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【小説】山神の恋文

 ほとり、とペン先からインクが落ちた。つけペンを使うのなんて初めてだったから、加減を見誤ってインクを付けすぎたのだ。滴ったインクは新品の原稿用紙へ、瞬く間に広がっていく。初めは澄んだ闇色で、広がる毎に鮮やかな藍色へと移り変わっていく。夜の海を思わせる、美しい色だった。ここにホワイトでも散らせば、きっと星空にだって見えるだろう。
 小説なんて書くのは僕にとって初めてのことだ。何事も形から入りたがる僕は、先ず近所の総合百貨店にある大きな文房具屋で、原稿用紙とペン、インクを購入してきた。初めてなのだから扱いやすい初心者向けの万年筆でも買えばよかったものを、ガラス棚に飾られたインクに一目惚れしてしまってつけペンを選んだ。香水でも詰まっていそうな、さり気ない意匠の美しいガラスに、和紙のラベルが貼られたインク壺。和風な色の名前の下に、何かフランス語でサブタイトルらしきものが添えられていたが、そちらにはあまり興味をそそられなかった。脇に置かれた、色のサンプルに惹かれたのだ。本当は洒落たメッセージカードでも手書きするような人向けのインクだったのかもしれないが、この色こそ彼らの物語を書くのに相応しい気がして迷わず購入した。
 僕の体験に基づくノンフィクションだが、敢えてそれを小説と、物語と呼びたかった。何から書けばいいのだろう。不器用に紙をペン先で引っかきながらも、初めの一文を何とか書き出してみる。

―これはほんの少し前、僕が或る山神の恋と死を見た時の話だ。

   ***

 その時、僕は訳あって実家に帰省していた。同じ部署の同僚が感染症に罹ったことが発覚し、特に濃密に接していた者は出社を見合わせることになったのだ。僕の業務は自宅でこなせるような内容ではなかったので、社の方針により一週間の間本当にただの自宅待機になった。きちんと自宅にいるかの確認もされないようなので、これ幸い、バレやしないだろうと、僕はその間田舎の実家へ帰ることにしたのだ。
 事前に連絡していなかったので突然の来訪になったが、母は驚きながらもなんだかんだ嬉しそうに受け入れてくれた。祖母の代から住んでいる古ぼけた家の、昔使っていた二階の子ども部屋に来客用の布団を敷いて泊まることになる。
 田舎の古い家というのは、影は濃いが、代わりに色彩は鮮やかだ。滑りの悪い襖を開けば、樹脂製の畳に置かれたお下がりの勉強机が一番に目に入った。少し暑いのでその脇に置かれた扇風機のプラグをコンセントに刺し、電源を入れる。羽根に張り付いた埃が舞い、顔にかかって思わず笑ってしまった。そういえばこれは強風のスイッチが壊れていたな、と記憶が蘇る。壁にはクレヨンで描いた両親の絵、花丸をもらった習字の半紙。それらを留めた画鋲には、運動会で貰った先生手作りの紙製のメダルやら、修学旅行で買ったテーマパークのキーホルダーやらがかかっている。懐かしい子供部屋は、何だか古い紙の匂いがした。
 僕がいない間に半分物置にされていたらしく、入口脇に反射式ストーブやら段ボールやら置かれていたが、概ね僕の記憶通りの部屋だ。親戚にベッドを譲ったらしく、寝る時の視線が低くなったことには違和感を覚えたが、それだけだ。
 開け放った窓から飛び込んでくる初夏の音の中で、持ってきたささやかな荷物を解いていると、下から今夜は焼肉に行くわよ、と母の声がした。続けて、それまで川に遊びに行ったら、毎日行ってたでしょ、と言われる。どうやら母には、子ども部屋に帰ってきた僕が、身も心も小学生へ戻ったように見えているらしかった。親にとって子どもなんていくつになっても子どもなのだろう。母の上機嫌に水を差すのも憚られて、(何より夕食のメニューが変更になる可能性を避けたかった)僕は肩を竦めると大人しく外出したのだった。

   ***

 律儀に言われた通りにする必要もなかったのだが、子ども部屋のノスタルジーに浸っていた僕の足は何となく川へ向かった。この町は山と海に挟まれていて、小さい頃遊びに行っていた川はその間の田園地帯のど真ん中にあった。ここに来る時、電車の中から見た時には何も変わっていないように感じられた田舎の風景も、ぶらぶらと歩いてゆくと時の移り変わりが見えてくる。当時より雑草の生えた休耕田がずっと増えていて、昔ならトラクターのタイヤから剥がれた黒い土の跡が大量に残っていた道も綺麗なものだった。極めつけが例の川で、かつて友人とザリガニを採った用水路、もとい川はすっかりコンクリートで舗装されて、立派な柵が立っていた。あぶない!という端的な警告文と共に描かれた、妙に恐ろしげな河童のイラストの看板はなくなり、代わりに責任の所在を明確にするための、ゴシック体を所狭しと敷き詰めた味も素っ気もない看板に取って代わられていた。
 脇には大きな水門があり、無駄だとは分かっていたが、水門の柵の部分に溜まった枯れ草の下にザリガニがいやしないかと覗き込んだ時、奇妙なことに気がつく。腐った草や何やの中に、手折られた直後と思しき花の枝が一本、混じっていたのだ。

 話が変わるようだが、僕は中学高校と美術部に所属していた。高校の時の顧問の先生は自主練で花のスケッチを推奨していたのだが、「スケッチする花は生花でないと意味が無い」と造花に対して否定的な立場を取っていた。なので自宅でスケッチする時は、スーパーやホームセンター、時に花屋からわざわざ買ってくるわけだが、この費用が馬鹿にならない。高校生の貴重な小遣いを全て花に捧げるわけにもいかず、かといってバイトをする時間があるなら絵を描きたかった僕は、祖母と共に山へ行くようになったのである。祖母は山で採った山菜やら山野草を道の駅で委託販売していて、そのついでに軽トラに乗せてもらっては山の野花をスケッチに行っていたのだ。一般的なスケッチとは違う花の種類に先生は顔をしかめたが、特に駄目とは言われなかったので、僕は冬を除けば足繁く山へ通う少し変わった高校生になったのだった。

 そんな僕からすると、水門に引っかかっていたその枝は奇妙なものだった。一、それが山に生えている木のものであること。二、根元割りがなされていたこと。三、断面を見るに、枝は切ったのではなくへし折られていたこと。一つ一つは問題ではないが、これらが組み合わせられているのはどうにもおかしい。根元割りというのは水揚げの一種で、枝の断面に切り込みを入れて水の吸収量を上げ、花を長持ちさせたり、萎れたのを復活させるための処理だ。一度に大量に処理する花屋などでもない限り、水揚げは基本的に水中で行う。つまり、山で何者かが枝を折り、その場でおそらく川を使って水揚げを行い、しかしそれを川に流したということだ。
 その人物は根元割りが行えるような刃物を持っていたが、枝を落とす時にそれは使わなかった。敢えて断面を崩すことで吸水量を増やそうとしたのかもしれないが、綺麗にぽきりと折れたらしく、その断面はほぼ真円になってしまっている。これなら普通、水揚げの際断面が大きくなるように刃物で斜めに切り直すだろう。そう、その人物は何故かその場で水揚げを行った。持ち運ぶ際どうせ空気に触れるのにだ。それとも水に浸けた状態で持ち歩けるように容器か何かを用意していたのだろうか?世の中にはそういう人もいるのかもしれないが、祖母が家に帰ってきてから水揚げをしていたのをずっと見ていた僕としては違和感のある行動だった。そして最後に、何とも言い難いことに、この人物は川に枝を落としてしまったのである。
 川上の山を見上げる。雲ひとつない快晴の空を背景に聳え立つ、あの山の何処かに、これらの妙な行動をとった人物がいるのだ。人の行動に意味と理由と一貫した理念がないと落ち着かないタイプの僕は、どうにもその人物に理由を問いただしたくてたまらなかった。
 ふとそこで、もしかすると山で枝を折ったという前提から間違っていた可能性に思い至る。確かにこれは基本的に山に生えている木だが、平野部の自宅や農地で育てている人もいるかもしれない。いや、それでは駄目だ。川に落とす理由が分からない。自宅や農地ならわざわざ川を使わずとも、引いている水道で水揚げを行えばいいのだ。処理した後、運んでいる最中に川に落とした?1本だけ?

 考えれば考える程この枝が妙なものに思えて、僕は思わず目を覆った。勿論僕はちょっと野花に触れただけの一般人で、植物、特に枝物の処理に詳しいわけではない。僕の知識が至らないだけで、特段おかしな状態の枝ではないのかもしれない。或いはちょっと不運な持ち主がいたというだけの話を、僕が変に考えすぎているだけなのかもしれなかった。
 ふと、美術の先生に「お前は理屈で考えすぎる」と言われたことを思い出す。特に抽象画に挑んだ時には「これは頭で描いている」と何度もやり直しさせられた。ついでに、昔クラスメイトに「お前は理屈っぽいわりには、議題の中に混じった複数の問題を分けて考えられないし、そもそも定義をしっかり行わないし……」と散々言われたことも思い出す。馬鹿にされていたのかもしれない。
 兎に角、僕はこういうことを放っておけず理解に努めようとはするが、一人で解決できる程の頭はないのだ。広範な知識もなければ、推理する知恵もない。今僕に出来ることは、気にしないことだ。些細なことだ。忘れよう。僕は改めて散歩を再開し、特に得るものもなく、しかし得難い穏やかな時間を夕食まで潰した。

