラス容器、銅製の蒸留器と思しきものが置かれていた。その合間を縫うようにナイフやピンセット、注射器、太い木の枝にささったノコギリやらハンマーやらもあって危なっかしい。壁際、ガラス窓のついた棚の中には多種多様な植物の入ったガラス瓶が大量に並んでいる。他にも中の見えない大きな金属のロッカー、ハードカバーから写本まで様々な本が並んだ棚などがあった。
「私はね、精油の研究をしているの!」
ご令嬢は誇らしげに薄い胸を張った。
「私には転移の時、植物のエッセンスを抽出する能力が与えられたの。この世界にはまともなスキンケア用品なんかなかったからね、最初は自分用に化粧水や石鹸を作ったのよ。それを試しに配ってみたら大評判!」
 彼女は今や化粧品会社の社長兼研究者なんだ、と先生が後ろから小声で補足してくれた。ちょっと変わった能力だが、それが彼女の美容の知識と噛み合っていたのだろう。羨ましいことだ。
「そのうちこの家に養子として引き取られて身分を得たの。そして資金ももらって本格的に事業として立ち上げたってわけ。お義父様は元庶民だけど、その商才でこの国の発展に貢献したとして、男爵位を授与されたのよ! 凄いでしょ!」
 正直私には男爵位がどれくらい凄いのか検討もつかない。こんなに広いお屋敷を持てる程度には財力があるんだろうな、と思ったが、元々下手な貴族より稼ぐ商人だった可能性もあるわけで、あまり屋敷の規模は参考にならないかもしれない。
「販路を広げて商材として扱うにあたって、誰でも精油を抽出できるように専用の器具も開発したのよ。ほら、これ! 私が能力で作る量じゃ、とてもじゃないけど利潤が出るほど流通させられないからね。そのうちもっと楽になるように新種の魔法も開発させるつもり。この部屋は私専用の研究室で、こことは別に裏庭には製造所があるのよ。後でそっちも案内するわね!」
相づちすら打たせない勢いで、彼女は一息にそう言った。
「ほら、これ私のブランドの商品カタログ!」
その速度を落とさぬまま、彼女は商品一覧の表示されたスクロールを私に押し付けてきた。化粧水、石鹸、入浴剤、ヘアオイル、ハンドクリーム、などなど。なるほど、この部屋の異臭は様々な精油の香りが混ざったものだったらしい。
 彼女はその後も一方的に、そうしないと死んでしまうのかと疑問に思うほどにずーっと商品説明を続け、そのうち突然、
「もうこんな時間! そろそろ水蒸気三番の抽出が終わる頃だわ!」
 そう言って私たちの存在を忘れたかのようにその場で作業服に着替えようとした。ご令嬢の着替えを覗く訳にもいかず、そもそももう私達は彼女の眼中になさそうなので、護衛の人から身体検査を受けつつ(何か盗むとでも思われているのだろうか?)すぐに部屋から出る。日本の話なんて一言もできなかった。こうして先生と私は、執事さんやメイドさんから何度も謝られつつ男爵邸を辞したのだった。

 * * *

 次の日、先生と私は遅めの昼食をとるため郊外のレストランを訪れた。魔法の明かりではなく、わざわざロウソクを灯した店内は雰囲気があり、ランチというよりちょっといいディナーを食べに来る店に見える。気後れしている私に先生は苦笑を漏らした。
「遠慮せずに好きなものを食べなさい」
先生はウェイターさんから受け取ったメニュー表の、メインディッシュのページを開いて私に向ける。どうやら最初に食前酒を頼まなくてはならないような店ではないらしい。マナーなんて分からないので安心した。少し緊張がほぐれたところで、私はメニュー表に書かれた華やかな記号の羅列を能力で日本語へ翻訳してゆく。やはりというか、少々お高い。言外に奢りだって言われたし……と、食の好みと値段を天秤にかけていると、隣の席へ油の跳ねる音と湯気を連れて分厚い鹿肉のステーキが運ばれてきた。あれにしよう。鹿肉は食べたことがないけど、きっと美味しい。肉の焼ける匂いに私は屈服した。当然ながらステーキは値が張るので、遠慮して飲み物はミネラルウォーターを選ぶ。すると先生は咎めるような口調で、
「遠慮はいらないと言ったろう、ツバサ。こういった場ではそれなりの物を頼みなさい」
と言って私の飲み物をスパークリングワインに変更した。この世界において酒はほとんど水代わりで、昼から飲むのは特別なことではない。そもそもこの世界の人達は酒好きなのだ。特にスパークリングワインやビールなどの炭酸が含まれるものが好まれる。逆にワインやウイスキーはあまり人気がなく、炭酸割りを何度か見かけたかな、程度だ。ちなみに調理用ワインは普通にある。
 一足先に届いたシャンパングラスの中身が大分減ってきたころ、先生のムニエルと私のロースステーキ、それと副菜その他が同時に届く。当初の印象より庶民的で本当に助かった。テーブルに置かれたムニエルの柔らかいバターの香り、焼けた肉とスパイスの香りを思い切り吸い込む。能力で鼻がよくなって嬉しいのはこういう瞬間だ。
 心の中でいただきますをしてから鹿肉にナイフを当てると、思いの外するりと切れた。鹿のようなジビエ肉は筋張っていて固いイメージがあったのだが、それに反して柔らかい。フォークから垂れそうな肉を慌てて口に運ぶと、ぶわり、バルサミコソースと黒胡椒の香りが鼻に抜けた。肉をじっくりと噛めば、ジューシーな赤身の旨みがじわじわと口内に広がる。美味しい、と思わず口に出しかけたが我慢する。私以外の客は皆黙りこくっており、店内は静かだ。この世界の人々は食に対する反応が薄い。食事中の会話などは楽しんでいるようだが、美味しい! という反応はなかなか見ない。私なんかは料理が届いただけで手を叩いて喜んでしまいそうになるのだが。なんだか恥ずかしいので、食に関する話題は極力避けるようにしている。
 本当はレアが好きなのだけれど、柔らかく上手に焼かれていてこれならお任せもいい。そう考えながら一人味わいを楽しんでいると、突然先生の懐から騒がしい鳥の鳴き声と羽音がした。「失礼」先生はそう言って、鳩の描かれたカードを取り出しながら店の外に出てゆく。通知を切り忘れていたのだろうか。珍しい。
 ボイスメールの再生が終わったのか、ほどなくして先生は席に戻ってきた。
「ツバサ、昨日会った令嬢を覚えているかい?」
真面目な顔をして妙なことを聞く。昨日の今日だ、忘れるわけがない。
「亡くなったそうだ」
「はい?」
「捜査へ向かう。殺人の可能性があるらしい」

