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メモ『純粋理性批判』における叡知的偶然性と経験的偶然性の区別

 『純粋理性批判』からの直接引用箇所は、イマヌエル・カント著、熊野純彦訳、『純粋理性批判』、作品社、二〇一二年を参照した。なお、直接引用部はA版またはB版のページ数によって指示する。

本文に黒猫は出てきません

 『純粋理性批判』において、カントは「偶然性」(Zufälligkeit)概念を「叡知的偶然性」と「経験的偶然性」の二つに区別する。「叡知的」という語が表す通り、前者の偶然性は知性的な可能性にすぎず経験されることのできないものである。この区別を提示することの端的な意義は、「同一の事物が相異なる状態を取る可能性は、異時的に表象(あるいは認識)される他ない」ということの示唆である。われわれには、ある同一の事物が同じ時間において別々の状態でありうるということを、少なくとも経験の中で認識することはできない。同一のエンティティに二つの異なる状態が同時に共属するということを経験しないからである。したがって、真の、「叡知的」な意味における偶然性は与えられることはできない。このようなカントによる偶然性概念の切り下げは、彼が仮想敵としたヴォルフ哲学における可能世界論の批判にも貢献していると考えることができるだろう。このような偶然性概念の区別が展開されるのは、超越論的弁証論の第二篇第二章における「第四アンチノミーに対する注解」と、第二版において加筆された、超越論的分析論の第二篇第二章第三節における「原則の体系に対する一般的注解」とにおいてである。ここでは、この二か所の文章を簡単に確認することにしたい。なお、記述の成立した順序という観点では前者から始めるべきであると思われるが、今回は、書物の中での登場順にしたがって、後者から始めることにする。

「原則の体系に対する一般的注解」(B288-294)

 この注解は以下のことの指摘から始まる。すなわち、

 カテゴリーからは事物の(実在的)可能性を推論できない。それが与えられうるのはただ、直観において客観的実在性を呈示するときのみである、ということである。

 (カントは概念の論理的可能性と実在的可能性の区別にたびたび言及する(A597/B625など)。この区別の要点は、ある概念が無矛盾である(したがって論理的に可能である)ということは、ただちにその概念が現実存在することまでを示さない、ということである。原則の分析論第二章・第一節、第二節でこのことは確認される)

 対応する直観が与えられない限り、カテゴリーにおいて思考されているものが客観なのか、カテゴリーに客観が帰属しうるかを知ることはできない。したがって、カテゴリーのみから総合的命題を形作ることはできない。

 (このように言う場合、ア・プリオリな総合的命題はどのように導かれうるのか、ということが疑問に思われるだろうが、ア・プリオリな総合的命題に客観的実在性を与えるのは直観ではなく経験の可能性である(A156/B195))

 さて、上のことより、純粋悟性概念から次の総合的命題を証明することはできないことになる。その命題とは、「いっさいの偶然的に現実存在するものは、その原因を有する」である。

 とはいえ、カントによれば、「いっさいの偶然的なものは原因を有さなければならない」という命題は「たんなる概念から明瞭に知られうる」。先ほど否定したこの命題は未だに維持可能であるとカントは言う。しかし、それは、当の命題がもはや先ほどとは違うものを意味する限りにおいてであろう。このとき、この命題における「偶然的なもの」という概念は、様相のカテゴリーを含むものとしてではなく、関係のカテゴリーを含むものとしてと既に捉えられている。

 ここでカントは、関係のカテゴリーを含むものか様相のカテゴリーを含むものかで区別された「偶然的なもの」の概念の意味をそれぞれ次のように説明している。

  • 様相──(それが存在しないことも思考できるあるものとして)

  • 関係──(他のものの帰結としてのみ考えることができるあるものとして)

     (後述することになるが、この区別はほとんどそのまま「第四アンチノミーに対する注解」における「叡知的偶然性」と「経験的偶然性」と対応することになる)

 「様相的な」偶然性ではなく「関係的な」偶然性についての命題として捉える場合、先の命題は「帰結としてだけ現実存在しうるものはその原因を有する」という同義反復と同一の命題、すなわち分析的命題となる。したがって、(先の命題が様相的偶然性において捉えられたときのような)総合的命題とは異なり、述語が主語概念の中に既に含まれている内容であるような命題であるため、概念だけからの導出ができるという次第になる。