   ***

 僕が忘れようとしても、それを向こうは許さなかった。次の日また川に行くと、柵に新たな花が引っかかっていたのだ。今度は茎の細い花で、その断面はぐちゃぐちゃだった。誰しもが幼い頃、茎が絶妙な硬さの野の花を摘もうとして苦戦したことがあると思う。ぽきりとも折れず、爪で切ろうとしてもうまくいかず、最終的には悲惨なことになる。水面に浮いた花はまさに同じ状態だった。そのくせ、水揚げ代わりと思しき裂け目は綺麗に入っていたのがまた不思議だった。
 更に次の日も同じだった。今度は切り口を叩いてほぐしたと思しき花が流れ着いていた。これで3日連続山の花だ。そこでふと、柵に溜まった植物の多くが自然に川へ落ちた葉や草ではなく、同じように摘み取られ、萎れた花の成れの果てだということに気がついてしまう。こうなってくるともう、例の人物は敢えて毎日花をこの川に流しているのだと考えざるを得なかった。それも毎日違うものを、わざわざ毎回水揚げしてだ。奇妙ではあるが、毎日別の人がそれぞれ川へ花を落としているよりはずっと有り得るだろう。
 ここまでするのであれば、何か切実な理由があるのだろうか。例えば川で親しい相手を亡くした人が、弔いとして花を流している。それでも流石に毎日はない気がするし、水揚げする理由も分からない。更に言えば、初日はまだしも、昨日と今日僕は朝一番にここへ来たのだ。その時点でもう花は流れ着いている。それでいて昨日の夕方にここを通りがかった時にはまだ新たな花はなかった。例の人物が山のどの辺りから花を流しているかは分からないが、一体何時に山を登り始めて花を流しているというのだ。いっそ山小屋にでも住んでいるのだろうか。
 これはいよいよ山を登って、その人物を問い詰めなくてはならないかもしれない。こちらに来てからというもの、何も手につかず散歩ばかりの、ただただ時間を浪費するだけの生活をしているのだから、そのぐらい奇矯な行動を試みてもいいかもしれない。

 その次の日、僕は朝から母と言い争いをした。その勢いのまま家を飛び出し、気づけば川に来て、その日も流れ着いていた新たな花を眺めていた。
 田舎の田園地帯の音は苛立つぐらいに穏やかだった。記憶と違う風景と、ここを出ていって変質した僕の間に、見えない、だが分厚い膜があるような心地がする。それを振り払うように何かへ目を逸らしたくなった僕は、ついに山を登って例の人物のことを探る決心をした。夜までかかってもいい。むしろ夜を跨ぐ大掛かりな仕事になるべきだ。それは今にして思えば、親と喧嘩をした子供が、親に心配させようと、若しくは自分がどれだけ本気で怒っているか証明するために、ささやかな家出をするのと似た心境だったと思う。僕は本当に、小学生の頃の精神に戻っていたのかもしれない。
 僕は尻のポケットに財布とスマホがそれぞれ入っているのを確認すると、丁度山へ向かう道中にある、畑の中にぽつんと立っている商店に向かった。いつの間にかコンビニになっていた(ただしおそらく、県内に数店舗あるだけの極小チェーンだ)商店は、しかし品揃えはほぼ昔のままだった。薄暗い店内には、地元で採れた土がついたままの野菜、包装プラが白っぽく変色した、既に廃盤になっていそうな古い文房具や生活用品などが並んでいる。申し訳程度の雑誌に対して、何故か酒とタバコは豊富に取り揃えられていた。レジ前のテーブルに置かれた手作りのお惣菜は案外バリエーション豊かで、僕はその中から唐揚げおにぎりとタルタル牡蠣フライおにぎり、きつくラップを巻いたせいでパンがくしゃくしゃになった焼きそばパンを、網目に泥のついた買い物カゴに放り込んだ。他にペットボトルのお茶や携行用保存食を大量に会計する。
 レジを担当していたのは見覚えのないふくふくしたおばさんだった。セルフレジどころか、自動釣銭機も付いていない黄ばんだレジから、手際よく釣り銭を取り出す。それにレシートを添えたものを、子供みたいにふっくらとした、しかし荒れた手から受け取った。僕が買ったおにぎりは、この手で作られたものなのかもしれないと思うと、なんとも言えない気持ちになった。
 レトロな花の絵と、再注文する為の番号がオレンジの単色で印刷されたレジ袋にそれらを入れてもらうと、それを握りしめて僕はいざ山へ向かった。祖母と通っていた車道を行くことも考えたが、川を見失うのを嫌って、川沿いを無理やり突っ切っていくことにする。直ぐに後悔した。整備されていない道、しかも起伏の激しい川の傍を登るのは余りに無謀だった。ズボンはあっと言う間に擦り切れ、枝に引っ掛けてはかぎ裂きだらけになり、鋭利な石を踏んだ時、スニーカーのアウトソールはもう元に戻りようがない程にへこんだ。殆ど穴が空いたと言ってもいい位だった。薄い生地のポロシャツにストレッチパンツ、古いコンビニのレジ袋。動きやすさはさておき、防御力は最低だった。

 そういった次第で僕の歩みは恐ろしく遅々として進まず、当然牛よりも遅かった。それでもほとんど意地で登り続け(コンコルド効果が働いていた気がする)、日が暮れ始めた頃、一つの建物にたどり着いた。唐突に木々を割って現れたような印象だったが、それは多分僕が足元だけ見て歩いていたからなのだろう。そうでないと、転ぶのもそうだが、歩いても歩いても変わらない風景におかしくなりそうだったのだ。
 各辺4m程の立方体に屋根を載せたような形のその建物は高床式で、しめ縄や賽銭箱の類は見当たらないものの、どこか小屋というより社のような印象を受けた。全体的に古ぼけ、壁板は雨が染み込んだ跡で黒ずんでいたが、穴が空いたり腐食している所は無いようだった。周囲も草が刈り取られており、きちんと管理されている様子が見て取れる。好奇心で階段を登り、正面の扉に空いた丸い穴(普通のドアなら鍵があるような位置に丸い穴があった)から中を覗き込むと、草刈り鎌やシャベル、口の空いた肥料の袋などが見えた。山に入る誰かの作業小屋なのだろうか。少なくとも居住用には見えない。残念ながら例の人物の山小屋ではなさそうだった。
 少し落胆しながらも、いざという時夜を越せる建物が見つかったことを神様に感謝する。ありがたいことに鍵はかかっていなかった。持ち主の人に心の中で謝罪しながら扉を開くと、中へ風が吹き込み、溜まっていた土埃が舞った。家具などの大きな物はなく、先程見えた農耕具が幾らかあるだけのようだが、薄暗くて細部までは見えない。ライトで照らそうとして、スマホを完全にシャットダウンしていたことを思い出した。古くて寝起きの悪いスマホの電源を入れるのが億劫で、そのままポケットに突っ込み直す。扉を閉めたらどの位の暗さになるのだろう。扉の内側に取っ手の類は無かったが、試しに縁に手をかけて閉じようと試みる。そうして扉が完全に閉まった瞬間、

―視線を感じた。

 真っ暗になった部屋の至るところからざわざわと、何かが不穏なものが蠢く気配がする。
 その気配は僕を中心に渦巻くように立ち上ると、ぞわり、大波のような形を取り、後ろからゆるゆると覆いかぶさってきた。生暖かい空気が、ささくれた質量をもって背後からそっと抱きしめてきたようにも感じる。幸いそれは僕を食らうことはなく、ざわめきを収めつつ薄らと通りすぎ、霧散した。闇よりも濃いそれが晴れた瞬間、変容した扉が目に入る。
 目だ。先程まで手をかけていた場所、いやそれ以外にも、壁に、床に、天井に、血走った紫の目が無数に、所狭しと開いていた。それぞれがばらばらに瞬きをし、動揺したように緩急をつけて視線を泳がせる。足元でも隙間なく眼球が律動しているせいで、腰を抜かすことすらかなわない。
 慄く僕の背後で、ぼ、と火が灯る音がした。ぼ、ぼぼ、ぼ、と連続して音がなると、その度毎に背後の灯りが増え、その光の当たったところから順に、眠るように穏やかに目が閉じてゆく。閉じた瞼の上にはそれぞれ、焼け落ちるさまを逆再生したように何か紙切れが現れ、それには今まさに閉じた目が、単純な意匠となって描かれていた。どうやら御札のようだった。
 そうして全ての目が閉じ御札に変じると、僅かに自身の体の操縦権を取り戻した僕は、半身を軋ませながらゆっくりと振り返る。果たしてそこには、幾本か立ち並ぶ背の高い燭台の灯りに照らされ、一人の和服の男が座っていた。