 * * *

 私達は噴水広場から伸びる大通りの一つにやってきた。通りはざわざわと大勢の野次馬で賑わっており、先生の部下である騎士達がそれを追い払っていた。その内の一人が私達の姿に気づくと、駆け寄ってきて洗練された敬礼を見せる。
「お休み中のところ申し訳ありません、先生」
「気にすることはない。説明は遺体を検分しながら聞くよ、ツバサは記録を頼む」
騎士は深く一礼をすると、野次馬が輪になって見守る中心へ私達を通した。見れば、通りに面した建物にほど近い空中に魔法陣が浮かんでいる。もう既に遺体は片付けられたようだ。今頃は元の世界で言う司法解剖に対応した病院へ運び込まれているだろう。
 騎士達は棒や布を持ってくると、手馴れた様子で魔法陣を囲うように即席の個室を作り上げる。最初に話しかけてきた騎士と先生、私の三人でその中へ入る、つもりだったのだが、私は先生に手で制止された。
「見る必要はない。声が聞こえる位置で待っていなさい」
 昨日の遺体に対する私の反応のせいだろう。あの時は突然のことだったから驚いただけだし、そもそも遺体のホログラム自体はそれまで普通に見ていたというのにだ。不満が顔に出ていたのだろう、「いい子だから」と先生はふと笑った。顔がいい。
 ホログラムをロードする時のじりじりとした音をBGMに、騎士が事件の概要を語り始める。数時間前、研究に必要な物を手ずから買うために令嬢とメイドは二人きりでこの大通りの店へやってきた。そこへ突然強風が吹き、通りに面した建物の窓辺から大きな植木鉢が落下。非常に、非常に運が悪いことにそれが頭に当たって令嬢は即死した。これには目撃者が大勢いる。そして植木鉢が置かれていた部屋に当時人はおらず、細工の痕跡も一切なかった。
 ……なんとも言えない死因だが、調査報告が本当ならこれは事故だろう。なぜ殺人の可能性があるということになったのだろうか。私の疑問を見透かしたかのように、騎士はこう続ける。
「死亡した人物は黒髪のカツラを被っていました。自毛はブロンドだったようです」
 影武者、という言葉が頭に浮かんだ。いや、でもカツラを被っていたからといって偽物とは限らないか。
「所長が『死体は令嬢のフリをしていた別人。この事件自体は事故だけど、本物はもう殺されてるだろうから、両方ひっくるめて殺人課に引き継ぐように』と、その、いつもの勘で」
最後の方は気まずそうに、もごもごと騎士は言った。直接の面識はないが、私も所長の人柄は聞き及んでいる。とはいえ勘でこんな風に人を動かすほどだとは思っていなかった。騎士団の命令系統はどうなっているんだろう。
 これまでずっと黙り込んでいた先生が、顎を撫でながら口を開いた。
「いや、所長の勘はおそらく正しい。令嬢は既に殺されて亡くなっているだろう。この少女はトゥイーニー(ハウスメイドとキッチンメイド両方を兼任するメイド)だ」
「へ?」
「へ?」
 私も騎士も一緒に驚きの声を上げた。思わず二人で覆いの布越しに顔を見合わせた、気がする。
「十中八九男爵邸で雇われていた者だろう。昨日今日だけではない、おそらく二週間以上前から令嬢とすり変わっていたはずだ」
 先生と騎士はホログラムを操作して遺体を細かく調べ始めたようだ。覗き込む姿勢になったらしく急激に声量が落ち、会話がほとんど聞き取れなくなくなった。騎士の「ああ!」「なるほど!」という感心の声だけが辛うじて聞こえる。それから数分後、立ち上がった様子の先生の声が私にもようやく届いた。
「ここからは少し集中して調べたい。悪いが君も席を外してくれないか。ツバサと一緒に離れた所へ居てくれ」
 歯切れのよい返事の後、騎士は覆いの外に出てきた。参りましょうか、と言う彼と一緒に少し遠くへ移動する。先程より少し減ったように見える野次馬の合間から噴水広場が見えた。転移してきた時私は運よく噴水へ落ちたが、人の上に落ちて誰かを傷つけていた可能性もあったのだな、そう考えて複雑な気持ちになる。
 この手すきの内にと、騎士から先程の先生の推理について尋ねてみた。遺体の手に調理中についた思しき切り傷や火傷の跡があったこと、しかし手荒れはほとんど治っていること、そして髪や肌のツヤなどからあの推理に至ったらしい。しかしなぜ男爵邸で雇われていたトゥイーニーだと思ったのか、なぜご令嬢が殺されたと思ったのか、それらについては説明してもらえなかったようだ。
 そんな話をしているうちに、検分を終えたのか先生も覆いから出てきた。そしていつもの推理が始まる……と思いきや、先生はなんだかげっそりした表情で「参った」とため息を吐くだけだった。
「男爵邸も調べたい。悪いが捜査の……」
「申し訳ありません」
騎士は先生の言葉を半ばで遮る。
「それができないようで」
「は?」
今度は先生が声を上げる番だった。
「男爵に連絡いたしましたところ、邸内での捜査を拒否されたそうです。邸の人間にも一切話はさせないと。ちょうど今朝、地方の城から戻ってこられたばかりだったようなのですが、直接男爵邸へ向かった騎士達も凄い剣幕で追い返されたとのことで。門すらくぐらせてもらえなかったらしいですよ。『騎士なんぞにビジネスの情報を探らせてたまるか』などと言っていたらしく……」
「まさか。僕たちがリークするとでも思っているのか。捜査中に取引のデータでも盗んで? あるいは未発表の新しい石鹸の効果でも?」
珍しく先生は苛立った様子でそう言った。騎士は警察のような国家権力だと思っていたのだが、どうやら男爵の権力に負けるらしい。捜査令状が出ればどこでも立ち入れる、というわけにはいかないようだ。警察のその辺りのこともよく知らないけど。
「それに、それではさすがに彼女が不憫だ」
 先生はそう言って目を伏せた。彼女、というのは本物のご令嬢のことだろう。先程の先生の言葉通りなら、昨日私たちが会ったのは偽物だったはずで、本物のご令嬢が「義父様」をどう思っていたのかは分からない。だが少なくとも男爵は、義理の娘の安否調査よりも自身の商売を優先したから捜査を拒否したはずだ。それは単に非情なのかもしれないし、あるいは本物のご令嬢の死に関わっており、真相など知る必要がない、知られたくないのかもしれない。
「申し訳ありません」
「君のせいではない。すまないな、声を荒げて。しかし僕も一応男爵邸に出向いてみよう。入れなくても周囲はざっと見ておきたい。周辺の聞き取りは?」
「おこなっておりますが芳しくはありませんね」
「後で目を通すからまとめておいてくれ。できたらいつもの所へ頼むよ」
「承知しました」
 先生は少しばかり調子を取り戻した様子でこちらへ振り返った。
「では行こう、ツバサ」