 以上の内容は、「様相的に偶然的であることはそれが他に原因を有するということを意味しない」ということの説明だった。それにとどまらず、カントは、われわれが実例において与えられている「偶然的なもの」が関係的であって様相的ではないことを示唆する。というのも、われわれが偶然的なものの実例として引き合いに出すのは「変化」であって「反対のものを考えることができるという可能性」ではないからだ。

 カントは本文のこの箇所に付した注による補足において、事物の他の状態が可能であるということは論理的であって実在的ではないと述べつつ、次のように語っている。
 「物体の運動の偶然性(引用者補足:ただしこれは「様相」における偶然性)を証明しようというのなら、その物体が先行する時点で運動しているかわりに、そのときに静止していた可能性があったことが証明されなければならない(B290)」
 この記述が言わんとしていることは次のようなことだろう、すなわち、「様相的な」偶然性の証明には同一の物体が同じ時間において異なる状態であることを示す必要があるが、しかしそれは実在的に可能ではなく、経験において与えられるべくもない、ということである。
 異なる状態が異時的に共存するということは、「様相的な」偶然性の証明にはなりえない。たとえば、同一の個物としての人間は、子供から大人へ、そして老人へと変化する。しかし、老人が過去に子供だったからと言って、その人間が今の時点で老人であることは偶然的であると主張すること、すなわちその人間はいま老人でも子供でありえる、と主張することはたんに誤りであろう。「変化」という概念が指すのは、同一の事物における異なる状態の異時的な共存だと思われるが、しかし、異なる状態が異時的に共存するとき、そこに因果的な必然性が伴わないとは限らないのである。真の意味で「事物が別様でありえた」という可能性を認識するためには、あくまで「同じ時間において」別の状態でありえたということを認識する必要があるのである。しかしそのような認識は可能なのだろうか?
 少なくとも経験においてそのような認識が与えられることは不可能だろう。カントが無矛盾律を支持することから言っても、同じ事物に相反する状態が同時に共属することは不可能である。われわれが、同一の事物が異なる状態であるのを表象するのはそれぞれ異なる時間においてであって、同じ時間において表象することはできない。したがって様相的な偶然性が経験において実在的に与えられることはないのである。

「第四アンチノミーに対する注解, テーゼに対する注解」(A456-460/B484-488)

  第四アンチノミーにおける「テーゼ」とは、この世界に端的に必然的な存在者がぞくしている、という命題であり、この論証は現象における条件の系列の背進によって行われる。「テーゼに対する注解」においてカントが指摘するのは、この論証において認められるのは時間系列にぞくするものとして、世界系列にあって最上の項としての必然的存在者でしかないのであり、「経験的な偶然性」から「叡知的な偶然性」へと飛躍することで現象の系列ではなく叡知的な系列における第一の項として必然的存在者の存在を推論するということはできない、という次第である。

 「経験的な偶然性」という語はここで「経験的に規定する原因へのこの変化の依存性(A458/B486)」と説明される。これに対して、「叡知的な偶然性」、すなわり「カテゴリーの純粋な意味」において偶然的であることとは「その矛盾対当が可能であること」である(A458/B486)。この区別は、「関係的な」と「様相的な」の区別に対応していると言ってよいだろう。

 カントは、現象の系列の上昇という宇宙論的論証においては、端的に必然的な存在者が現象の系列の中にあるというところだけが示されうるのであり、時間条件から切り離された叡知的な系列の中には示されえないということを主張するが、その根拠になっているのは、「原則の体系に対する一般的注解」における様相的な偶然性の不可能性についての説明と同様に、「変化」において「叡知的偶然性」が推論されえないということである。

 変化においては対立する状態の継起が示されるが、しかしそこから、ある状態の矛盾対当が可能であり、かつある状態が偶然的であるということは推論されえない。「変化は、だんじて、純粋悟性の概念にしたがう偶然性を証明するものではなく、かくてまた必然的存在者の現存在へと純粋悟性概念にしたがってみちびくこともできない。変化は、ただ経験的偶然性を証明するにすぎない。すなわち、あらたな状態が、それ自身そのものだけで、つまりは以前の状態にぞくしている原因を欠いて生じることは、原因性の法則にしたがい、まったくありえなかったということを証明するだけである(A460/B488)」

 このように変化の系列において与えられうる第一の原因としての端的に必然的なものは、あくまでそれを可能にする時間の中で、現象の系列にぞくするものとして見つけられなければならない。

 以上の二つの箇所を確認したうえでの結論を総括しよう。事物における状態の矛盾対当の実在的な可能性は、たんなる概念からは与えられえず(客観的実在性の条件)、経験においても与えられることはない(継起的な変化としてしか与えられえない)。したがって、同じ時間において全く違う状態でありえたということをわれわれが示すことはできないのである。


可能世界論批判?