 確かにおおまかな体のつくりは成人男性のそれだが、しかし暗がりに浮かぶそれを本当に人と称していいのか分からなかった。先ず目に付くのは、額から左右に一対生えた角らしきものだ。山桜の節くれだった枝にも似た質感だが、しかし鹿のように枝分かれした奇妙な形をしている。額からの生え始めこそほぼ地面に水平な角度だが、根曲がり杉のように折れ、最終的には垂直に天に向かっていた。その二本の角に紐を渡す要領で黒い布が張られており、それで顔は完全に隠れている。どことなく黒子を連想させるその目隠し布には、御札と同じ目の模様が描かれていた。
 肩には結袈裟を掛け、それと同じ意匠の前垂れが腰に巻かれている。御札がそこかしこに張られた緋色の長羽織の下には狩衣に似たものを身に付けており、全体的にちぐはぐな印象だったが、それが気にならない程の異様さが彼の背中にはあった。
 何かがその下で穢らわしく蠢いているらしく、羽織の背面が不規則に凸凹と動いていたのだ。視線を逸らした瞬間そこから何かが飛び出してきそうで恐ろしく、目を離すことができなかった。そうしているうちにその裾から、何か闇を柔らかく凝り固めたような、太い触手のようなものが幾本も覗き、その先端をうねらせているのに気がついてしまった。その根元からは何か黒い靄のようなものが滲みだしており、先程から辺りに漂う、腐ったような土臭さはそれが原因なのかもしれなかった。
「こんにちは」
 するり、と僕の思考の隙間に忍び込むように、目隠し布の向こうから声をかけられた。空気を多分に含んだ、穏やかな声音だった。
 緊迫した場にそぐわない、余りに日常的な、人間的なその言葉に僕は呆気にとられる。返事がないことを疑問に思ったのか、目の前の何かはゆるりと小首を傾げた。角にかけられた、名前の分からない布と金属の細工物が、しゃらりと澄んだ音を立てる。籠のような形の金属の中で水晶らしき玉が転がって、蝋燭の明かりを反射した。
 ややあってから、ああ、と人影は納得したような声を上げると、
「ごめんね、驚かせてしまって」
 続けて、
「怖かったでしょう」
 そう言うと、長羽織の前を手繰り寄せて閉じる。すると背面の何かが徐々に動きを潜めてゆき、最後には殆ど動かなくなった。彼が、ぱ、と手を離してもそのままだった。同時に、部屋中にあった御札も掻き消える。後に目玉が残っているということもなく、初めに入った時の元の通りに戻っていた。彼と燭台を除けばだが。
 そこで体の緊張が一気に抜けた僕は、思わずその場へくずおれてしまった。半身を捻っていたせいで間抜けな動きになる。脚ががくがくと震えていた。恐怖もあるが、それ以上に疲れが溜まっていたのだと思う。彼が布の向こうで、柔らかく微笑む気配がした。
「ここで休んでいきなよ。わたしが怖くなければ」
 怖かったら出ていってもいいのだろうか。古い伝承みたいに、おれのことを口外すれば殺すぞ、とはならないのだろうか。これは本当に僕の悪い癖なのだが、その思考の流れも説明しないまま、あなたのことを僕が人にばらしたらどうするんです、と相手にしてみれば唐突な質問をしてしまった。ふむ、と彼は(たぶん)視線を落とすと、
「別にどうもしないかな。誰も信じないんじゃない?ああ、いや、ここの管理をしてくれているお婆さんは信心深いから信じるかもね」
と言って部屋の隅に置かれた農耕具を顎でしゃくる。この異様な空間の中で、やけに日常的なそれに違和感を覚えた。土のこびり付いたシャベルに、錆びきって刃こぼれした草刈り鎌。何故か逆さまに口の切られた化学肥料の袋。
 ふと、彼が視線を天井にやる。この怪異は顔が隠れているのに、何だか表情が見えるような分かりやすい動きをする。
「降ってきたね」
 なんのことかと思えば、遅れて僕の耳にも雨音が聞こえてきた。ばらばらと、天井と屋根が一体化しているこの建物では雨音は殊更大きく聞こえる。何となく、雨によってこの場へ捕らわれた、という気がして空寒くなる。長い雨になりそうな予感がした。
「悪いことは言わないから休んでいきなよ。取って食ったりしないから」
 目の前の怪異が、がおがお、と手で犬が噛み付くようなジェスチャーをしてみせる。その剽軽な動作に笑うことが出来なかったのは、その手が明らかに人外のものだったからだ。人間と同じ5本指だが、触手とは違い、闇をぎちりと硬化させたような艶のある黒色をしていた。指と爪が一体化しており、異様に長く尖っていたが、その尖り方というのもヒトの爪のそれではなく、目打ちを思わせる奇妙な形をしていた。
 今山を降りようとすれば、おそらく山中で夜になるだろう。明かりのない雨夜の中、足場の悪い山道を歩いて怪我、最悪死ぬ可能性と、ここで一晩雨宿りをして目の前の何かに喰われる可能性を脳内で天秤にかける。あるいは、ここ以外に雨宿りできる場所を探して一晩過ごすか。
 ほどなくして僕は正座に座り直すと、オセワニナリマス、と彼に向かって頭を下げた。それに彼は、ゴユックリドウゾ、と肩を揺らしながら笑った。

   ***

 図太い僕の腹は宿が見つかったことで安心したらしく、空きがあることを声高に主張し始めた。ちょっと気後れして、すみません、と彼へ会釈しつつ、最期になるかもしれない晩餐を取り出す。足場の悪い所でゆっくり食事する気になれず、昼は携行用保存食ですませたので、例のおにぎりとパンだ。
「それは?」
 彼が興味深そうに尋ねてきた。食事の話はタブーではないか、と一瞬硬直する。食べ物の話をしたら、おれの食い物は人間だよ、と言ってぺろりと平らげられないだろうか。
 だがまぁ、僕を食べたり殺したりしようとするなら、別に向こうからすればどんなタイミングでもいいのだ。僕がいくら話題に気をつけようと意味はないだろう。向こうから話を持ち出したのだから地雷でもないだろうと説明しようとして、止まる。この相手にはおにぎり、という物が通じるだろうか。おにぎり知ってます?と確認するのも何だか見くびっているように感じられるかもしれないし、相手がある程度人間の生態に詳しい、という前提に基づいて話をすることにする。
 このおにぎりは、鶏を揚げたものが入っています。こちらはカキという貝を揚げたものに……まで説明したところで、彼が訝しげな表情になった気配がした。顔が見えていれば、多分大いに眉根が寄っていたことだろう。
「カキを?揚げた?なんで?生の方が美味しいでしょ絶対。わざわざ旨味を殺すのはどうして?」
 と捲し立てられた。予想外の方向から気分を害してしまったようだった。こちらこそなんで?と尋ねそうになるのを何とか堪える。しかしこの相手は、その見目というか、服装に反して口調が現代的だ。少し変わったアクセントはあるものの、まあ話しやすくて助かるのだが。
 不満気に腕を組む(あの手で器用なものだと思う)相手のご機嫌をとるように薄ら笑いをしながら、災いの種を手早く口に放り込む。他の物も急いで詰め込むと、ペットボトルのお茶で無理矢理流し込んだ。よく咀嚼されていない食べ物が、喉、食道と流れていく息苦しい感触がした。
 おばちゃんがたっぷり付けてくれたウェットティッシュの内の一枚で手についたタルタルソースを拭いたが、それの処理に少し困ってしまった。元々入っていた袋に戻せるとはいえ、べったりと汚れたものをまだ他にも食べ物の入っているコンビニ袋に戻すのは何となく嫌だな、と躊躇していると、彼が部屋の隅の肥料袋を指さした。
「その中に袋なら幾らかあるよ。使っても構わないんじゃないかな」
 どれどれ、と立ち上がって中を覗き込んでみる。成程、スーパーで肉のパックでも入れるようなポリ袋を一つ結びにしたものを中心に、たぶん45リットル位のゴミ袋、なぜか空のワンカップの酒瓶など雑多な物が大量に放り込まれていた。どうやらこの肥料袋は物入れだったらしい。
 確かによく考えれば、こんな山中で肥料を使うことなど殆どないだろう。空いた肥料袋というのは丈夫で大きさも手頃なので、畑を持っている人はこうやって色んなことに使うものだ。こまごまとした農具を入れたりだとか、苗に霜よけとして掛けたりだとか。
 こういったことをするタイプのお婆さんは、たぶん一枚袋を貰ったところで怒りはしないだろう。有難くレジ袋を一つ頂いて、ウェットティッシュやラップを入れた。

 僕が食事を終えた頃を見計らって、幾らか機嫌を直したらしい彼が話しかけてきた。
「嫌だったら答えなくていいんだけど、君はどうしてこんな所に来たの?」
 母と喧嘩して、と言いかけて、その内容の幼稚さに自分で驚く。それは伏せて、花が毎日川に引っかかっていること、その犯人を探しているのだと話すと彼は額に手をやり、
「それはわたしだ」
 と残念そうに頭を振った。
「毎日花を摘んでは、この裏の川から流しているんだ」
 何故そんなことを、と訊くと、少し照れた様子で視線を逸らし、
「恥ずかしい話なんだけどね。一種のラブレターなんだ、あれは。いや、でも、そうか。途中で引っかかっちゃってたかぁ。じゃあ今まできっと一つも届いてないんだね。残念だなぁ」
 話が見えず、なんですって?と僕が思わず前のめりの姿勢になると、彼は穏やかに、一つ一つの言葉を慈しむように言った。
「昔ね、わたしが人間だったころ。恋をしたんだ。人魚に」

   ***

 聞けばなんと、彼は元々アイルランド人だと言う。
 着物で分かりづらいものの、外国人にしては線が細いな、と考えていると、彼はその思考を読んだように、
「体は日本人だからね」
 と笑った。
「ちょっと事情があってね。数年前、他人の体を借りて……『なにか』になってしまったんだよ。ここを管理してくれてるお婆さんはわたしを山神様、と呼んでる。直接話したことはないけれど」
 こうして姿を現して話をした人間は君が初めてだよ、と彼は言った。どうして僕がそんな対象に選ばれたのか疑問に思ったが、話の腰を折りそうなので黙って聞くことにする。僕は別に神様や幽霊を否定するタイプではないので、彼が山神だということは特に抵抗なく受け入れられた。
「でもたぶんそんな大層なものじゃないと思うんだよね。もし神様なら、寧ろ祟り神とか、少なくとも荒御魂としての側面が強い存在なんじゃないかと自分では思ってるよ」
 やけに日本の宗教について詳しい。元々の彼はどういう人間だったのだろう。
「日々のんびり暮らしてるだけで、特にこれといって何かできるわけでもないし。ちょっと山中に目が届くぐらいでね。お婆さんはこの社を良く手入れしてくれてて、有難いんだけど何も返してあげられないんだよね」
 話しながら彼は何処からか和蝋燭を取り出し、火を継いでは燃え尽きた幾つかの燭台に刺し直していた。
「聞いてほしい話があるんだけど、いいかな」
 胡座をかいて頬杖をついていた僕は、その言葉に思わず顔を上げる。食事という油断しきった状態を晒したからだろうか、この時点で僕は殆ど警戒を解いてすっかり体勢を崩していた。妖怪の類ではなく神様だと聞いたのもあるかもしれない。祟り神かもしれないが僕はあまり気にならなかった。
 何気ない言葉だったが、どこか仕切り直す響きを彼の声音から感じて、慌てて姿勢を整える。
「ありがとう」
 きっと彼は人間だった頃、優しい目をして笑う人だったのだろう。そんな気がした。