 * * *

 男爵邸の門前は大賑わいだった。どこから聞きつけたのか一般人らしき野次馬と、レコーダー的な物を掲げた記者でごった返している。
「男爵邸へ引き取られた転移者が不幸な事故で死亡、かと思いきや死体は偽物? 本物の異世界お嬢様はどこへ! 世界をまたいだ陰謀! うちは特集組むよ! 明日の朝刊をよろしく!」
と大声をあげて野次馬に明日の新聞の宣伝をしている少年もいた。すごい見切り発車だ。こうして偽物説がもう流布しているということは、遺体のカツラが取れているところを見た人間がいたのだろう。そしてそこから妙な広がり方をしている……今回の事件は私が思っていた以上に世間の興味を引くニュースだったらしい。
 そういえば、この世界にはネットやテレビといったものがないことを思い出す。人々の娯楽は新聞のスキャンダルぐらいだ。ボイスメールの要領でラジオなら一瞬で開発できそうだし、魔法の次元なんてサーバーとして使えたら凄いことになりそうだけれど。しかし通信はできないものの、タブレットやスマホのように使えるスクロール(文字通り巻いて収納出来る。めちゃすごいフレキシブルディスプレイみたいな感じ)はあったりする。この世界の技術はどうもちぐはぐだ。
「すごいことになっているな」
そう言う先生から紙幣を受け取った御者は、興味を惹かれた様子で野次馬達をちらちらと見ながら、ゆっくり時間をかけて去ってゆく。それを見送っていると突然、
「旦那様は誰にもお会いにならない! 我々も何も語らない! 散れ!」
という怒号が聞こえてきた。見れば門の前で、昨日の門番が野次馬を押し返していた。他にも屈強な男達が数人がかりで門を守っている。
「やはり話を聞くのは難しいか。僕は時計回りに邸宅の周りを歩いてみる。ツバサは逆回りに」
 ため息混じりの先生の言葉に私は頷くと、いざ別れて邸宅周辺の調査を開始した。何を調べて欲しいのか先生は言わなかったが、聞けばたぶん「なんでも。ツバサの視点から気になるもの全てだ」と答えるだろう。いつもの先生の台詞だ。
 今回は私なりに考えて、周囲の建物に屋敷の中を覗きこめるような、あるいはロープでも張って侵入できるような高い窓や足場がないかを中心に見ることにした。この程度のことは騎士達がもうやっているだろうが、今の私にはこのくらいしか思いつかない。屋敷の塀は手をかけて登れそうな石積みだが、凶悪に光る忍び返しが取り付けられている。時折塀の一部がアイアンの格子になっている部分があり、そこから邸内の庭の様子が窺えた。ちょうど近くを警備員らしき男性が犬を連れて歩いている。
 そういえば先生はどう調べているんだろう、と振り返って野次馬の向こうへ目を向けた。先生は格子になっている部分から塀の中をずっと眺めている。何を見てるんだろう、そう思ったところで、先生はぱっと弾かれたように顔を上げた。その視線を追うと、先生から幾分か離れた場所、塀の中から一筋の煙が立ち昇っている。そこへ向かって慌てて走り出す先生を追って、私も駆け出した。先生の走る姿は初めて見る。その細い背中に……あっという間に追いついてしまった。先生、めちゃくちゃ足が遅い。追い越していいものか迷っているうちに、塀の向こうから煙が出ている箇所に辿り着いた。そこもちょうど格子になっていたので、二人で競うように中を覗き込む。
 塀の中はちょうどランドリールームの勝手口付近だったらしく、数名のメイドさんがカゴからシーツを取り出しては物干しロープにかけているところだった。濡れたシーツを大量に干すのはやはり大変なのだろう、皆真っ赤な顔をしている。
 揺れるシーツの風下には小さな川が流れていた。井戸の代わりにこの水を洗濯に使っているのだろう。どうやら男爵邸はランドリールームを設けるぐらいにはこまめに洗濯するようだ。なんだか嬉しくなってしまう。
「何をしている!」
 隣に立つ先生が突然大声を上げた。視線は川近くに立っている二人のメイドに向いている。驚いた様子で振り返った彼女たちの足元では焚き火が燃えていた。先生の咎めるような言葉を受け、その内一人が落ち着いた足取りでこちらに向かってくる。この場にいるメイドさんの中では一番薹が立っており、明らかに他より洗練されたデザインのドレスに身を包んでいた。よく見れば、ご令嬢の部屋で見たメイドさんだ。彼女は私たちの元へ到着すると、優雅なカーテシーをしてみせた。
「いかがなさいましたか、騎士様」
どうやら時折新聞に写真の載る先生の顔を知っていたらしい。先生は顔をしかめると、相手の悠長さに苛立った様子で尋ねる。
「あれは何を焼いている?」
「はぁ、落ち葉ですが……」
 言われてみれば、確かに火のそばには幾らかの枯葉の山があり、レーキも近くに置かれている。秋のこの季節だ、落ち葉の処理はするだろう。しかしここだと洗濯物に煙の匂いや、火そのものが移らないだろうか。
「それだけではないな。中央の塊はなんだ?」
先生は少し強めの口調で言った。事件に関する物が燃やされている可能性を危惧しているのかもしれない。証拠隠滅、的な。対してメイドさんは口元に人差し指を立て、

