【小説】鉢底の煙草
タバコの香りが似合う女性だった。
私は古い人間なので、一種の差別意識とでもいうのか、ともかく女性がタバコを吸う事に否定的な感覚を持っていたのだが、彼女に対してだけはそういったネガティヴな感情を抱く事はなかった。
紫煙越しに見える細く長い指先は女性にしては随分節くれだっており、時に灰色がかってさえ見える不健康な肌色、油っけのないばさりと広がった髪と、ともすれば老婆とも見間違えかねないその容貌に、くしゃりと歪んだ煙草の箱はあまりにも似合っていたのだ。濁ってこそいないが光を通す事もない、暗く無機質な瞳の底にはいつでも死が横たわっている気配があって、その奥に私の姿が反射しているのだと思うといつもひどく満ち足りた心地になった。
ありのままそれを伝えた時、珍しく彼女が笑ったのを覚えている。片方の口の端を吊り上げて、頬骨を浮かす様な独特の笑顔だった。その後べったりとした口紅が塗られた口元から、顔にタバコの煙を吹きかけられたのも決して不快ではなかった。喫煙は緩慢な自殺である、というのが私の自論だ。だから煙を目の前で吐かれた時、一緒に死のうと心中を持ちかけられた様な気持ちになって、寧ろ上気する様な悦びを覚えたものだった。
いつも彼女と会っていた屋上は、元々私だけの場所だった。職場の入っている古ぼけたビルの屋上へ続く扉には、本来の鍵が壊れているからだろう、取っ手に太い鎖が渡され、それに如何にも屈強そうな重々しい南京錠が取り付けられていた。しかしその錠も壊れており、鉄壁と見せかけてその実、哀れにもただぶらりと垂れ下がっているだけだったのだ。それに気づいているのが自分だけなのをいい事に(あるいは警備の人間などは、見回り箇所が増えて面倒だ、と敢えて気づかないふりをしていたのかもしれない)、休憩時間など、時折隙を見て侵入していたのである。
学生時代、所謂便所飯を嗜んでいた私にとって、他に誰も来ない屋上は仕事場の中で唯一安心できる場所だった。ひび割れては何度も修復を繰り返した様子のコンクリートにはいつも雨水が溜まっており、何処からか飛んできたコンビニのレジ袋や木の皮などが隅で固まっていた。陰気な自分には如何にもお似合いの場所で、そろそろカバンに入るサイズの、小さな折りたたみ椅子でもこっそり持ち込もうかと考えていた矢先、彼女が現れたのだった。
その日私が屋上へ向かうと、既に扉の取っ手にかかった鎖が外れていた。錠の重みのせいなのか、そう頻繁ではないがこれまでにもあった事なので、特に気にする事もなく扉を開けて屋上へ侵入すると、フェンスへもたれ掛かりタバコを燻らせる彼女がいたのだ。扉を開ける時の錆びた蝶番の音はきっとその耳に届いていただろうに、私の方へ振り返る事もなくタバコを吹かすその姿に、当時の私は思わず気色ばんだ。
独占していた場所へ断りなく踏み込まれた苛立ち、安全地帯が突き崩された不安、自分しか鍵が壊れているのに気づかないであろうという優越感の崩壊、総じて不快としか言いようが無い様々な感情が私の中で煮え立ち、普段必要最低限のコミュニケーションすらとらない私らしくもなく、彼女を怒鳴りつけた。
大きな声をだすのは久しぶりだったからだろう。裏返り、掠れ、踏み潰された蛙じみたその声の情けなさに、何だか泣きそうになった。彼女はそれを受けてか、いかにも気だるげに、ゆっくりとこちらを振り返る。どうしてこれには反応するのだ、扉の音と同じ様に無視してくれたらよかったのに。そう恨みがましい視線を送ったが、対して彼女は笑うどころか何の感情もない、平坦な瞳でこちらを睥睨したのだった。先程偉そうに怒鳴りつけたくせに、その目を見た瞬間ひどくばつが悪くなって、反射的に謝罪の言葉が口をついた。そもそもここは誰の場所でもないのだ、それなのに感情に任せて理不尽に怒鳴り散らした自分が恥ずかしくなって、今すぐにでも逃げ出したい気持ちになったが、ちっぽけな成人としてのプライドが何とかその場に足を留めさせた。
それならば大人らしく身の程を弁えた上できちんと謝罪すればよかったものを、矮小な私はそこで見苦しい言い訳を並べ立てたのだった。それどころか、ここは自分の場所だから来ないでほしい、と彼女の表情を伺いつつもやんわりと要求し始めたのは我ながら最低だった。普段の寡黙さとは打って変わって、唾を飛ばしながら饒舌に訴えるその様を、冷静な自分が頭上から蔑んだ目で見つめていた。
そうして浅ましく話し続け、すっかり乾いた口の端に白い泡が付き出した頃、彼女は突然ただ一言、そう、とだけ言うと、まだ冷めきっていないタバコを携帯灰皿に突っ込んだ。そしてパンプスの音を響かせながら、矢庭にその場を去っていったのである。屋上には、ぱたぱたとはためくレジ袋と、私だけが取り残された。
数日後再び屋上へ向かうと、彼女は全く同じ位置で、全く同じ表情でそこに佇んでいた。例え納得していなくても、あれだけまくし立てられれば来なくなるだろうと考えていた私にとって、それは思いもよらない光景だった。彼女が今度は直ぐに振り返ったせいで逃げる事も叶わず、私は扉の前で木偶の様に立ち尽くす他なかった。