   ***

 数年前大学生だった彼は、交換留学で隣町の大学にやってきた。その時のホームステイ先の大学生がこの町に住んでいたのだという。
「初日の夜には庭でバーベキューパーティーを開いてくれたよ。山の幸も海の幸もあるからって。まぁ、正直言うとわたしはバーベキューより日本の家庭料理が食べてみたかったんだけど」
 その気持ちは少し分かる。僕も帰省初日の焼肉は嬉しかったが、翌日の、母手作りの朝ごはんの方が何だか身に染みた。それに折角日本に来たのだから、彼だって和食が食べてみたかっただろう。
「そこの一家だけでなく、親戚やら近所の人達やらも何人か来てたな。逆にその家の弟くんには会えなかった。サークルの合宿に行ってたんだったかな」
 バーベキューが終わった余韻の中、虫の音を聞きながら縁側で酒を飲み交わしていると、近所の若い男が話しかけてきた。ちょっと一緒に出かけないか、いいものを見せてやるよ、と馴れ馴れしく肩を組んできたのだ。
「何だかいやな感じがしたよ。にやにや笑っちゃってさ。でも初対面の相手だし、印象で決めつけるのもよくないかなって。それで二人で出かけることにしたんだ」
 彼と男を乗せたミニバンは海へ向かった。地名を聞くに、地元では有名な海水浴場があるところだ。僕は小学生の頃に水泳教室で行ったきりだが。
 男は海岸の道路脇に違法駐車をすると、砂浜ではなく岩場の、切り立った崖がある方へ足を進めた。キケン近づくな、という看板があったが、男はそれを無視し、崖の足元に沿うようにある細い道を危なっかしく歩いてゆく。所々で水中に生える種類の藻が、満月の光を反射していた。その日、丁度その時間が一番潮が引ききっていた時間だったのだろう。
 凸凹した崖の周囲を回り込むようにして少し歩くと、一際海側へ出っ張った箇所に、丁度崖の内部へ入れるような洞窟があったと言う。男はそこへ迷わず入ってゆく。洞窟の入口はぐねぐねと曲がりくねっており、昼間船などに乗って海側から見てもその存在には気が付かないような構造になっていたようだ。僕もそんな洞窟の存在は知らなかった。
 洞窟は暗く奥が見えなかったが、その中央に幅2メートル程の水路が通っているのが揺れる水面の音で分かった。男は持ってきていた懐中電灯を点けると、ずんずんその脇を歩いてゆく。懐中電灯を点けた時、男の歪んだ口元が見えたが、その一瞬だけで、それ以降の様子は窺えなかった。
 不安を覚えながらもついて行くと、ほどなくして男は立ち止まり、足元から水路の方へ明かりを向けた。そこには大きな柵があった。脇にバルブが付いており、おそらくその柵を昇降出来るようになっている。水門だ。よく見ればその柵以外にも、洞窟を完全に仕切るように錆びた鉄格子が立っていた。
 ばちゃり、と大きな音が響く。鉄格子の向こう側で、何か大きな物が水面で跳ねた音だった。ひやり、と腹の底が冷える気配がした。何かがいる。何かが閉じ込められている。
 男はポケットから鍵を取り出し、鉄格子の一角にあった扉の鍵を開いた。手振りでこちらに来るように伝えてきたので、恐る恐る男に続いて鉄格子をくぐる。
 男が懐中電灯を奥に向けた。岩壁が照らされる。どうやら行き止まりのようだった。鉄格子の中は直径10m程の広いドーム状の空間になっており、壁の状態を見るに人為的に広げられたものらしかった。その中央に、水路と繋がった大きな潮だまりのようになった箇所があり、懐中電灯の明かりがその水面を舐めるように動く。一瞬通り過ぎかけて、慌てて反転するとそれを光が捉えた。人だ。人が水面から顔を出していた。急に照らされて眩しかったのだろう、その人物はびくりと顔を背けた。
「驚いたよ。大きな魚か何かかと想像してたから。まさかああして人が閉じ込められているとは思わなかった。しかも水の中にいるだなんて」
 縮こまるように肩を竦めたその人物は、水の冷たさからか、あるいは怯えからか、小刻みに震えていた。しかし手で半分光を遮りながらも、やがてゆっくりとこちらへ振り向く。ここで漸くその人物の顔が見えた。
「心臓が止まるかと思った。身体中が一瞬全ての活動を止めるぐらい驚いて、それでも肺だけは酸素を欲して大きく動いたのが自分でも分かった。……それぐらい美しいひとだった」
 長い、濡れそぼった鴉の羽色の髪の間から覗いた目と視線が合う。深海をそのまま掬い上げたような瞳をしていた。
 しばたけばぱちり、という音でもしそうな、密度の濃い睫毛に、小ぶりな鼻、柔らかそうなラインを描いた頬。色素の薄い澄んだ肌とは対照的に、花が綻ぶように色付いた唇。
「日本人的には、綺麗というより可愛いと言った方がいいかもしれないね。でも彼女は本当に美しくて……一瞬で恋に落ちた」
 それは、今すぐその足元に跪いて生涯の忠誠を誓いたくなる程に、全てを奪われた感覚だった。彼女になら何もかもを捧げられる気がした。
 あまりにも急激に動いた感情に、彼の口から何か言葉が漏れそうになった瞬間、懐中電灯の明かりが彼女から逸れた。男が点いたままの懐中電灯を彼に押し付けてきて、あっちを照らせ、と壁際を指さす。咄嗟に言われた通りにすると、そこには壁にかけられたオイルランプがあった。男はバーベキューの最中、タバコを吸う時に使っていた使い捨てのライターを取り出すとそれに火を点ける。壁際に沿って等間隔につけられたそれの半分程に火を点けると、懐中電灯を受け取り、スイッチを切ると適当に壁際へ置いた。
 ホヤがかけられた筈のランプの火が揺れ、水面の彼女の顔に不規則な陰影を付ける。頬に落ちる睫毛の影すら美しかった。

 ガン、ガン、と急に耳障りな金属音が響く。驚いて音の方を見れば、男がいつの間にか手にした鉄パイプで、足元の何か一斗缶でも加工したような金属板を打った所だった。
 大きな音に彼女が怯えるのではないかと心配して視線を向ければ、彼女は一度びくりと震えると、何故か急に潮だまりの中で大きく円を描くように泳いでみせた。異様に早い。そしてその中央で飛び上がり、身体を見せつけるように宙返りをする。
 彼女の、本来ならば二本ある筈の脚はくっついたように一本になっており、そこには青く輝く鱗がびっしりと生えていた。そしてその先端には大きな尾びれが付いていたのだ。
「彼女は人魚だったんだ。絵に描いたような、おとぎ話の人魚だった」
 男が再び金属板を二度打ち付ける。心臓を乱暴に叩くような、本当に不愉快な音だった。すると彼女はまた同じように回り、跳ねて見せる。先程は暗いせいで何か見間違えたのではないかと目を凝らしたが、やはりその下半身は人魚のそれだった。そして見逃すまいと凝視した為に、惨いことに気がついてしまう。彼女は傷だらけだった。隠すものもなく露になった乳房も、なまっ白い背中にも、赤く鋭い傷が幾重にも重なっていた。所々鱗が禿げ、そこから内出血した肌が覗いていた。治りきらない内に何度も重ねて打たれたのであろう、皮膚がざらざらと灰色に変色している箇所さえあった。ざあ、と血が降りて頭が冷える感触がした。理解してしまった。