「他言しないと約束してくださるのでしたらお教えしますわ」
と薄く笑った。騎士相手にも随分物怖じしない。先生がいつの間にか私達を取り囲んでいた野次馬一人一人にお金を握らせて退散させると、メイドさんはにっこり笑って焚き火の元へ戻った。私も先生と共に聞いていいらしい。レーキと共に置かれていた火バサミで燃やしていたものを取り出すと、私達に向かって軽く振って見せる。はらり、と畳まれていたらしいそれが広がり、焼けた先端の灰が落ちた。
「見ての通り、布です。シーツですわね」
彼女はそれを再び火にくべると、他のメイド達の心配そうな視線を受けながらこちらへ戻ってきた。
「なぜシーツを燃やしている」
「それが……新入りのメイドが粗相をしまして。洗っても落ちない泥汚れをつけてしまったのです」
「そのまま捨てればいいだろう。なぜわざわざ燃やす」
「この屋敷では物一つ捨てるのも一苦労するのです、騎士様。このシーツを捨てようとするなら、まず汚したことをこっぴどく叱られた後、大体この様な内容の書類作成が必要になります。『クイーンサイズのフラットシーツ一枚、お嬢様の部屋で使われていたもの。足元に大きな泥汚れ』。その書類と共にシーツを持っていきますと、会計係が検分します。そしてこう言うのです……『もっとよく洗えば落ちる汚れに見える。もう一度しっかり洗え』。落ちないと言っておりますのに。洗い物に関しては私達こそプロフェッショナルですのよ。ですがそんなこと言えませんので仕方なく洗い直して、『シミ抜き済み』の一文を付けた書類を、なぜかまた一から作り直して、もう一度提出するのです。すると今度は『落ちないはずがない。俺の見ているところでやって見せろ』。私達が懸命に洗っているところを長々と見せつけて、それでようやく納得したと思えば『分かった。では細かく切ってハウスメイドに渡せ。雑巾にさせる』。信じられます?」
「それならこっそり焼いた方が早いと」
「ええ。我々メイドは自由に外出もままなりませんので、邸内で処分するならこれが一番手っ取り早いのです」
 そのやり取りにふと疑問が湧いて、私はおずおずと挙手しながら尋ねた。
「あの、そんなにケチ……いえ、物を大事にするお屋敷なら、物の数も把握してたりしないんですか?」
購入、廃棄時の記録はもちろん、定期的に棚卸しなんかもしていそうだ。勝手に処分したらバレてしまうのではないだろうか。
「ええ、もちろん。ですので数に入れない予備をこっそり用意してますの。屋敷に備品を卸している商人に少々お気持ちを受け取っていただいて、全く同じ物を」
他にもっと手段はないものだろうか。というか、お金はどうしてるんだろう。お嬢様の部屋の調度品から推察するに、シーツ一枚とってもそれなりの額になるだろうに。
「どうしてそこまでするんです?」
「私達、とっても忙しいのです。あの会計係に付き合っていたらいつまでたっても仕事が終わりませんわ。仕事が遅いからとクビにされた者もおりますのよ。安全を買うと思えば、シーツ代なんて安いものですわ」
 それを聞いて、小さな喫茶店でバイトしていた時のことを思い出した。閉店後のレジ締めの時、計算よりレジの中の現金が少ないと先輩がよくポケットマネーを足して帳尻を合わせていたのだ。ミスを直すよりこっちの方が早くて楽だから、と。そういう感覚なのだろうか。このメイドさん、シーツだけでなくあらゆる物でこんなことしてそうだ。ここで、しばらく静観していた先生が呆れたように口を挟む。
「すごいな、君は」
「お褒めに預かり恐悦至極に存じますわ」
嫌味も綺麗にかわされた。
「あの、私達がこの後会計係の方に今の話を伝えるとは思わないんですか?」
「まさか! 内密にと約束した話を騎士様達が漏らすだなんてこと。想像することすら無礼ですわね」
 そうだ、騎士の名誉に関わるのだった。強い。この人は敵に回したくない。慇懃無礼が過ぎるし。
「悪かったよ、仕事の邪魔をして。もう去るから安心してくれ」
「いえ、お疲れ様でございます。こちらこそ愚痴を聞かせてしまって申し訳ございませんね」
 優雅に手を振るメイドさんに見送られながら私達は再び調査に戻ったが、疲労以外得るものもなく、すごすごと退散することになったのだった。

