老子①
老子について
親父の話を前回しましたが、ちょっとナイーブな感じになっちゃったので一旦下書きに戻しちゃいました。
今回はそんな親父の持ってた本の中でもわりかし感銘と影響を受けた「老子」についてです。とは言ってもあんまり詳しいわけではありません。にわかです。
ただ、なんとなくですが、老子の思想は肌に合います。
すごーく共感できる。
これは今の職場(障がい者施設)で働いてても常々思うのだけれど、、、
例えば、散歩とかすると絶対に雑草を取って噛んでから服に擦り付けちゃうE君という人がいて、草を取らないようにこちらも気をつけるんです。
でも、何回かのうち一回は、どうしても衝動が抑えられず草に突進しちゃう。その時の力といったら、もの凄いです。
純粋な想いで突進するもんだから、力がまっすぐで止めようにも止まらない。
草食べる他にも、彼はいろいろな行動をするんですが、世間一般から見たら「やめなさいよ」と怒られちゃうようなのが多い。
で、職員さんも怒っちゃうんです。
「みっともないから、ちゃんと〇〇しなさい」
「間違えてるから〇〇しなさい」
みたいな感じで。
世間一般ではこうだから、こうするべき、みたいな価値観から「ちゃんと〇〇しなさい」みたいな強制的な押し付けの倫理観みたいなのに発展していく。
で、怒っちゃう。
こういう風に杓子定規で障がいのある人の行動とかを強制、矯正していこうとすること自体が、そもそもめちゃくちゃお門違いなんじゃないかと思うんです。
〇〇しなきゃっていうのは、いわゆる健常者と呼ばれる僕らサイドの価値観なだけであり
障がいがある、と言って彼ら彼女らの価値観が間違えてるって感じてしまう僕らの方が、よほど見当違いなんじゃないかと思う。
もちろん、お腹壊したりしたらいけないのでそこは止めますが
内心(なんでこんな草なんかに全力投球できるんだろ??)
と、ある意味感心してしまいます。
普通ならお金とか、女性だとか、お菓子だとか、そんなところに飛びつくと思うけど、彼の価値観というか物差しはそこじゃないんです。
この「物差し」は、実は人それぞれなので、他に迷惑をかけない範囲であれば、自由な尺度の物差しが人の数だけあっていいはずです。
でも、なぜか社会的な物差しの尺度って、ものすごく狭い気がする。
これに対する回答が老子だと思う。
「善なる行いや考えを推進しましょう」
「世間の枠から少しでもはみ出した行動は、矯正しましょう」
この考え方がいろんな社会的な思想の中で蔓延すぎると、とっても窮屈です。
だけど、老子にはそれがない。
偉そうにしたり、聖人ぶるのを美徳としてない。
そもそも善悪の判断は、人間がその時その時の時代とか場所とかに合わせて作った尺度で決めたものでしかない。
だけども、もっと大きな流れから言えばその尺度そのものが、ほんとうに正しいと言い切れるのか???
老子はどことなくそこを出発点にしてる気がします。
なんというか、ダメ人間の視点があるような気がするんです。
世間からはみ出した人にも、老子の言葉は救いになると思う。(これはおそらく老子自身が俗にいうダメ人間だったんじゃないかな笑)
世間一般の世論とか価値観とかの枠から外れたダメな側の人間サイドから
「人間の考えなんて所詮大きな自然の摂理の前にはミジンコみたいなもんだわ」って言って人間の価値観よりももっと大きなものを説いた。
そして、この大きなものを「道」と呼んだ。
道の前では人間の考えなんてちっぽけで一時的で刹那的、独善的なもんだよっ
僕は老子をそんな感じで解釈してます。
この、はみ出しものでもちゃんと帰れる場所を用意して、はみ出した行動にもきちんと居場所を見つけてあげた老子は凄いと思います。
うちの親父みたいなアウトローとかも全然これで救われるんです。
「ちゃんとしなきゃ」っていう枠が外れて、「別にこれでもいいんだ」って思えるようになる。
子どもや障がいのある人と接してたら、この「ちゃんと」の枠を彼らは見事に外してくれるのが逆に楽しく感じます。
雑草食べちゃったり、いきなり服脱いじゃったり、人のおやつ盗ったりしても、自分の気持ちに純粋に突き進む彼らを見てると、いかに自分たちが枠にハメられてるか痛感します。
彼らには彼らなりの「ちゃんとしてるよ僕らは」っていうのがある。
そこをまずは認めるところから始まるのかな、と日々感じます。
老子についてはまだ続きます。今日はこれまで。