 飼われている。躾られている。仕込まれている。
 金属板を打ち付けたその調子は合図だ。今の動きは、世にも珍しい人魚の元へ集った見物客への挨拶だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 男が鉄パイプを渡してきた。お前もやってみろ、と笑う。人とは思えない、腐った肉塊を醜悪さで引き伸ばしたようなおぞましい笑顔だった。
 挨拶の後、いつも彼女がどのような目にあっているのか。どういった意図で捕らえられているのか。どのくらいの人間がこの行為に関わっているのか。それらを男の口から聞くことは叶わなかった。
「わたしが殺してしまったからね」
 気づけば、男が足元に倒れていた。執拗に鉄パイプで殴られ続けたからか、頭部は頭蓋骨ごと変形して窪んでおり、首はタチの悪い冗談のようにあらぬ方向に曲がっている。べろりと崩れるように剥げた頭皮がこめかみから垂れ下がっていた。その頭部を中心に、どろりと粘質の血が岩場の隙間を伝ってゆく。もしかすると、血以外の液体も混じっていたかもしれない。
 呆然として、自身の両手に視線を向ける。手にした鉄パイプはすっかりひしゃげていた。慌てて手を離そうとしたが、指が開かない。ずっと殴り続けていたからだろう、痺れた手はすっかり凝り固まっていた。
 ぎしりと軋む首をぎこちなく回して、人魚の様子を伺う。人を殺してしまった、その事実よりも、彼女に残酷な場面を見せてしまったという絶望感が先に立った。もし彼女が、人殺しである自分を恐怖の対象として捉えていたらどうしたらいいのだろう。恐ろしいものを見る目をこちらに向けてきたら、きっとこの心臓は潰れてしまうに違いなかった。
 潮だまりの中央に顔を出していた人魚に、幸いにも怯えた様子はなかった。ただ、何が起きたのか理解できない様子で、彼を訝るように正面から見つめていた。それを見て安堵から手の力が抜けたのか、鉄パイプが足元にからんと落ちる。これまでが嘘だったかのような音の軽さだった。
 その金属音に、は、と我に返る。鉄パイプの代わりに懐中電灯を引っ掴むと、慌てて水門の、バルブの元へ走った。逃がせる。今なら、男の死んだ今なら彼女を海へ逃がせるのだ。既に疲弊しきった手で、何重にも錆びた大きなバルブを握る。力任せに回そうとすれば、鈍い鋸刃のようにささくれた金属が、皮膚を削り、肉を侵食するような嫌な痛みを引き起こした。最初の内は回す方向を間違えているのではないかと不安になる固さだったが、その内ある一点を超えると比較的楽に回るようになった。人魚は彼の意図を察したらしく、水門の柵の直ぐ傍に待機していたが、人一人分の隙間が空いた瞬間、そこへ身を潜らせた。そうして水路の海側へ抜けると、ぱしゃり、と水面へ顔を出した。
 身体中からどっと力が抜ける。惚れた女性の前だと格好を付ける余裕もなく、その場に頽れて荒い息を零した。視線だけを何とか人魚に向けると、彼女はそのまま海に向かうでもなく、彼の顔を真正面からじっと見つめてきていた。怯えと戸惑いの消えた彼女の視線は思いの外強く、真っ直ぐにこちらを射抜く。本来は強気な性格なのかもしれなかった。
 そのまま暫し見つめ合う。自然と息が止まり、天井から垂れる水音や、遠く潮騒の音がどこかへ消えていった。懐中電灯の明かりはバルブへ向かっていて、直接は照らされていないはずなのに、彼女の髪や瞳は眩しく濡れて光っていた。人間なら意識しても止められない筈の瞬きや、呼吸による体の上下運動が彼女には見られない。本当に生きているのだろうか。良く出来た作り物、若しくは今自分は幻を見ているのではなかろうか……ふとその頬に触れたくなって、指先を伸ばしかけ、やめる。それは許されないことだ。惨い目にあわされたであろう彼女にとって、人間に触れられるなど恐怖でしかないだろう。その頬を撫でて、もう大丈夫だと安心させることなどかなわない。ましてや愛の言葉を囁くなどと。
 胸に溢れるあらゆる言葉を無理に嚥下すると、ただ、行くんだ、とだけ伝えようとした。喉はすっかり干上がっていて、きちんとその言葉が声帯を、彼女の鼓膜を上手く震わせたかは自分でも分からなかった。だが彼女は目の前で何かが弾けでもしたかのようにぱちり、と目を瞬かせ、そして逡巡する様子で視線を水面でさ迷わせた。しかしそうして悩んだのは一瞬で、彼女は直ぐに海の方へ向き直り、一度だけこちらをちらと振り返ったが、それ以上のことはせず、水路の底へ潜るように沖へ向かって泳ぎ出していった。

 彼女がいなくなった途端、辺りが暗くなり、音が戻ってきた。じっとりとした洞窟の空気がのしかかってくる。今度は重い現実と向き合わなくてはならない。懐中電灯の明かりを鉄格子の奥へ向ける。
 あの死体をどうするべきだろうか。別にこれが発見されて、自分が捕まるのは構わない。理由はどうあれ、人を殺したのは事実なのだから、罰は受けて然るべきだろう。だが、早期に死体が発見されることで彼女が害を被る可能性はないだろうか。或いは逆にここで死体が発見されることにより、男の彼女への行いが明るみに出て、事態が良い方向へ向かう可能性はないだろうか。彼女が人魚であることをわざわざ世間に信じさせる必要はない、ただ女性が一人監禁され、見世物にされていたことが知れ渡れば……
 キケンと書かれた看板、鉄格子、水門、拡張された洞窟。それなりの人数と金が関わっていると見るべきだ、死体一つで本当に事態は好転するだろうか。事によっては死体さえなかったことにされるかもしれない。だが、例え最終的に自分の殺人が露見するにしても、ここは死体の発見を少しでも遅らせて時間を稼ぐべきではないではないだろうか。詳細を調べるにしろ公表するにしろ、時間はあればあるだけいいはずだ。男はバーベキューの場で、具体的にどこに行くかは言っていなかった。その後スマホで誰かに連絡を取っている様子もなかった。うまく行き先を誤魔化して、死体さえ隠せばそれなりの日数は稼げるだろう。自分の留学生という立場も上手く働くかもしれない。
 回らない頭でごちゃごちゃと色々考えたが、実の所、理屈よりも何よりも、この男をここに置いておきたくない、というのが最も正直な思いだった。この忌まわしい男を、少しでも彼女から引き離したかったのだ。死体の元へ向かうとその衣服の一部を引き裂き、潮だまりに流れ込みそうになっていた血の流れを拭う。その血の一滴でも海に入れたくなかった。その汚れた血で、彼女の居場所を穢さないでほしかった。
 ふと、大学からこの町に来た時、電車の窓から見えた光景を思い出す。……山だ。この死体を山へ持っていこう。少しでも、海から遠い場所へ。
 よく見ると固定用バンドが付いていた懐中電灯を、腰のベルトに付ける。痛む体に鞭打って、引き摺りあげるように男の死体を背負った。力の抜けた人間の体は予想以上に重く、荒れた岩場では背負って立ち上がるのが精一杯に思われたが、それで諦める訳にはいかなかった。何とか鉄格子を越えると、無駄な足掻きかもしれないが鍵をかけ直し、鉄格子の隙間から潮だまりの中へ、できるだけ遠くに鍵を投げ入れた。
 その後男を背負い直すと、一歩一歩踏みしめながら、少しずつ車への道を進んでゆく。洞窟を出た後の細い足場では、幾度も足が滑った。海に落ちて一度でも手を離してしまったら、この死体を二度と引き揚げることは出来ないだろう。その場合はそれまでの苦労が全て徒労に終わる。緊張と焦りから余計に足が滑ったが、何とか海に滑落することだけは避けられた。幸い季節外れの海に来る者は他におらず、誰にも見られることなく車まで辿り着いた。男の後ろポケットからリモコンキーを取り出すと、鍵を開けて後部座席のドアに手をかけた。電動スライドドアがゆっくりと開くのがもどかしい。半ば押し込むように死体を後部座席の足元に投げ込むと、フロアマットがぐしゃりと濡れた音を立てた。
 どうせ運転中に体力も多少は回復するだろうと、休む間もなく運転席に乗り込む。国際免許を取っておいてよかった、と殺人や飲酒運転を忘れて滑稽なことを考える。問題なく運転できることに感謝しながら、律儀に発車のウインカーを付けると山へ向かった。
 幸運は続くもので、山を登る為の車道はすぐに見つかった。人目に付くライトを点灯するかどうか迷ったが、安全をとってハイビームで舗装されたアスファルトの道を登る。つづら折りの道路はやがて砂利道になり、そして暫く走った後、山の半ば程で唐突に途切れた。そこで車を降りると、森に分け入ってみる。死体を隠すのに適した場所を探して少し歩くと、開けた場所に一つの建物を見つけた。高床式の、小規模な社に似た外観の建物だ。罰当たりだとは思うが、一時的に死体をこの中に隠してはおけないだろうか。そうしてこの山を降りて、死体を解体するなり、埋めるなりする為の道具を調達してここに戻ってくる方が、今道具もなしに雑な隠し方をするより良いように思えた。頻繁に使われるような建物かどうか調べようとして扉を引くと、幸い鍵はかかっておらず扉はあっさりと開いた。中はがらんとしており、隅に幾つかの道具が置かれているだけのようだった。熊手、ほうき、バケツ、草刈り鎌……シャベル。生唾を飲み込むと、震える手でシャベルを手に取った。木製の柄がついたそれは、ずしりと重い。今まで特に迷いなく行動してきたというのに、これを手に取った瞬間から、人を埋めるという行為に急激な罪悪感を覚えた。かぶりを振る。やらなくては。この手で殺したのに今更だ。彼女を守るためだったら、なんだってやる。
 建物の裏手、あまり土が踏み固められていない所にシャベルを突き立てる。まだ夜は開けていないが、人一人を埋める為の穴を掘るのにどれぐらいの時間がかかるのか想像もつかなかった。場合によっては途中で町に戻らなくてはいけないかもしれない。男が一緒に帰ってこなかった言い訳はどうしよう。二人で隣町に遊びに行ったことにしようか。車中での会話から、男が隣町でよく夜通し遊んでは帰らないのは知っていた。隣町で遊んだ二人は、それぞれ別のホテルをとる。次の日の朝、男と連絡がつかず車にも乗れない自分は、男との合流を諦め一人だけ電車で帰ってきた……というのはどうだろうか。車は適当な所に隠して、実際に隣町から電車で帰ればいい。その前に血の付いた服を取り替えなくてはならないが、確か車のラゲッジスペースにレインコートがあるのを見かけた気がする。おそらく、それこそ彼女を本格的に見世物にする時に使うものだったのだろう。明らかに不審ではあるがそれを着てフードを被り、替えの服を買うことはできるだろう。その後適当にネットカフェかどこかのシャワーで頭や体に付いた血や土を落とし、そのまま電車で帰ってくればいい。ホテルに泊まった設定であれば、シャワーを浴びていても不自然ではない。警察が調べれば直ぐにボロが出る行動だが、死体が見つかるまでそこまで本格的に調べられないと信じよう。
 そんなことを考えながら黙々と穴を掘り進める。最初は一箇所を深く掘るところから始めたが、どうやらまずは浅く広く、掘りたい範囲をまんべんなく掘る方が楽だと途中で気がついた。疲労を少しでも減らそうと、腕力よりも体重移動を使うことを意識して穴を広げてゆく。そうしてやがて穴を掘り終えた時には夜が開けようとしていた。慌てて死体を引き摺ってくると、穴に転がして入れる。何とか一晩で終わった。周囲に筋肉痛を悟られないように動くのが大変かもしれないな、とこれからを想像して苦笑する。死体に土をかけるのはあっという間に終わり、シャベルの裏で叩いて平らに慣らした。
 ようやく終わった、とシャベルを投げ出して地面に座り込んだその瞬間、視線を感じた。体が硬直する。見られていた。誰に、何に?何故かこの視線が人間のものではないと、直感で理解してしまった。ざわり、と周囲に不穏な空気が沸き立つ。急にしん、と音が全て消えた。後ろだ。背後に何か、立っている。大粒の汗がこめかみを伝うのを感じながら、ぎこちなく、油の切れた古い玩具のように振り向く。
 果たしてそこには、朝焼けの鮮やかな空を背景に、一人の男が立っていた。頭に角が生え、和服を着た男だ。その背後や足元に、黒い闇のような触手が蠢くのが見える。その異形は顔にかかった目隠し布の向こうから、恐らく何か言葉のようなものを発したが、ノイズがかったように上手く聞き取れない。それはゆっくりとこちらへ近づくと、しゃらり、と頭部の細工物から涼し気な音を鳴らしながら顔を寄せてくる。触手が体に纏わりついてきたが、何故か指一本動かず、逃げられない。ぞわぞわと小さな、無数の虫が這うような感触がした。眼前に迫った怪異は、その尖った指先を目隠し布にかけ、少しづつ、じりじりと持ち上げるようにそれを捲ってゆく。頭の奥で甲高い警告音が鳴る感覚がした。駄目だ。見てはいけない。見てはいけない。そう思うのに目を逸らせない。瞬きすらできない。乾いた視界が徐々に暗く狭まっていくのを感じる。無情にも布が上がってゆく。心臓が止まった。顔が見える。意識が途切れる。最後に見えたそれは深く、深く―……