 * * *

 捜査は行き詰まり始めていた。大通りの現場は、調べても調べてもあれが不幸な事故だったということを補強する情報しか出てこない。男爵の宣言通り邸には入れず、住人達もだんまりを決め込んで引きこもっている。
「遺体だが、男爵邸の使用人であっていたようだ。東区の孤児院出身で、つい三ヶ月前に男爵邸で住み込みの仕事が決まり、院を出たばかりだったらしい」
 詰所に戻った私達は二人きり、先生の執務室で騎士達の纏めたデータを確認していた。男爵邸の外部の人間から、遺体の人物に関する情報が少しは出てきたようだ。
「東区は行ったことありませんけど、少し治安が悪いんでしたっけ」
「ああ。昼ならまだしも、夜は決して一人で立ち入らないように」
「はい」
「それで彼女だが、少々手先が不器用で自虐的なきらいはあったようだが、特になにか問題を起こすような人物ではなかったようだ。逆に男爵家の方は良い噂がないようだな。男爵も令嬢も、一緒に外出した使用人を手酷く扱っているところを見たという証言がいくつか出ている。彼らは羨まれる立場だったからな、真偽のほどは分からない……と、言いたいところだが」
「他にも問題が?」
「先程孤児院と言ったろう。男爵邸の使用人は多くがその孤児院から迎え入れられた者らしい」
「雇用機会を増やしてくれること自体は良いことのように思えますけど」
「他になかなか働き口が見つからないのをいいことに、相当な薄給で雇っているそうだ」
 今のところ分かっているのはこれくらいだ、と先生はスクロールを閉じた。
「今騎士団総出で男爵にかけあっている。一度きりだが、短時間少人数での捜査なら勝ち取れそうだ」
 先生はそこで言葉を切ると、私の顔を真正面から真顔で見つめてきた。
「ツバサ」
「はい」
「令嬢が邸内で殺されていたとしたら、どこだと思う?」
 メタ的な予想をするなら、ご令嬢の部屋か研究室だろう。というかその二部屋しか入っていないので、それ以外の場所を想像するのが難しい。ああいうお屋敷にどんな部屋があるものなのかも分からないし。困った顔の私を見て、先生はデスクに肘をつき指を組みながら目を細めた。
「いい機会だ。ツバサ、君にも教えておこう。このことは騎士団でも一部の者にしか打ち明けていないんだが」
「は、はい」
先生の真剣な様子に、私も姿勢を正した。
「僕も転移者だ」
「え?」
「君とは違う世界からだがな。もちろん僕も特殊能力を貰った。そのうちの一つが『死者と会話ができる』というものだ」
「はい?」
「死者の魂を呼び出して話すことができるんだ。その死者が『自分はここにいる』と認識している場所を数秒見つめる必要がある。僕は今まで多くの事件をこの能力で解決してきた」
笑いたかったが冗談ではなさそうな雰囲気だったし、そもそも先生は冗談を言うタイプではない。信じることにする。魔法でも推理力でもなく、転移ボーナスの特殊能力が結局一番凄かったわけだ。何だか悲しい。
「自分が死んだ時の状況、時刻、犯人。死人は多くのことを知っている。ふいを打たれた被害者もいるが、本人から聞いた人間関係から犯人を割り出せることも多い。少なくとも今まではそうだった……と言っても、まだこの仕事について三ヶ月しか経っていないけれどね。転移してきた直後、騎士団の殺人課に入団希望を出したんだ。能力のおかげかすんなり通ってね。殺人課がこの能力を唯一活かせる場だと思ったんだ」
 先生も転移者だなんて考えたこともなかった。私と出会った時点で、先生もこの世界に来てからまだ二ヶ月しか経っていなかったのだ。あんなに馴染んでいたのに。でも納得できる部分もあった。私を引き取ってくれたのは親切心だけではなく、同じ転移者だという仲間意識もあったのだろう。ご令嬢に会わせてくれた時、わざわざ私のために彼女のことを調べてくれたのかと思っていたが、転移者同士、元々接点があったのかもしれない。成り代わりを見抜けない程度の、だが。
「大通りの遺体の魂もあの場で呼び出せたが、頑なに口を閉ざして何も教えてくれなくてな。三ヶ月目にして初めての事態だ」
 先生は軽く首を振った。