 ここまで見てきたような内容がある種の可能世界論批判として構成されていることは想像できる。ただし、私はライプニッツについてあまりに無知であるため、あくまで私の知っている限りの知識に基づいた仮説的な整理として以下のメモを残そうと思う。誤っている可能性の方が大きい。そのような保険の上で続けさせていただきたい。

 まず、「論理的に可能である事態」が「実際に成り立っている事態」よりも多いということはライプニッツとカントの双方が認めることだろう。ライプニッツにおいてはとくに、このことが可能世界の複数性の導入に寄与していると思われる。
 同時に、「成立している事態にはなんであれ理由がなければならない」と考えることにおいても両者は共通している。ライプニッツにおいては、論理的可能性(無矛盾律)の不十分さを解決するために、超因果的な充足理由律を導入する根拠となっている。
 さて、カントはこの二点においてライプニッツと立場を共有しながらも、論理的可能性と実在性のギャップを充足理由律によって埋めるというライプニッツの戦略には与しない。因果性とは別の水準の原因性を導入し叡知的な原因性としての必然的な存在者というものを推論することを拒むからである。
 まず、第一の点「論理的可能性と実在性は異なる」という点について、カントはたしかにそれを認めるだろうけど、しかし同時にカントはそれを「論理的可能性と実在的可能性は異なる」とよりよく言い換えるだろう。あるものが「無矛盾である」ということはそれが「実在する」ということと異なるのみならず、それが「実在しうる」ということとも異なるのであり、その実在の可能性はア・プリオリに概念だけから導きうるものではない。そしてこのような意味での「偶然性」、すなわち「実在的に可能な状態が複数存在すること」はア・ポステリオリに与えられることもできないのである。したがって、そもそも可能世界が複数存在しうるということは少なくともカントにおいてはわれわれが認識しうることがらではないのである。「経験の可能性」というレイヤーを思考することにおいて、論理的可能性と実在性のギャップは別の問題になるのである。
 第二の点、「成立している事態にはなんであれ理由がなければならない」ということについて、ライプニッツはこれを第一の点のギャップにすぐ結びつけることで充足理由律をもちだしているが、カントにおいては第一の点のギャップがそもそも別様に解決されているため問題にならない。この点はむしろ、「経験的偶然性」で示されるような、現象においては先行する状態が後続する状態の原因でなければならないという因果的必然性の一般化において回収されているように見える。
 
 さて、以上のような仕方で叡知的な偶然性と経験的な偶然性の区別の議論は可能世界論批判を構成しうるように思える。しかし、カント自身は因果性に優越する目的論的な原因性という観点を捨てたわけではないと思われる。たとえば、「超越論的弁証論への付録」においては、人間の把握する「因果性」の有限性が指摘され、それに対して体系の全体性を与えうる合目的的統一が考えられる。ここにおいてはあくまで合目的的統一は理念的に措定されるだけだが、『判断力批判』第二部においては、自然を判定する際の主観的原則としての合目的性について、より具体的な探求が進められる。したがって、カントは因果性と対立する形での目的論的な秩序を認めているし、その目的論的秩序は、神という理念において統一される秩序である。いくらこれらの秩序や神という理念が統制的なものであり、主観的で、また仮構的で、非常に消極的に導入されているのだとしても、機械論的因果よりも包括的な神智的な摂理を認めていることには変わりがないのである。その意味で、少なくとも「最善世界説」に対するカントの態度を決定するには、前批判期の記述も含めて更なる文献の調査が必要だろう。

 今回は『純粋理性批判』に関して個人的に面白いと思っていた部分を取り上げてみた。対して何か意義深いわけではないと思うが、ここまでわざわざ読んでくださった読者には、何か意味を見いだしていただけていると幸いである。少なくとも、これを読んで無駄にした時間の補償はできかねるのだから。

(終)

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