 急激に意識が浮上する。開いた目に激痛が走った。もんどり打とうとしたが、身体中が何かに押さえつけられ動けない。反射的に目をぎゅっと瞑ると、痛みは大分ましになった。目に入った異物を押し出そうと自然と涙が出る。
 息が苦しい。酸素を取り込もうと口を開けば、今度はその中に何かが入り込んできた。無味無臭だが、ざらついた感覚が気持ち悪く、反射的に咳き込むように吐き出した。舌に細かい何かが残る。口を閉じ、鼻で恐る恐る息を吸うと、鼻先にも何かある感触はしたが、気をつけて少しずつ吸えば呼吸は何とかなるようだった。
 状況が分からずパニックに陥りかけたが、何とか自分を宥めて動きを止めることに成功する。どうやら自分は気絶していたようだ、とここでようやく悟った。三半規管が、自分が横になっていることを教えてくれる。と同時に、身体中を何かで覆われているのを感じた。恐る恐る腕を動かすと、周囲にあるのは思いの外柔らかい物だと分かる。力を込めると、伸ばした手が何かを崩した感触がした。指先が空を切り、自分を覆う何かの向こう側の空間を、風の流れを感じる。思い切って空間の方に向かって腕を掻き出すと、次々に何かが崩れる感触がして、体へかかる圧力が弱まった。腹に力を込めると、何とか起き上がることに成功する。思い切り空気を吸い込むと、酸素が身体中を駆け巡った。眩しい。目が鋭く痛んだが、それを堪えてゆっくりと開くと、森の景色が滲むように見えてきた。
 視線を落とし、自分が土の中に埋められていたことを知って驚く。荒い息を整えながら周囲を見渡すと、森だけでは無い、脇に何か建物があった。
 ……その社のような建物には見覚えがある。恐る恐る、自身の体を見下ろした。土で汚れた服は自分のものではない。だが見たことがある。端がちぎり取られている。自身の手を見る。自分のものではない。肌の色が違う。慌てて頭を触る。こめかみのあたりに、何かがぶらりと垂れ下がっているのが分かった。前頭部が窪むように変形している。絶叫した。彼女を辱めた、自分が殺した筈の男の体だった。

   ***

「それで次に気がついたら、こんな体になってたってわけだね」
 山神はそう言って、降参のポーズを取ると、軽い調子であっけらかんと笑った。
「勿論すぐに山を降りようとしたんだけど、どうやらこの体は山の外に出られないみたいなんだ。彼女が無事逃げられたのか、また捕まったりしていないか確かめられなかった。わたしの体がどうなったのかも分からない。でも多分、先代の山神様に取って代わられたのかな、と思うんだけどどう思う?」
 とてもではないが言葉が出なかった。あまりに衝撃的な話だった。目の前の彼が体験したこと、自分の故郷でそんな事件が起こっていたこと。疑うわけではないが、とても直ぐに受け入れられるものではなかった。
「もしかしたら上手く殺人を隠しきって、先代は僕になりすましてアイルランドに帰ってたりして。そうなってたら面白いよね。その方が家族に迷惑をかけずに済むから有難いかな。でも流石に家族には、中身がわたしじゃないってばれちゃうかなぁ。特に妹は勘が鋭いから。上手く演じて、家族と仲良くやってくれてるといいんだけど」
 僕が気がついた時には血の付いた車はなくなっていたよ、と山神は笑う。人を殺したことと、家族とのこと。これらを語る山神のこの軽薄さは、人外になったからなのか、それとも人間の頃からなのか。
 僕の困惑に気がついたらしい山神は、困ったように苦笑すると、ごめんね、と日本人みたいにとりあえず謝った。
「まぁ、わたしが人間から山神になった経緯はこんな感じかな。わたしは山を出られないから、海には行けない。だけどせめて、彼女と何か繋がりが欲しくて。海へ続くであろう川に花を流すことにしたんだ。きっと無事に逃げおおせて、幸せに生きているはずのあの子に届くといいなって。元気にやっていますか、わたしは今でもあなたを愛しています、って。といっても、別にはっきり好意を示したいわけじゃないんだ。ただ、あなたを思う人間がいるってことだけ伝わればいいなって。いい花が見つからない日もあったけど、ほとんど毎日ね」
 ろくに恋愛をしてこなかった僕には、山神のその、まともに話したこともない、人柄を知らない人魚に抱くそれを本当に恋と呼んでいいのか正直よく分からない。でも彼は、彼女を思って何年もの間、毎日花を流し続けていたのだ。その途切れない思いを否定することは出来る筈がなかった。
「それで、君は本当は何の困りごとがあってこんな所に来たの?山神様が聞いてあげるよ」
 山神は指先を組んで、こちらを覗き込むように首を傾げると、茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。唐突なその言葉に、僕は先ほどよりも遥かに困惑した。
 先程まで壮絶な話をしていたのにと考えて、そこで、は、と思い至る。これは返報性の法則だ。先に自己開示をして、「相手が話してくれたんだがら、自分も何か話さなくては」と思う人間の心理を利用した話術の一種だ。花を流す理由だけでなく、山神になった理由まで聞いたら、自分が山に来た本当の理由など話さざるを得ない。まるで営業マンか詐欺師ではないか。さっき、嫌なら話さなくていいと言ったのはなんだったのだろう。本当は知りたかったんだろうか。それは単なる好奇心なのか、或いは僕を心配してのことなのか。当初受けた穏やかな印象と、今の話から受けた軽薄な印象。相反するそれは、どちらの理由も有り得るように感じさせた。或いは両方かもしれない。
 にこにこと笑う彼を前に、僕は観念する。まだまだ夜が明ける時間ではない、どころかまだ夜9時も回っていないであろうことは体感で分かっていた。音から察するに、小降りになったものの雨もまだ止んでいないようだ。山神に比べればちっぽけで、他愛のない身の上話を僕はすることにした。

   ***

 僕は本当は、画家になりたかった。

 今僕はサラリーマンだが、本当は小さい頃から絵を描く仕事がしたかった。
 高校も美術系に進みたかったが、その歳で専門に学ばなくてもいいだろう、高校は普通科にしなさい、一般教養を学ぶのもきっと糧になるわよ、と親に説得されて美術科を諦めた。大学も同じように手に職をつけろ、何なら絵は働きながら描いて、軌道に乗りそうなら辞めてそちらに移ればいいじゃないかと言われた。学費を払ってもらう(幸いなことにうちは父がそれなりに稼いでいたので、奨学金を借りる必要がなかったのだ)身分で文句も言えず、僕は言われた通りにした。
 しかし社会人になっていざ働いてみると、とてもじゃないが絵を描く暇なんてなかった。毎日長時間残業を強いられるような極端なブラックではないものの、それでも仕事を終えて帰ってきて、食事をし、入浴すればもう寝る時間だ。より正確に言うと、頑張れば少しは時間はとれるのであろうが、肉体労働ではないとはいえ疲れきった体をキャンバスはおろか、スケッチブックにも向ける気力は無かった。人間はその活動時間に対して、どうしてこんなにメンテナンスに手間がかかるのだろうとどうしようもない悩みに苦しんだものだ。
 新生活にようやっと慣れてきて、久々に鉛筆を握ってみると、僕はまともに絵が描けなくなっていた。数ヶ月のブランクの間に画力はすっかり衰え、物の立体が見えない、色が計算できない、そして何より描きたいものがなかった。多忙な日々でインプットが足りなかったのも原因だったのかもしれない。
 そうしてようやく、このままでは自分は絵を諦めなくてはならないことに気がついた。働きながらでは、絵を描くどころか画力を保つための最低限の時間も取れない。心臓に冷水が染みたような感覚があった。諦めなくてはならない。諦めなくてはならない。気づけば僕は退職届の書き方を検索していて、書いたそれを次の日の朝一番に上司の机に叩きつけ、そして部屋に帰ると、最低限の荷物を纏めて実家に逃げ帰っていた。
 そう、本当は流行病ではなく、僕は会社を辞めて実家に来たのだ。会社からの追求を受けたくなくて、スマホは完全に電源を切っていた。きっと今頃、会社や同僚から大量の通知が届いているに違いなかった。
 そして今朝、連絡のつかない僕に痺れを切らした会社は、入社時の書類に書いた緊急連絡先である実家に電話をしてきたのだ。どういうことと詰め寄ってくる母親に、僕は積年の思いをぶちまけた。本当は僕はずっと絵が描きたかったんだ。理不尽なのは分かっていた。両親の説得を受け入れたのは僕だし、何より絵以外の道を進ませようとしたのは僕を思ってのことだ。でも堰を切った思いは止まらなかった。絵を描きたかったんだ。絵で食っていきたかったんだ。今日食べるものに困ってでも絵の具を買うような生活でよかった。それでもいいから、僕は絵に向き合っていたかったんだ。そうして僕は会社からも、実家からも逃げ出しここに辿り着いたのだった。