「だが、それでも分かることはある。魂というのは本人が自身をどう認識しているかで姿を変えるものだ。彼女はメイド服で、頭から汚水をかけられた哀れな姿だったんだ。たぶんあの感じは、掃除で使ったバケツの水かなにかだと思う。それをかけられて、『お嬢様』とはまるで違う、汚水がお似合いの哀れな人間だと『誰か』に言われたのかもしれない」
先生は心底胸糞悪そうに吐き捨てた。
「そして更に彼女は血まみれだった。彼女自身はケガをしていないにもかかわらず、だ。体への血の付き方から、至近距離で被った返り血だと判断した。その血の量は多く、仮に全てが一人の人間から、一度に出た血だとしたら確実に死亡している」
 先生はその被害者をご令嬢だと思ったからあの推理だったのだろう。遺体の人物がご令嬢を殺し、成り代わったのだと。
「彼女のメイド服は男爵邸で見かけた一番格下のものだった。一緒に行った時大勢のメイドを見かけただろう。突然の訪問だったから客人の目につかないようにするのが難しかったんだろうな。使用人は下っ端になればなるほど摩耗して型の古い服を着用していた。使用人の服はどんどんお下がりにしているんだろう。手の傷とかぶった汚水、服から僕は遺体の人物が男爵邸の最も下働きのトゥイーニーだと判断した」
お屋敷の調度に夢中でメイドさん達を見ていなかったことは黙っておくことにした。
「ここから先は僕の想像だ。犯人は令嬢と諍いを起こし、そのまま勢いで殺害してしまった。彼女は他のメイド達に泣きつく。彼女は新入りだが、同じ孤児院出身の先輩が邸には大勢いたし、なにより令嬢はその態度から使用人達に嫌われていた。犯人側に同情し協力する者が何人かいたのだろう。犯人は令嬢に背格好や顔が似ていたため、協力者のうち誰かが一時しのぎとして令嬢へ成りすますことを提案した。証拠隠滅なり、犯人を逃がす準備をするなりの間だけでも、とね。令嬢より新入りメイドの方が失踪しても問題視されないだろう」
 そういえば、偽物のご令嬢は私の髪色に言及していた。今思えば、あれはカラーリング剤やブリーチ剤の存在を知らない人間の発言だったかもしれない。髪を脱色したと言い張れば、変装のためカツラを被らなくてもよくなり偽物だとバレづらくなる。髪色を大胆に変えることで、顔の違いもごまかしやすいかもしれない。
「しかし成り代わりが思いの外疑われず、このまま完全に犯人を令嬢に仕立て上げられるのではないか、と彼女らは欲をかいた。しかし不幸にも事故が起こり、成り代わりはこうして世間に知られることとなったという訳だ。でもまぁ、時間の問題だったろう。いつ身内から通報されてもおかしくないし、そもそも転移者のフリをするのは無理がある」
偽物の彼女が饒舌だったのは、私に口を挟ませないためだったのかもしれない。ご令嬢が得意げに語っていた事業に関してなら話せても、日本の話になったらボロが出てしまうから。
「僕の能力で推測できるのはこれくらいだ。令嬢の事件を解明するには情報があまりに少なすぎる。男爵邸を調べられるのは一度きり、それも短時間のみだ。遺体を発見できれば一番だが、それは難しいだろうから魂の方へ狙いを絞る。僕が初めに令嬢の魂を呼び出して話を聞き、それを元に最低限の証拠を集めるのが最善手だと思う」
つまりいつも通りというわけだ。
「問題は令嬢の魂のありかだ。死者は大体死亡現場か、長く遺体の置かれていた場所にいることが多い。屋敷中を見て回る時間はないだろうから、ある程度の決め打ちが必要だ。ツバサの意見を聞きたい」
 先生が私を頼ってくれている。全力で応えなくては。幸い、今回は難しい推理は必要ない。今私に求められているのは、先生が言った通り「ご令嬢の死亡場所、もしくは遺体が長時間置かれていた場所」の解答、そしてその根拠だ。
「少し考えさせてください」
「ああ」
 自分なりに情報を整理しようとスクロールを開いたが、どうにも事件と違う方向に思考が逸れて集中できない。邪魔になるかもしれないが、少し先生に質問させてもらうことにする。
「あの、なんで先生も転移者だって今まで教えてくれなかったんですか?」
「僕が入団した当時は騎士の転移者への反発が強かったんだ。所長の尽力もあって今では受け入れられているが、なんとなくね。すまなかった」
「いえ。でも死者と話せるなんて凄いですね。レアリティはなんだったんですか?」
「レアリティ? ああ、なにか女神が言っていたな。たしかURだった気がする」
 ウルトラレア。
「他にSSRが2、SRが4、Rが4だったはずだ」
 格差が凄い。
「いいなぁ。私なんて一番いいのでSR、あとはRとNばっかりですよ」
 私がそう言うと、先生は怪訝そうな顔をした。レアリティにNがあることすら知らなかったのかもしれない。そういえば先生に詳しく能力の話をしたことはなかった。なんとなく低レアさ加減が恥ずかしくなって目を伏せると、更に恥ずかしいことにお腹がぐう、と鳴った。急激に顔へ血が上る。
「すみません!」
「いや、謝ることじゃない」
先生は気が抜けた様子で笑った。今日の昼、急いで捜査に向かったので昼食を食べきれなかったのだ。先生はゆっくり食べて後から来なさいと言ってくれたが、先生が行くのにそういう訳にもいかない。非常にもったいなかったが、半分以上残してレストランを去ったのだった。
「すみません、何か買ってきてもいいですか」
「もちろんだ。焦る必要はないからゆっくり行ってきなさい」
「先生もなにかいりますか?」
「そうだな、じゃあ白身魚のフライサンドをお願いするよ」
「分かりました、行ってきます」
 すっくと立ち上がると、先生の「気をつけて」という言葉を背に詰所を出て近くの魚屋に向かう。肉屋さんのコロッケみたいに、そこのフライサンドがおいしいのだ。ソースも絶品。あまり先生を待たせたくないので、私も同じものを買うことにする。
 ほどなく辿り着いた魚屋の店先を覗き込むと、当たり前だが生臭い匂いがした。嗅覚が強化されている私には少し辛い。今は秋だからまだマシだが、私がこの世界に来た直後は酷いものだった。店の裏に置かれた、夏の暑さで傷んだ生ゴミの匂いが表にまで漂ってきていたのだ。
 店主にサンド二つを頼みながら当時を思い出していると、ふと、あることに思い至る。まさか。頭の中に浮かんだ冗談めいた言葉が、すとんと胸に落ちた。

