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【小説】泥中を食む
錆び付いて、所々腐食し崩れた金属製の階段を登る。
前を歩く男性はその危うい様子を気にしていない様子で、かん、かんと独特の金属音を立てながら、古く朽ちかけたアパートの二階、彼自身の部屋へ向かう。今にも抜けそうなのが怖くて、そろり、と極力体重をかけない様ゆっくりと後を追うと、その間に彼はポケットから鍵を取り出していた。
緊張からかその手はひどく震えており、ただ鍵を錠に差し込むだけの、毎日行うであろうその動作がうまく出来ない様子だった。
「あれ、その、おかしいですね」
そうやって耳まで蒸気させながら、彼は誤魔化す様に笑う。その言葉が「変ですね」と「笑っちゃいますね」のどちらの意味なのか分からず、曖昧な笑みを返した。
暫しの格闘の後彼が漸く扉を開けると、一瞬遅れて独特の生活臭がその隙間から溢れてきた。臭い、という程ではないが、嗅ぎなれない、見知らぬ男の汗と脂の匂いはあまり快いものではない。つい息を詰める自分の中に、男性への生理的嫌悪感を見て胸底に澱むような自己嫌悪を覚えた。
焦って脱いだ靴をひっくり返しながら部屋に入る男性に続いて、おじゃまします、と呟きながら自身も扉を潜る。色褪せた無地のカーテンで締め切られた薄暗い小さな部屋は、長らく換気されていない部屋特有の、何処か篭った空気で満たされていた。緑色の布地を通した光の加減のせいか、或いはその空気の粘度のせいか、どろりと濁った水槽の中に踏み出した様な錯覚に一瞬陥る。
靴を脱いで框を上がると、苔むしたアクリル板ではなく、埃が目地に詰まった古い畳の感触がスクールソックス越しに伝わってきた。しゃがんで靴を揃えながら、その独特の感覚に思わず下唇を噛む。
立ち上がると、玄関の直ぐ脇にある小さな台所のシンクに大量の洗い物が置かれているのが目に入った。その上には、切り替え型ではなく、水とお湯のバルブがそれぞれに存在する古いタイプの蛇口が設置されている。おそらくどんなにきつく締めても漏れてしまうのだろう、蛇口から滴った水が、ぽつり、ぽつりとフライパンに溜まった水を打っていた。
「す、すみません散らかってて」
男性はその声を裏返しながら、床の多くを占めていた万年床を哀れな程震える手で不器用に畳む。その途中で彼ははっとした表情をすると、脇に脱ぎ散らかされたしわくちゃのTシャツと、丸まったボーダーの分厚い靴下をその布団の中へ乱暴に押し込んだ。
そうして決まり悪そうに視線を逸らす彼を少し可愛らしく感じてしまうのは何故だろう。自分の中の母性がそうさせるのか、或いは少しでもこの時間を穏やかなものにしたい、そうでないと救われないという、一種の自己防衛なのかもしれなかった。
いずれにせよ、私に対してそうやって取り繕う必要なんてないのに、と思う。部屋がどの様な状況であれ、どうせ誰にも話せないし、私自身もなんとも思わないのだから。きっと彼にとってはそういう問題ではないのだろうが。
そんな彼は何か言いかけてやめると、壁に立てかけられていたダイカットクッションを無言のまま部屋の中央に敷いた。差し出す様なジェスチャーを見るに、どうやら座布団代わりにしろ、という事らしい。ゲームセンターのプライズらしき、何か美少女キャラクターの描かれた薄い生地のクッションはくたびれて、その表面は毛羽立っていた。
大事に使っているであろうそれに座るのは少し躊躇われて、その隣にそっと正座で座り込むと、それをどう受け取ったのか、彼は謝罪らしき言葉を漏らすとクッションを再び壁にもたれさせた。