   ***

 山神は僕の話を聞いた後しばらく黙り込んでいたが、やがてぽつりと、
「ごめんね、わたしには分からない悩みだ」
 と申し訳なさそうに俯いて言った。
「素人考えで申し訳ないんだけど、絵を描く時間がないなら、小説じゃだめなのかな?」
 率直に言うと腹が立った。絵が駄目なら文だなんて、馬鹿にしているにも程がある。全然別物だし、そもそも絵より文章の方が時間がなくても書けるはず、という発想も意味が分からない。いくら創作に関わったことがないとはいえ、どうしたら絵と文を同列に扱えるのだ。両方を愚弄しているとしか思えなかった。
「異国の話ならわたしが聞かせられる。それだと小説の題材にならないかな?」
 こちらを窺うように、恐る恐る、といった様子で彼は言った。控えめだが、縋るような必死な口調だった。正直怒りは収まらなかったが、その態度があまりに一途だったので、僕は何とか怒鳴りそうになるのを堪えた。そしてその言い回しに、何となく昔読んだ本を思い出す。ひねくれた作家の描いた貧しい画家みたいに、絵では描ききれず、文章でないと間に合わないと思えるような物語が僕に降ってくることが、果たしてこの先あるだろうか。
 僕の不機嫌を悟ったらしい山神があんまり何度も謝るものだから、僕も段々不憫になってきて、気にしないでください、と彼を宥めた。企みがあったとはいえ重大なことを打ち明けてくれたこともあり、時間さえ経てば憤りを収めるくらいには僕も彼を気に入っていたのだ。

 静かな雨音だけが聞こえる社の中で、僕はこれからどうするべきなのだろう、とぼんやり考える。今日山を登っている間にも、冷えた頭で少し考えたことだ。母親と仲直りして何とか説得し、会社も正式に辞めて、甘ったれで申し訳ないがアパートも引き払い、実家で絵に専念する。僕の考える一番理想的な展開はそれだった。だが山神の話を聞いたことで、それに若干の迷いが生じていた。人魚の件は、どれぐらいの人間が関わっていたのだろう。もしかしたら町ぐるみだったのだろうか。そう考えると、この田舎が急に忌むべきものに感じられて、ここに住むことに若干の忌避感が生まれていたのだ。何も知らなかったとはいえ、ここに生まれた人間として、山神と人魚に申し訳なさすら覚える。そう考えて、そこでふと気づいた。彼にしてあげられることが、少なくとも一つある。
 あの、と僕が声をかけると、消沈していた様子の山神は慌てて顔を上げる。もしよかったらですけど、見てきましょうか、と僕は言ったが、山神は何のことか分からないらしく戸惑っている様子だった。人魚をです、また捕まっていないか、件の洞窟を僕が見に行ってきましょうか。
 山神が息を飲む音が聞こえた。

 正直、怖い気持ちもある。また彼女が、もしくは別の人魚が捕らえられていて、もし男の仲間に洞窟への出入りが見つかったりしたら、目撃者として暴行や脅迫を受けたりしないだろうか。だが人として、山神の境遇に同情し、何かしてあげたいと思う気持ちはあるのだ。さっき彼が僕の身の上話にそうしてくれたように。
 山神は少しの間黙り込んでいたが、やがて意を決したようにこちらを真っ直ぐに見据えた。
「そうしてくれると、とても嬉しい。お願いしてもいいかな」
 僕は震えを隠すように手をぎゅっと握り込むと、いいですよ、と笑って見せた。
「それでもう一つお願いがあって」
 ぎくり、と体が軋んだ。今度はフット・イン・ザ・ドアだ。僕は何回手玉に取られればいいんだ。
「わたしも一緒に行きたいな」
 その要望に僕は驚いて、あなたは山を出られないんじゃなかったんですか、と聞くと、もしかしたら気合い入れればいけるかもしれないよ、初めに試した時から時間も経っているし、もう一回チャレンジしてみればきっといけるいける、と妙に興奮した様子で乗り切られた。
「でも歩いて行くのは流石に無茶だし、よかったら車回してくれないかな」
 山神を。車に。
 僕にはない発想だった。死角から殴られた気分で、頭がちょっとくらっとした。
 その異常さからは目を逸らして、車のことを考えてみる。調達するとすれば実家の車だろう。隣町ならまだしも、この古臭い町にレンタカー店などない。確か母親の軽自動車と、祖母が乗っていた軽トラの二台が家の駐車場にあった筈だ。母は田んぼ道を走りやすいから、と最近は軽トラの方に頻繁に乗っていると言っていた。つまりどちらも整備されており動かないということはないだろう。もし軽トラの方を借りることになれば、僕は恐らく神様を軽トラに乗せた初めての人間になるだろう。実にシュールだ。
 となると、この夜の間にさっさと車を取ってきた方がいい気がしてくる。二台の車の鍵はどちらも玄関のキーフックにかかっていたし、家のスペアキーの隠し場所も知っている。こっそり車を拝借することは充分可能だ。僕はまだ母親に顔を合わせられる程気持ちの整理がついていないし、話をするにしても、その前に現在もこの町が人魚を捕まえているのかどうか知りたかった。母に会いたくないことを考えると、やはり行動するなら今晩だ。山神も夜の方が人目に付きづらいだろう。
 じゃあとっとと車取ってきます、と言って僕は立ち上がる。山神の先程の話によれば、すぐ近くに麓から続く車道があるはずだ。たぶん祖母と昔山へ通っていた時に通っていた道だと思うのだが、終点の近くにこんな社があるのは知らなかった。今日わざわざ川に沿って登ってきたのは完全に骨折り損だったわけだ。結果論だが、車道を登ればよかったということになる。それはさておき、実家はこの山に近い。車道を使えば、計算の上では夜の内にここへ戻ってこられる筈だ。
「山を降りるなら夜が明けてからにしなよ、危ないでしょ」
 と山神は驚いた様子だったが、いえ、事情があって、と返す。僕の濁した言葉に何かを察したらしい山神は、特に食い下がることもなく、じゃあこれ、とどこからか提灯を取り出し、燭台の蝋燭を一本中にセットした。奇妙な明かりが点る。明らかに蝋燭一本の光量ではないし、山神が雑に僕へ提灯を差し出しても全く火が揺れなかった。人外の灯りだ。これなら持って走っても大丈夫かもしれない。
 提灯を受け取ると、気をつけてね、という山神の言葉を背に社の扉を開ける。都合よく雨は止んでいた。どうせ戻ってくるのだからと、コンビニのレジ袋は丸ごと置いていくことにする。山神が指差した方向に歩いて行くと、すぐに砂利道が見つかった。僕は提灯の持ち手を握り直すと、一路夜の山道を走り出した。

 母に鉢合わせないかはらはらしたが、田舎の寝静まった夜は母どころか人っ子一人おらず、不安になるぐらいすんなりと実家に到着した。家の電気は消えており、駐車場には軽トラがなかった。母はいなくなった僕を探して夜通し車で走り歩いているのかもしれない。締め付けられるように胸が痛んだが、それを無視して玄関に向かった。焦ってスペアキーのことを忘れ玄関の扉を引いたが、扉に鍵はかかっておらず、曇りガラスの引き戸はいともあっさりと開いた。一瞬田舎とはいえ不用心だ、と考えかけたが、すぐに理由に気がついて下唇を噛む。どの口が言うのだ。お前が帰ってきた時のためだろう。
 玄関のキーフックから鍵を取り、車へ向かう。スマートキーではなく、直接鍵を挿して回すタイプの古いドアを開くと、倒れ込むように車に乗り込んだ。体が、特に足が疲れきっていたが、山神に倣って休む間もなく車のエンジンをかける。今のアパートに移り住んでからというもの、オートマ車すら運転していなかったのだ、いわんや母好みのマニュアル車ともなれば発進するのすら一苦労だった。障害物のない田舎道で無理矢理運転の勘を取り戻しながら山へ向かう。
 度々エンストを起こしながらも(傾斜のある山道で何度も肝を冷やした)、何とか社に戻ってきた。エンジン音を聞きつけたのか、ちょうど僕が車を降りた所で山神はレジ袋を持って外に出てきた。普通の人間のように、とん、とんと足音を立てて階段を降りてくる。半分引き摺る程袴の裾が長いせいで足元が見えないが、足はどうなっているのだろう。
 こちらへ到着するタイミングを見計らって助手席のドアを開けたが、山神はレジ袋と、僕から受け取った提灯だけを助手席に置くと、わたしはこっちでいいよ、と自分でドアを開けて後部座席に座った。元は現代の人間なのだから別段その行動自体はおかしくはないのだが、やはりその外見で車に乗るのは場違いな印象が強い。嵩張る服を着ているせいで、狭い車の後部座席は非常に窮屈そうだった。その角で天井に穴を開けないといいんだけど、と呑気なことを考えた。

