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書き損じハガキ(ボツにした論文の序文、ポール・ド・マンとランシエール)
真・善・美の一致という考えは哲学の歴史のなかで長い伝統を持っている。それはプラトンのイデア論にはじまり、その後アウグスティヌスやアクィナスといったスコラ学者の伝統の中で受け継がれてきた。そして、近代においてこの三者の調和、とりわけ美の調和的な役割について特異的な見解を示したのがカントである。カントは、『第一批判』で著した現象についての認識と思弁の原理と『第二批判』で著した理念に依拠した実践と意志の原理を統一することを試みたが、それは同時に「可感的なものと可想的なもの」および「普遍と個別」の区別を架橋するという困難な仕事でもあった。というのも、カントは、われわれの認識に関しては経験の(つまり可感的な現象界の)確実性を認める代わりに(可想的な叡知界の)理念を仮象として退けたのだが、反対にわれわれの当為に関しては、現象界の因果連関から自由な、叡知的な理念に依拠しているからである。現象の認識はわれわれに与えられうるが、物自体の本性としての普遍性や必然性を持たない、個別的なものになる。しかし、そもそも、絶対的普遍性としての物自体の認識はわれわれに与えられえないということを主張するのが、『第一批判』の核心であった。とりわけ、道徳法則を自然の機械論的因果とは無縁の自由概念として定めたがゆえに、現象の原理と道徳の原理は完全に相容れないものとなった。かくて、カントにおいては真にかかわる自然概念と善にかかわる自由概念という矛盾する概念が同居することになった。ここにおいて、この二つの相矛盾する領域に対して統一的な説明を当たえようという試みが、「個別的・主観的な判断でありながら感官の共通性において普遍なものと見なされる」という趣味判断(美しさの判定)の性質においてなされるのが、『判断力批判』である。ここでは、感性─経験の側にある「美」が、普遍妥当性を主張しうるだけでなく、理念とのある種の節合をも果たすものとして登場しており、「美的なもの」に超越論的哲学の体系を完結させる調和的な役割が与えられている。第五九節で提示される「美しいものは道徳的に善いものの象徴(4:353)」であるというテーゼは『第三批判』の持つ意義を端的に表していると言えるだろう。
真と善はそれぞれ感性的なものと超感性的なものに基づき、その二つが美的なものによって調和的に統合されるという構図は、こうしてカントによって決定的に定式化され、ドイツ観念論やドイツ・ロマン派に継承されることになる。ヘーゲルは「美は理念の感性的な顕現である」という有名な定義を残し、客観的精神から絶対的精神への移行の契機として美的なものを用いている。さらに、シラーにおいては、美を通じて諸個人が自由でありながら全体が倫理的に調和する「美的国家」という国家観が提示されることになる。体系を完結させる「美的なもの」の理念と現象との調和は国家と個人の関係に準えられており、理念の全体的な総括の働きが、国家の全体化に置き換えられている。このようにして、共同体のもつ一つの共通性あるいは統一性を、感性の理念の全体化に等しいもの、感性化された理念という形で表象されるものと見なすひとつのイデオロギーが形成されることになる。
共同体が感性的=美的(aesthetic)な側面においてその統一を担保していることに対して、ポール・ド・マンとランシエールは非常に対照的な批判を提出する。ポール・ド・マンは、「美的なもの」による調和の内的破綻を示すことでイデオロギーを節合解除することを目標とする。ド・マンはカントとヘーゲルの崇高の議論が内的に破綻し、唯物論的な側面を露呈して自ら体系の閉止を挫折させていることを起点として、シラーの美的国家論が矛盾を隠蔽していることを批判する。これに対して、ランシエールは「美的なもの」を完全に廃棄することを拒み、むしろ共同体の「美的体制」の中で「感性的平等」を示すことで、共同体の改革を達成しようとする。そして、この「感性的平等」を提示するものとして、シラーにおける「理想美」の概念を肯定するのである。両者の対照的な美的共同体論が交差するのは、シラーの『美的教育書簡』読解においてである。「政治の美学化」に対する二つの異なる評価は、どのような帰結を招くのか。本論の目標は、『美的教育書簡』に対するド・マンとランシエールの読解を比較することによって、それぞれの示す共同体の未来がどのようなものであるのかを提示することである。
したがって、本論の構成は以下のようなものになる。
第一章では、両者が標的とする共同体の美学的・イデオロギー的側面がどのようなものであるのかを、カントを中心として明らかにする。
第二章では、ド・マンによるイデオロギー批判がどのようなものであったかを確認する。ここでは、ド・マンがカントの崇高論の破綻から、イデオロギーを節合解除する契機をどのように示したのかを確認したのちに、ド・マンによるシラーの評価を確認する。
第三章では、ランシエールによるシラーの評価を確認する。ここでは、ランシエールがシラーにどのような新しい側面を発見し、それを肯定しているのかを明らかにする。
第四章では、美的共同体の二つの政治的帰結を提示する。ここでは、崇高論に依拠するド・マンと、美の議論に依拠するランシエールが、美的共同体にとってどのような未来があるかについて異なる帰結に到達しているということを示す。
ドイツ観念論 ヘーゲル ロマン主義シラー→国家)→マルクスエンゲルス
協同体の持つひとつの共通性あるいは統一性は、いつしか感性の理念の全体化に等しいもの、感性かされた理念という形で表象されるものだと見なされるようになった