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【考察】車輪の唄
男女の旅立ちのラブソングとして捉えることも可能だが、今回は個人的な解釈を書き留めようと思う。
「車輪の唄」というタイトルだが、車輪という単語がのちに発表される曲にも出てくる。「You were here」という曲でツアー中に藤原氏がライブでの想いを書き上げたものだ。この曲を聴くと、車輪とは時間の流れを表していることがわかる。
そして、車輪の唄の歌詞を読んでいて気付いたことがひとつある。
自転車を漕ぐ見送る人と電車に乗る見送られる人が登場するが、見送る人は見送られる人の顔を見る描写がない。
全て「振り返ることができなかった」「目は合わせないで」「俯いたまま」「顔見なくてもわかってたよ」と見送られる人の顔を認識してないような描き方がされている。
これは藤原基央氏が特定の誰かではなく、【ライブに来てくれたリスナーに対し送っている応援歌】のようにも捉えられるのではないだろうか。
車輪の唄もYou were hereと同じく、ライブでのファンとBUMPのやり取りの中で感じた思いを描いているのではないかと思う。
錆び付いた車輪 悲鳴を上げ
僕等の体を運んでいく
明け方の駅へと
ペダルを漕ぐ僕の背中
寄りかかる君から伝わるもの
確かな温もり
線路沿いの上り坂で
「もうちょっと、あと少し」
後ろから楽しそうな声
町はとても静か過ぎて
「世界中に二人だけみたいだね」と
小さくこぼした
同時に言葉を失くした
坂を上りきった時
迎えてくれた朝焼けが
あまりに綺麗過ぎて
笑っただろう あの時 僕の後ろ側で
振り返る事が出来なかった
僕は泣いてたから
坂を登りきって迎えてくれた朝焼けとはライブ会場の光景にも例えられるのではないだろうか。ツアーを行うまでに作詞作曲、レコーディング、CDの販売と、工程を進んでいかなければならない。そしてCDをリリースすると聞こえるファンからの声などが坂を登っている途中の情景と重なる。
券売機で一番端の
一番高い切符が行く町を
僕はよく知らない
その中でも一番安い
入場券をすぐに使うのに
大事にしまった
おととい買った 大きな鞄
改札に引っ掛けて通れずに
君は僕を見た
目は合わせないで 頷いて
頑なに引っ掛かる 鞄の紐を
僕の手が外した
BUMPのライブとはBUMP OF CHICKENが叶えたかった夢のことであり、まさにここの駅ということである。だから入場券だけでいいのだろう。リスナーにはそれぞれの夢がある。それらはライブ会場とは異なる遠い街の駅にあるのかも知れない。
BUMP OF CHICKENの歌詞で「鞄」という単語はよく出てくる。「鞄」は捨てられない思い出を指すことが多い。今回もそうだとしたら、たくさん抱えてしまった思い出が行く道を阻んでしまい、それをBUMP OF CHICKENの音楽が道を通る手助けをしてくれているかのようだ。
響くベルが最後を告げる
君だけのドアが開く
何万歩より距離のある一歩
踏み出して君は言う
「約束だよ 必ず
いつの日かまた会おう」
応えられず 俯いたまま
僕は手を振ったよ
間違いじゃない あの時 君は…
君だけのドアとは「同じドアをくぐれたら」の曲のように、その人の人生はその人しか歩むことができないという意味なのだろう。
ライブ終わりはそれぞれは自分の目的を果たす道へと帰っていく。また次のライブを楽しみに置いて。
線路沿いの下り坂を
風よりも早く飛ばしていく
君に追いつけと
錆び付いた車輪 悲鳴を上げ
精一杯電車と並ぶけれど
ゆっくり離されてく
泣いてただろう あの時
ドアの向こう側で
顔見なくてもわかってたよ
声が震えてたから
約束だよ 必ず いつの日かまた会おう
離れていく 君に見えるように
大きく手を振ったよ
町は賑わいだしたけれど
世界中に一人だけみたいだなぁと
小さくこぼした
錆び付いた車輪 悲鳴を上げ
残された僕を運んでいく
微かな温もり
ライブが終わり、また次会えるように願い、スタートに戻り日常へと帰っていく。
世界中に一人みたいだなぁとはライブ終わりの藤原氏の思いなのだろうか。
私はBUMP OF CHICKENの音楽を聴いて藤原基央氏が体験したであろう困難やそれに立ち向かう勇気というものに共感して私も勇気をもらう。そんな聴き方をしていると、違う人間であっても困難に立ち向かう勇気や孤独である事実は人それぞれ経験しているもので、違う人生を歩んでても苦しみを分かち合うことができるように思う。
一度こんなふうに車輪の唄を聞き返してみたらどうだろうか。