その後も彼は口内で何らかの言葉をもごもごと転がしていたが、やがてのそりと立ち上がり、緩慢な動作で台所に向かう。そうしてシンク下の扉を開けると、おそらく包丁立てがあるであろう辺りに落ち着かない視線を漂わせる。その手も所在なさげに何度も握ったり開いたりしており、そろそろ体も揺れ始めるのではないかと思わせるほど不安定な挙動を見せていた。茫洋とした心地のまま見つめていると、彼はこちらを見ないまま、
「あの、横になって目を閉じてくれると、やりやすいです」
特に反抗する理由もないので、言われるまま畳の上に横になる。ここまできて気にする事ではないのだろうけれど、何となく髪と制服のスカートを整えた。
本当に畳の上でいいのだろうか。先程の布団を敷いていた方がまだよかったのではないか。後でこの人は大家さんに怒られないだろうか。
そんな事を考えたが、親切心より悪戯心が勝って、敢えてそれを指摘する事はしなかった。彼の困った顔を想像しながらゆっくりと目を閉じる。きっと堪えられない笑みが浮かんでしまっていたと思う。
ぽたり、と。
蛇口から垂れた水の音が耳を打つ。
ふと、コップに注がれた液体が冷たい水か暖かいお湯か、人間はその音だけで判断できるという話を思い出した。意識していなくても、経験からその粘度による音の差を覚えているらしい。
もし何の前情報もなくこの音だけを聞かされたら、私はこの蛇口からの水音をそれだと判断できただろうか。もしかしたら雨上がりの紫陽花から落ちる雨だれの音だと思ったかもしれないし、もしくは柄杓から手水鉢に水が落ちる音、あるいは鍾乳洞の天井から滴り落ちる雫が、石筍を撫でる音だと思ったのかもしれない。
「あの、そろそろ」
ぽつり、
男性の声でふと現実に引き戻される。
思わず目を開くと、そこにあるのは雨漏りの跡が残る古い木の天井だった。思いを馳せていた静謐な空間との落差に思わず笑ってしまう。伝統工芸ぶったデザインの、真新しい電灯のカバーには薄く埃がつもり、その上に小さな羽虫の死骸があるのがぽつぽつと透けて見える。ワンルームだからか、油で少し不透明になった蛍光灯の端は黒ずんでいた。
息苦しい程の生活感。
ぽつり、水音は想像した情緒ある映像とは余りにもかけ離れている。
緩んだ古い蛇口から垂れる水が、食用油でてらてらと濁る虹色の水面を穿つ音。決して美しいとは言い難いそれが、しかし自分には相応しいと思う。見ず知らずの男に望んで「殺して」と頼むような私には。
ぽつり、
再びゆっくりと目を閉じる。
折角今から死ぬのだからと、これまでの人生をまさぐる様に記憶を辿る。しかし幸せな思い出も沢山あったはずなのに、何故か浮かぶのは苦い記憶ばかりだ。
思い出は美しい、なんて言えるのは心が凪いだ人だけだと思う。精神の器に溜まった感情は辛い思いをする度に泥を投げ込まれた様に濁り、揺れ。限られた一部の人間だけが、その土が沈殿し分離するまで耐える事ができる。そうしてできた上澄みだけを掬って、その記憶の甘さを嗜む事ができるのだ。
でも、私は駄目だ。私の様な人間は砂が沈むのを待てず、かさぶたを剥がす様に容器の中を引っ掻き回す。嫌な思い出を何度も何度も反芻し、耐えきれずに口に含んではその泥を食むのだ。
ぽつり、
些細な振動にすら心が濁る。きっと世界の誰かと比べれば、余りにも恵まれた、嘆く事を許されない立場の私は。
ぽつり、
それでもこの痛みは、舌に残り歯を軋ませるこのざらつきは決して存在しないわけではないのだと。
ぽつり、
男性がそろそろと畳を踏んで近づいてくる気配が分かる。彼がその手にした包丁で、この精神の器を、体ごと引き裂いてくれるのを、私はただただ待っている。
ぽつり。