【エッセイ】歯が抜ける夢の話
何度も繰り返し見る夢がある。たぶん誰にでもそういう夢が1つや2つあると思うのだが、小さい頃の私はそれが「近くの大型ショッピングモールの2階から落ちて死ぬ」というものだった。
実在するそのショッピングモールは実家から車で2、30分ほど走った所にある。それが近いに分類されるかどうかはともかく、実家のあるド田舎には他に家族連れが休日に出かけるのに適当な娯楽施設がなく、家族で出かけようか、という話になると行くのは決まってそこだった。私は時間さえあればゲーム画面か図書館から借りてきた本に齧り付いていたいインドア派小学生だったので、特に欲しいものも面白いものもないその外出は100パーセント付き合いだった。
私はそのショッピングモールが正直苦手だったが、それはその退屈さだけではなく、2階の通路の中央が吹き抜けになっていた事による。カタカナの「ノ」の字の様な形のそのショッピングモールは、外周に店が並び……私の怠惰な言語中枢が仕事を放棄したがっているので大雑把に図解すると、こうだ。
ともかく2階の真ん中がずーっと吹き抜けになっており、私は近くを歩くのが本当に嫌だった。高所恐怖症だったのだ。吹き抜け部分に設置された柵は主に透明な板で出来ており、落下防止のためか背が高かった。幼い子どもの視点の高さですぐ近くに立てば柵の金属部分はほとんど視界に入らない。そのくせ板の透明度は異様に高かったので、感覚的には何も縋るもののない縁に立っているも同然だった。
それが怖かった私は、極力店側の壁に張り付く様に歩くのが常だった。話に夢中になってこちらに気がつかない歩行者の集団などにぶつかりそうになった時には、仕方がなく吹き抜け側を歩いたが、集団とすれ違いきった瞬間走って再び壁に引っ付いた。その様子を訝しむ大人もいたが、なにせ何度もそこで死んだ夢を見ているのだ。そうなるのも無理からぬ事だと思うし、何ら恥じる事もないと思う。
その夢の始まりで、私はなんとなしに柵へ手をかける。すると柵は金属が劣化して脆くなっていたのか、ぼろり、と根元から折れて1階へと落ちてゆく。柵へ体重を預けようとしていた私と一緒にだ。自身の置かれた状況を理解できず、あれ、と思った瞬間目が覚める。少なくとも初めてその夢を見た時はそのタイミングで目が覚めた。それだけでも当時の私にとっては充分怖い夢だったのだが、その後同じ夢を何度も見る様になり、そして見る度その夢は徐々に長くなってゆき、それに伴いその後の展開も分かる様になっていった。2回目に見た時は1回目よりも目が覚めるタイミングが遅く、数十センチ落下した所まで見た。3回目はさらに数十センチ。5、6回目の頃にはすっかり1階まで落ち切り、私は冷たいリノリウムの床に叩きつけられた。どの様な姿勢で接地したのかは分からないが、打ちどころが悪かったのか痛みを感じる間もなく私は絶命する。誰か女性の悲鳴が聞こえた気がした。更に夢を繰り返し見てゆくうち、死んだ私に更に追い打ちをかける様に何故か割れた天窓からガラスの破片が降る様になったのだからドラマチックだ。流石ゲームと本に齧り付いていた小学生だけある。ちなみに天窓は実際にそのショッピングモールに数箇所存在した。
ガラスの破片の中でも小さな粒状になったものは私を傷つける事なく、肌の上で跳ね、服や床に白く降り積もる。大きなものになると表皮と真皮を裂き、中の筋繊維やぷつぷつとした皮下脂肪にまで届く。最後に一際大きなガラスの破片、最早破片というよりガラスそのものだが、それが私の腹をずぶりと貫通して床に突き立った。基本的に私は夢の中で痛みを感じない。ただ体に食い込む異物感と体内を掻き回される様な気味の悪さだけを覚える。
その頃には夢を見る頻度もピークに達しており、週に3、4回、それが1ヶ月程続いていた。その後は徐々に見なくなっていき、夢の内容もそれ以上は進展せず、いつしか私はその夢を見なくなった。
今年のお盆に実家に帰省した際、丁度用事があってそのショッピングモールにも足を運んだのだが、もう吹き抜けは少しも怖くなくなっていた。大人になってそう簡単に落下する事は無いと思える様になったのかもしれないが、それ以上に落ちたら落ちたでその時、仕方がない、みたいな妙な達観も自分の中にある気がする。例え恐怖を感じたところで、今はその恐怖を楽しむ余裕も持っている。