彼女を無視して寛げる程の豪胆さも持ち合わせず、ただただ黙りこくる私に、彼女は片方の口元で笑いながら、今日は喋んないの、と話しかけてきた。全く揶揄する気配がなかったわけではないが、その表情が意外にも寛容で、真実話を聞いてくれる様子であったから、私は先の怒りも、自身の無礼も忘れ、気づけば隣に立って訥々と世間話を始めていた。案外私も話し相手に飢えていたのかもしれない。自室の隅の、埃を被った観葉植物だけでは物足りなかったのだろう。
それ以来、私達は時折屋上で鉢合わせてはよしなしごとを交わす仲となった。交わすといっても、実際にはほとんど一方的に私が喋り続け、彼女がそれを相槌もなく聞くだけ、という形だったが。彼女は初めて出会った時の私の言動について掘り返す事はしなかったし、私も彼女がどうして屋上に来る様になったのか、どうして私の話を聞く気になったのか尋ねる事はしなかった。その様にお互い深く踏み込む事もない私達の会話は、いつもとりとめもない四方山話に終始していた。それは新聞の社説への反論であったり、私のありきたりな身の上話であったり、仕事の愚痴であったりした。ただし愚痴に関しては、当たり障りのない範囲を探るのに苦労した。人に興味がなく、同僚の顔すら録に覚えられない私には、彼女が何処の部署の人間なのか、それどころか自分と同じ会社の人間なのかどうかすら判然としなかったからだ。残念ながら彼女は、休憩時間にも社員証やカードキーのケースの類を首からぶら下げておくタイプではなかったのである。
そうして希薄な交流を続ける内、私は彼女に対するなんとも奇妙な感情を抱く様になった。当時私はそれを、ある種の憧憬だと思っていた。私は常に益体もない思考を頭の周囲に悶々と纏わりつかせている様な性情であったから、彼女の淡白な、ある意味無駄を削ぎ落とした様な頑強さに惹き付けられたのであろうと。そして同時にその刹那的な――これは矛盾する様だが――今にも掻き折れそうな危うさに、鬱屈とした私が好む所の頽廃的な美を見たのだと。
そんな彼女に肯定されたかったのかは分からないが、私の話は徐々に衒学的な面を強めていった。そうしていつしか死生観にまで話が及んだ時、私の何気ない一言に、初めて彼女が動揺した様子を見せたのだ。正直に言えば、その時私が具体的に何を言ったかは覚えていない。記憶に残らないぐらい、私にとっては取るに足らない内容だったのだろう。しかし私の言葉に、彼女がそのやつれた体をぎしりと軋ませ、微かではあったが、濃い化粧の下を歪ませたのを確実に見た。私が驚いている合間に、彼女は覚束無い動きでタバコを携帯灰皿に詰め込むと、何も言わず足早に屋上を去った。
その日以降、彼女と屋上で会う事はなくなった。私も、屋上へ行く事はできなくなった。
噂話の輪に入り詳細を聞き出せる様な積極性もなく、ただ仕事に集中するふりをしながら耳をそばだてる事しか出来ない私が、それでも何とか得た断片的な情報から推察するに、どうやら彼女は少し前、ちょうど初めて屋上に現れる直前に近しい人を亡くしていたらしかった。それが肉親か、恋人か、いっそ子どもなのかは分からないが、後を追う位なのだから余程大事な相手だったのだろう。
それを聞いた私は、悼み、自身の失言を悔いるべきそこで、あろう事か彼女への失望を覚えたのだ。彼女はもっと、虚ろで枯淡な死を迎えるべきだったのだと、そう思ってしまった。例えば夏のある日、蝉の鳴き声が降りしきる中、金魚が鉢の底で藻と一緒に干枯らびる様な。ざらついた白昼夢が、じっとりとぬめり落ちる様な。一思いに、情動に任せるのではなく、じりじりと何もかも亡くして、内側から朽ちて乾いた外殻だけ残す様な、彼女にはそんな死が似合っていたのに、と。
私の彼女に対する感情は憧れなどではなく、とっくのとうに信仰と化していたのだろう。それはきっとごく平凡な人間であった彼女へ、こんな生き様を見せてほしい、と勝手に理想を押し付け、そこから外れると落胆する類の、安っぽく、エゴイスティックな崇拝だった。
私が彼女へ見た頽廃美は、彼女の生まれ持っての性癖に依るものではなく、全てを失った人間の、やけにも似た破滅的な志向故だったのだろう。不摂生な外見をしていたのも、心労というにも生温い絶望の中、身なりを繕う余裕などなかったからだったのだ。その境遇を考えれば、彼女の根底に死の気配が佇んでいたのも当然だった。
愛する人のいなくなった世間はあまりに息苦しく、何とか呼吸をする為に彼女は屋上へ上がってきていたのかもしれない。驕ってもいいのならば、背中を押して彼女をこの鉢の外へ追いやったのは、きっと私だった。
彼女が飛び降りた事によって屋上は完全に封鎖された。
だからせめてビルの裏から、屋上のフェンスの、彼女がいつも寄りかかっていた場所を見上げる事しかできないのだ。おそらく空にしても悪臭のただようであろう汚れたポリバケツ、何か複数の小動物の毛が絡まった泥の塊、室外機と換気扇の音。裏口のある路地は薄汚く陰気だったが、その中で彼女のタバコを真似るのは如何にも悪趣味で、それが存外悪くはなかった。一口しか吸っていないタバコを地面へ落とすと、靴の裏で踏みにじる。
私は彼女と違って、一思いに全てを投げ出せる様な人間ではない。だから私は、この汚泥がへばりつく鉢の底で、ゆるゆると干枯らびる様に死んでゆくのだ。