   ***

「ねえ君、気の利いた告白の言葉なんて知らない?」
 ええと、すみません、知らないです、と素っ気なく答える。
 夜間の山中、つづら折りの道路を下るのは本当に怖い。こんな時間、こんな場所を登る車なんてそうそういないとは思うが(それこそ死体を埋めにきた車ぐらいだろう)、カーブミラーとヘッドライトの気配に集中していた僕の返事が適当になってしまったのは許してほしい。
 これから想い人が囚われていないか見に行くと言うのに、山神はどこか浮かれた様子で、妙に饒舌だった。これではまるで、安否確認ではなく人魚に再会しに行くかのようだ。運転に集中したいな、と思いながらも、道が少し長いストレートになった所で一応告白の言葉について考えてみる。これまでに見たドラマや映画などを思い返すが、どうにもしっくりくるものが見つからない。今更ながらに、高校生の時古文の授業を真面目に受けていなかったことを後悔した。きちんと聞いていれば、こんな時彼に似合う洒落た和歌を教えてあげられたかもしれない。今からでも恋愛名歌集を買って勉強した方がいいだろうか。
 特に気分を害した様子もなく窓の外の景色を眺めていた彼は、トーンダウンした声音でぽつりと呟いた。
「もう何年も経ってるからな。若く見えたけど、彼女がもう死んでたらどうしよう。それとも人魚って不老不死かな?」
 先程まで恋の歌について考えていたからだろうか、らしくもなく、恋をしてなければ生きてるんじゃないですか、と僕は答えた。
 訝しがる山神に、昔読んだ絵本の話をする。何度も転生を繰り返すが、本質的には死ねない猫の物語だ。猫は何度も何度も、100万回も生と死を繰り返し、その時々で様々な飼い主と過ごす。しかしある時野良となった猫は、とある美しい雌猫と出会う。猫はその雌猫と寄り添い共に生きるようになったが、老衰からか雌猫は死んでしまう。猫は嘆き、幾日幾夜と泣き続け、そして死んだ。二度と生き返らなかった。
 物語の捉え方は人それぞれだろうが、僕はその話を、不死を殺す方法を描いたものだと思ったのだ。諦念も退屈も、本当の意味では猫を殺せなかった。愛が、愛だけが彼の永遠の命を終わらせたのだ。その物語を読んで以来、不老不死を殺すのは、伝説の神殺しの武器でも、狂気でもなく、愛だけだと僕は思っている。
「そっか」
 彼は僕の言葉に、短く、けれど神妙に頷いた。
「僕の故郷のアイルランドにはね、海の向こうに死後の世界があるって伝承が残ってるんだ。日本にもあるでしょ、そういうの。なんだっけ、ニライカナイだったかな。確かオキナワだったよね」
 僕は寡聞にして知らない。どうして彼は下手な日本人より日本に詳しいんだろう。
「アイルランドや日本みたいな島国とか、海に囲まれた地域にはよくそういう伝承が残ってるよね。昔、船もなく海に出れなかった人々にとって、海の向こうは、決して手の届かない異界だった。そこには死者や神様がいたんだ」
 彼はそこで一旦言葉を区切る。
 ふ、と目隠し布の下で彼が柔らかく微笑む気配を感じた。
「昔考えたことがあるんだ。天使とかワルキューレみたいに、人魚も死後の世界に連れて行ってくれる御使いなんじゃないかって。空の上の天国もいいけどさ、人魚が海の彼方の世界へ連れて行ってくれる、っていうのも美しいと思うんだ」
 彼はひどく愛おしそうに言った。その言葉で何かを撫でているようだった。
 丁度その辺りで山を降りきり、車は平地を走り出す。それを皮切りに、山神はそれまでとは打って変わって黙りこくった。ぼくはフロントミラーに映る山神の様子からその理由を察すると、どうやら恋愛名歌集は必要なさそうだ、と心の中で独りごちた。

   ***

 山神の体を揺らさないよう、できるだけ丁寧に、滑らかに車を止める。後部座席のドアを開けると、着きましたよ、と声をかけた。意識を失っていた彼は僕の声にゆっくりと体を起こすと、支えてもらってもいい?と言いながらあらぬ方向に手を伸ばした。もう目が完全に見えていないのだ。その手を僕は自分の肩に引き寄せると、彼の体を脇に抱えるようにして車から降ろす。後部座席には、彼が道中で吐いた何かどす黒い、おそらく人間で言う所の血液が大量に染み込んでいた。
 その体は信じられない程軽かった。肩に触れた彼の指の一本が、ぼろり、と崩れ落ちる。その手はまるで焼けた薪の表面のように、白く薄い層が重なった状態になっており、また、大きくひび割れていた。他の指も今にも崩れて無くなってしまいそうな程脆いのが、一見しただけで分かる。崩れた指の断面から、独特の匂いがした。大学生の頃、父と祖母を焼いた火葬場の匂いに似ていた。死の匂いだった。
 彼の重量はそのほとんどが衣服によるもののように思われた。まるで中身の無い枯れ木だ。彼の覚束無い足取りに合わせ、ゆっくりと岩場の洞窟に向かう。潮の音がやけに静かだった。満月の明かりが降り注ぐ音すら聞こえそうな程だった。
 そういえば、今の海面の水位はどうなっているのだろう。今夜は崖下の足場は通れるのだろうか。ふと砂浜の方へ視線をやり、気づく。
 まさか。思わず僕は砂浜に向かって身を乗り出した。気のせいかも知れない。暗い波間の影を見間違えただけかもしれない。それでも確かめずにはいられなかった。
 すみません、と山神に先に謝ると、彼を殆ど引き摺るようにして砂浜の方に向かう。ああ、そんな、そんなことがあるだろうか。砂浜を踏みしめる毎に海面のそれがはっきりと見えてくる。なに、と戸惑う彼に、僕は思わず涙声で告げた。彼女です、と。

 月夜に揺れる波の間に、水面から顔を出している人物がいた。黒髪の女性だ。美しいが、美人と言うより可愛らしい顔をしている。その顔立ちに反して視線は強く、僕が抱えた山神の顔をじっと見つめていた。
 彼女は、すう、とこちらに向かって泳いでくると、ちょうど膝ぐらいの水位の所で止まった。水中で砂の上に魚のような下半身を横たえるのが見えた。上半身を支えるように両手を砂につく。傷一つ無い、綺麗な肌だった。僕は喉を大きく痙攣させながら、情けない程ぐずぐずにふやけた声で山神に伝える。
 人魚がいます。きっとあなたの愛したひとです。
 彼は顔をあげると、……ほんとうに?と掠れた声で呟いた。それだけの振動で崩れたのか、目隠し布の裾からぱらり、と幾つかの白い破片と粉が落ちる。
 彼が僕の体から手を離し、一人で歩こうとして、どしゃ、とその場に崩れ落ちる。その時舞い上がったのは、きっと砂だけではなかった。自力で起き上がろうとするのを慌てて助け上げる。彼はおねがい、と僕に言った。その言葉にそっと手を放した。
 彼は何度も倒れては起き上がりながら、見えない筈の目で必死に彼女を探した。途中脚が崩れたようで、その場に完全に倒れ伏してしまう。思わず駆け寄りたくなるのを堪えて、彼が顔を上げるのを待った。少しの間があったが、彼は何とか起き上がると、殆ど這うようにして彼女の下へ向かった。
 彼女の目の前に彼が辿り着いた時、じゅう、と潮水に触れた彼の体から白い煙が上がった。彼は焼け爛れる自身の体に頓着せず、ただ崩れかけの手を彼女に伸ばした。人魚はそれを最初不思議そうな目で見つめていたが、微かに笑うとその手のひらに頬を寄せた。辛うじて感覚が残っていたのだろうか、山神がびくりと怯えたように震える。ややあってから、彼は人魚の目を覗き込むように少しだけ顔を寄せた。例え殆ど後ろ姿でも、僕には分かる。きっと彼は布の下で、優しく笑っていた。
 彼が彼女に何か囁いたが、僕には聞き取れなかった。それは再会や無事を喜ぶ言葉だったのだろうか。或いは、愛の言葉だったのかもしれない。
 ばしゃり、と音を立てて彼の腕が落ち、水面で砕けた。何とか元の形を保っていた灰が風に煽られるように、さらさらと彼の体が崩れてゆく。人魚はそれを無表情のまま見守っていた。その内中身を失った衣服が海に沈むと、ゆらりと泡になって消えた。最後に片方の角が、軽い水音を立てて人魚の目の前に落ちた。
 彼は消えてしまった。花の枝に似た、節くれだった角だけを残して。

 人魚は、不思議とそれだけは朽ちずに残った角を暫く見つめていたが、やがてそれを両手で拾い上げる。目を閉じて優しく頬を当てた。
 そしてそれを愛しそうに両腕で抱きしめると、海へ向かう。一度水面を尾びれで叩くと、振り返ることなく、遠く沖に向かって泳ぎ出していった。

 彼を連れて。

 生きた僕の届かない、海の向こうへ。

   ***

 結局僕は会社を辞めなかった。退職届は受理されていなかったのだ。退職願をすっ飛ばしての退職届だ、受理されていなくても何らおかしくはなかった。
 これまで通り会社勤めは続け、隙間時間に絵を描きます、ということで母とも決着がついた。母は僕の進路についてただ一言、ごめんね、と言った。僕も同じように謝罪した。今回の衝突が僕らの関係にどういった変化をもたらすのかは、まだ現時点では分からない。
 あんな経験をしたにも関わらず、僕はこれまでと殆ど何も変わらなかった。唯一の変化は、小説を書き始めたくらいだ。

 あの後僕は一人で洞窟に向かったのだが、新たな人魚が囚われている様子はなかった。別段山神の話を疑っていたわけではないが、実際に鉄格子が存在するのを見た時は本当に衝撃を受けた。彼らはこんな場所で出会ったのだ。忌まわしい話だ。だが美しい話でもあった。
 彼らの物語を、一幅の絵に描ききることは僕にはできない。だからせめて筆をペンに持ち替えて、僕は今もあの時の、彼の愛の言葉を探している。