ショッピングモールの2階から落下する夢はそうして見なくなったが、近頃は違う夢に悩まされる様になった。歯が抜ける夢だ。丁度実家を出た頃から見始め、数年経った今まで、1、2ヶ月に1回程のペースで繰り返し見ている。
夢の中でふと、口の中に違和感を覚える。何があったか確かめようと、口を開けずに舌先でその原因を確かめようとする。何か固い塊の様なものがあった。更に詳しく形を探ろうと舌で転がすと、ぴん、と繋がった糸が張る様な感覚があり、歯茎が引っ張られた。抜けた歯だ、と直感する。それは上側の歯で、歯根から全て抜けきっているが、歯茎から伸びた神経のみでぶらりと垂れ下がっていた。現実にはありえない神経の長さだが、夢の中なのだから仕方がない。歯茎の状態を確かめようと舌を口蓋に伸ばすと、舌が触れた他の歯もぐちゃり、と歯茎から抜けて口内で神経だけを頼りにぶらさがって揺れた。それを皮切りに、次々と上の歯が抜け、下の歯もぐらりと歯茎を掘り崩す様に倒れた。これも神経だけで歯茎に繋がっている。そうして全ての歯が抜け、私の口内はあっという間に歯でいっぱいになってしまった。動揺しているせいか舌が勝手に動くのを止められず、口の中で大量の歯がぶつかり合い、じゃらじゃらと音を立てる。
そのタイミングで、いつの間にか女性が傍にいた事に気がつく。現実の知り合いではないが、この夢の中ではよく見知った相手で、お節介だが悪い人ではないという設定だ。どうしたの、大丈夫、と様子のおかしい私に気づいて声をかけてくれる。私は慌てて両手で口を抑える。今のグロテスクな口内を見られたくなかった。口がどうしたの、具合が悪いの、と心配してこちらの手に指をかけてくる。私は涙目になって首を左右に振り、放っておいてくれ、と意思表示をしたが、何か無理をしていると判断したらしい相手は尚も声をかけ、見せてごらん、と口を塞ぐ私の手を引き剥がそうとする。大丈夫だから、と声をだそうとすると、舌の上で抜けた歯が転がり、歯茎のあちこちが引っ張られた。諦めたらしい女性は手を離すと、待っててね、とスマホでおそらく救急車を呼びながらも、誰か他の人を呼ぼうとしたのかどこかへと走ってゆく。彼女がいなくなった隙に私は口に指を突っ込み、必死で歯を元の場所へ戻そうとする。ぶらりと落ちるのと、ぐちゃぐちゃと歯茎へ歯を刺すのを泣きながら何度も繰り返す。ここで夢が終わる。
この夢を見始めた当初、この夢が何を意味するのか調べた記憶がある。所謂夢占いだ。当時見たサイトでは確か「歯が抜ける夢は家族など血縁者が亡くなる前触れです」などと書いてあった気がする。これは歯1本につき1人なのだろうか。坂口安吾によれば人間の歯の本数はキチョウメンに皆同じ筈なので、きっと夢の中の私も28本歯があった筈だ。ひと眠りで一族郎党皆殺しである。今気になって調べてみた所、私と同じ苗字の人間は日本に200~300人程いる様だ。いつの間にか私以外この苗字の人間は絶滅していたらしい。知らぬ間にこの双肩に苗字の存亡がかかっていた。なんてことだ。
落下する夢が私の高所恐怖症に端を発するものならば、おそらくこの夢はお高いハミガキのCMのせいだと私は思っている。歯槽膿漏や歯茎の衰えへの対策を謳うものだ。歯茎が弱って歯が傾むいたり、すっかり歯茎が弾力を失い下がりきってしまい、歯の根元が露出している様なイメージ映像だ。購買意欲を煽るために少々大袈裟に描いているとは思うのだが、あれはあまりに怖いと思う。私はあのCMが嫌いだ。
話は変わるが、「嫌い」という言葉が嫌いだ。オタクは特にそうだと思う。嫌いなものじゃなくて好きなもので自分を語れよとか、自分の地雷は誰かの性癖だとかそういうのだ。自分と違う価値観の人間の意見を見て傷ついた経験は誰にだってあるはずだ。それならば誰しも「嫌い」という言葉を使うのに多少の躊躇が生まれるものだと思うが、ハミガキのCM好きな人なんているの?ねえ?????製作関係者?推しが出演した人?
関係者各位には申し訳ないが、やっぱり私はハミガキのCMが嫌いだ。