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無礼講Time - H Remix/SKRYU, Noconoco(ディスクレビュー)

リミックスというか、これはもはや、新曲だ。夜ごとにステージを踏みながら、段階や階段という意味でのステージを駆け上がってきた、SKRYUの進化をまざまざと見せつけられた。
「無礼講Time」は2020年発売の「SHORT CUT」に原曲が収録され、今回のリミックス版が収録されたアルバム「SCROLL」はその4年後のリリースにあたる。リミックスと謳っているが、ビートはリライトされ、歌は全編録り直されている。SKRYUの現在地をかつての曲の中で感じることができるという意味で、アルバム全体のコンセプトそのものも新鮮だ。特に本曲について、全編を歌い直したとは言え、リリックも、キーもテンポも大きく変わっていないのに、ここまでこの曲が新しく感じるのはなぜだろうか。
何度も原曲とリミックスを聴き比べて、いちばん最初に感じた印象に結局戻ってきた。リリックのリズムのハマりがあまりに良すぎる。良くなりすぎている。それに尽きる。もともとリリックが目指していたリズム感や遊び心、ビートとの交わりを、ロスなく表現できるようになっている。トラックもリミックスらしく原曲の生バンド感を抑えたアプローチで、よりリリックが際立つ形に深化させているのもその要因の一つだろう。
おそらく原曲リリース時点で、ひとりで曲を作っていたSKRYUの脳内では、今回のバージョンに近いリリックの音ハメのイメージがあったに違いない。その時その時でベストな状態を盤に込めるというミュージシャンシップに則り、すべての作品はすべての時点で最大瞬間風速を記録しているはずだ。しかしながら、そこには表現したい目標と、具体的な成果物にどうしてもわずかな差異が出てきてしまう。
リリース時点でのスキルの不足や、そこからの単純な成長と言った意味ではなく、その曲を肯定し、その曲から作り手が肯定されるまでにはそれ相応の時間が必要なはず、という観点を示したい。曲と作り手、曲と表現者の関係が正しく健全に構築されるにはある程度の時間が必要なのに、その時間を経ることなく、曲をリリースしたいという単純な欲求やミュージシャンとしての複雑な事情の中で、曲がリリースされてしまうことでそのズレが生まれてしまう。
その点今回のリミックスというアプローチは素晴らしい。素晴らしすぎる。そもそもアイデアもリリックも超一級だったものを、ライブによって磨いていきながら曲と作り手・表現者の関係をとても健全に構築できている様が伺える。製作者としても表現者としても数レベル上がった本人が歌い上げ、才能あふれるビートメイカーを含むプロデューサーによって再構築された今この時に寄り添えるようなビートの上で、自由にSKRYUがリラックスして跳躍している。
わずか4年。人はここまで高みに翔べるのか。4年という時間だけでなく、ここに至るまで積み上げてきたすべてのものが、いま一気に花開いているのを感じる。もはや日本語ラップにおいて欠かすことのできないマスターピースを担う存在になったSKRYUの、次なる一手に期待したい。

無礼講(ぶれいこう)とは、地位身分の上下を取り払い楽しむという趣旨の宴会

無礼講の概念そのものは、日本では古代からあったと考えられる。しかし、具体的に「無礼講」という名称を用いたのは、鎌倉時代末期、1320年代初頭に、公卿儒学者である日野資朝とその親戚・同僚の日野俊基が開いた会合が、史料上の初見である。これは茶会の一種で、自分の地位に合わない衣服をあえて着ることで、互いの身分の上下の区別をわからなくして、純粋に才能のある者だけを集めて歓談を行った先進的な学芸サロンだった。

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