 私は踵を返して詰所へ走りだした。「おい姉ちゃん、サンドは!?」という店主の声が聞こえたが、それどころではない。一刻も早く先生に伝えなくては。いや、それより先に一つ確認しなくてはならないことがある。
 なぜ今まで気が付かなかったのだろう。文化の違いがあるとはいえ、違和感はいくつもあった。察しがいいか、もっと人と会話する人間だったら気づくのに一ヶ月もいらなかったはずだ。

 なぜ平気で糞尿を道に捨てるのか。
 なぜ入浴も洗濯もあまりしないのか。
 なぜご令嬢の製品カタログに、真っ先に作ってもおかしくない「あれ」がないのか。
 なぜワインやウィスキーより、炭酸の入ったお酒が好まれるのか。
 なぜ皆あまり楽しそうに食事をしないのか。
 なぜメイド達は洗濯物のすぐ近くで焚き火をして平気だったのか。
 そしてなにより、なぜ彼女達はあんな手落ちをしたのか。

「先生!」
 バン、と派手な音を立てて執務室のドアを開ける。先生は伏せがちな目を丸く見開いていた。
「一体どうしたんだ、ツバサ」

 だって、同じだと思うじゃないか。
 この世界の人間は、私と同じく頭と胴と手足があって、顔には目が二つ、鼻と口が一つずつ付いている。私の知っているかぎりこんな設定のなろう小説はなかったし、女神のくれた能力はミスリードだし。

「先生、この世界の人達って……」
 私は走ったせいで荒れた息を整えながら、もしかして先生には伝わらないかもしれない言葉でこう言った。

「嗅覚が、ないんですよね?」

 * * *

 そこからあっという間に事件は解決した。先生は男爵邸の研究室――腐乱死体の匂いの立ち込める部屋でご令嬢の魂を呼び出すことに成功し、成り代わっていたメイドに殺されたことを聞き出し、騎士達はその証拠を短時間で見事に見つけ出してみせた。証拠品は色々あったが、一番大きかったのは邸内に流れている川の中で澱に引っかかっていた歯だ。それと製造所、メイド達も入れなかったそこのご令嬢専用キャップに残った髪の毛のDNAが一致した。
 捜査に入った翌日に出たその結果を、男爵邸に送り付けられた時点で彼女らは観念したらしい。なんと屋敷で雇われていたうちほとんどのメイドが自ら出頭、殺人に関わったことを自白した。
 事件の真相は概ね先生の推理通りだったが、唯一予想外だったのが遺体の状態だった。私達が訪問した時にはもうメイド達による遺体の処分(嫌な表現だ)はほとんど済んでおり、研究室のあれはほぼ残り香だったらしい。先生が邪魔したのであまり詳しくは聞けなかったが、遺体は残酷な手段を用いて処分されたようだった。ご令嬢が殺された研究室には様々な道具があり、ランドリーメイドが「下着が入っている」とでも言えば部屋の外の護衛は洗濯物のバスケットの中に本当は何が入っているか検査できないし、ハウスメイドは今の時期なら外で焚き火をし、出た灰を川に流しても怪しまれることはない。そうしてメイド達は少しずつ少しずつ、時間をかけて遺体を処理しきった。川で歯が見つかったのはそういうことだろう。その後彼女らは屋敷内を徹底的に清掃したが、あの密閉扉で区切られた部屋の換気は行わなかった……腐った死体に匂いがあるなんて思いもよらなかったから。そして扉には窓がついていたため、彼女たちは「作業」の間以外は遺体をシーツで包んでロッカーに隠していた。一番最後、そのシーツを燃やしているところを私達が目撃したのだ。
 不憫なのはご令嬢である。殺されて魂となった彼女は、目の前でメイド達が自身の遺体をどう隠滅するかの話し合いを行っているところを見た。そしてバスケットに入るほど、小さな焚き火で燃やせる程細切れにされ、骨が砕かれるさまから目を逸らすことも叶わなかったのだ。

 事件はそうして幕を下ろしたわけだが、私はというと――その後完全に警察犬と化していた。この世界の人々にしてみれば、匂いなんて全く新しい概念だったのだ。他にも転移者は何人かいたが、先生をはじめ皆嗅覚のない人達だったらしい。じゃあなんで顔に鼻がついてるんだろう。謎だ。或いは嗅覚がある私の世界の方が実はレアだったりするんだろうか。
 ともかく私は証拠品の匂いを嗅いだりして、先生ほどではないが捜査で活躍するようになった。なんだか徐々に精度と感度が上がってきたので、もしかすると能力にはレベルと経験値が設定されているのかもしれない。
 そんなある日、私は執務室で一人捜査へ向かった先生の帰りを待っていた。起きたばかりの事件でホログラム化が終わっておらず、実際の遺体を見る形になるからと先生に置いていかれたのだ。なんだかどんどん過保護になっている。
 別に平気なのにな、私がそうぼやいていると背後からノックの音がした。先生のお帰りだ。
「おかえりなさい」
 そう言って扉を開けたが、先生はいつものようにただいまとは言ってくれなかった。少し青ざめた表情で私を見ている。本物の遺体にあてられでもしたのだろうか。
「座ってくれ、ツバサ」
「はい」
先生は自身のデスクチェアに身を投げ出すように座ると、天井を仰ぎながら手の甲で目を覆った。
「大丈夫ですか、先生」
「探り合いは得意じゃないから単刀直入に聞く。ツバサ、君がこの世界に来た時の話だが」
「突然どうしたんですか」
「顔が血まみれだったんじゃないか」
 ぎしり、と私の体は強ばって軋んだ。
「僕の得た特殊能力には『匂いが見える』というものもあったんだ。しばらくなんのことか分かっていなかったんだが、君のおかげで『匂い』というものを知ってやっと理解できた。匂い、要は嗅覚を刺激する空気中の物質が、僕には色のついた靄のように見えるんだ」
 ふと、初めて研究室へ入った時のことを思い出した。嗅覚がないのに先生が顔をしかめていたのはそのせいだったのか。あの部屋の強烈な匂いのせいで、先生の視界は濃い靄に遮られていたのだろう。それでろくに部屋の中が見えず死者を呼び出す能力が発動しなかったのかもしれない。
「今日本物の遺体を見て分かったんだ。初めて出会った時、君の顔に張り付いていたのは血の匂いだった。この世界に来た直後、君は噴水へ落ちたそうだな。一瞬で状況を理解した君は咄嗟に噴水の水で顔を洗ったが、匂いは落ちきらなかったんだろう。今思えば、君の髪の先と襟元には汚れが付いていた。あれは血だったんだな。この世界の人間は入浴も洗濯もあまりしないからね、多少の汚れは誰も気にとめない。でも君の明るい髪色に赤黒い汚れは目立っていたよ」
先生は一度そこで言葉を区切った。

「僕はね、ツバサ。特殊能力をもらう時、女神にこう言われたんだ。『あなたは欲を抑え善人として生きていたため、レアリティの高い能力が出るガチャを引かせてあげます』と。君はなぜ極端にレアリティの低い能力ばかり持っている?」
「……」
「君はこの世界に来る直前、トラックとやらに轢かれたと言っていたな。顔だけ血まみれの状態で、なぜ道路に飛び出した。君は一体……何に追われていた?」
「先生」
「ツバサ、今僕は最悪な想像をしている。違うならどうか否定してくれ。君は誰かの大怪我に巻き込まれ、助けを呼ぶために道路に飛び出したのだと。ひどい言いがかりだと、運が悪いだけだと言ってくれ」
「私も、先生に聞きたいことがあったんです」
私の冷えた言葉に、先生は瞳へ失望の色を滲ませた。
「犬って人間の感情をよく分かってますよね。言葉そのものに声色や表情、心拍数……いろいろと手がかりはあるでしょうが、匂いも犬にとって人の感情を読み取るヒントになるんですよ」
「何の話をしている」
「先生。先生はどうして……遺体を見る時、悦んでいるんですか?」
「……!」
「今までは事件を解決できる喜びとか、仕事のやりがいに対するものかと思ってました。でも今朝、ホログラムではなく本物の遺体を見に行けると知った時、先生からぶわり、と噎せ返るような喜びを嗅ぎ取ったんです」
「違う」
「先生はどうしていつも遺体と二人きりになりたがるんですか。前の世界でどんな欲を抑えていたんですか」
「やめてくれ」
「どうして殺人課が唯一その能力を活かせる場だと思い込んだんですか。私だったら教会に勤めますよ。亡くなった方の未練を聞いたり、残された遺族の方へ寄り添うのに能力を使います。あるいは保険の調査員なんかもいいかも。血生臭い殺人課にしか目がいかなかったのはなぜですか」
「僕は、」
「私達、似たもの同士なんですよ。先生」
 前の世界での私の行いを、この人は裁けない。しかし止められるわけにもいかないのだ。せっかくこの世界で殺人がどのように捜査され、罪人がどう罰されるか分かってきたところなのに。
「ねぇ先生」
 優秀な騎士がいても犯罪発生率は減らず、専門の課が作られるほどに殺人が多い。メイド達は遺体を処理するのにわざわざ残虐な方法をとる。ここはそういう人間が集まる世界なのかもしれなかった。

「私、お役に立てますよ」