ピアノ自作曲 秋のストックホルム K.Tanaka 2024年10月3日 01:43 画像は、スウェーデンの首都ストックホルムの秋の風景です。音楽は秋のストックホルムの風景を表現したピアノ自作曲です。秋の澄んだ空気に教会の鐘が鳴り響く様子を表しました。スカンジナビア半島東部に位置するスウェーデンは、国土の7割が森林で、さらに10万近い湖が存在する国です。冬の季節、南部の一部を除いてスウェーデンは雪に覆われる厳しい寒さになります。ストックホルムの1月の気温はマイナス5度位が平均です。ストックホルムはスウェーデン最大の都市で、北欧の重要都市でもあり、人口は約100万人です。ストックホルムの人口は、現在も増加していますが、自然増ではなく移民です。最近は移民が、ストックホルムの各所で自分たちに合った町を作っています。ストックホルムは別称、北欧のヴェネチアと呼ばれ、平たい島故に街の建物が水の上に浮いているように見えます。地理上、バルト海に面し同海ではロシアのサンクトペテルブルクに次ぐ大都市で、過去にはオリンピックも開催されました。恐らく、今の日本人が誰も直に見たことがないと思われる100年以上前の1912年、第5回夏季オリンピックです。意外なことに冬季オリンピックが、スウェーデンで開催されたことは今まで有りません。同じスカンジナビア半島に在る隣国のノルウェーでは開催されたことがありますが、何故かスウェーデンはありません。ここで、この街の起こりは、13世紀にフォルクンガ王朝初代の国王ビルイェル・ヤールによりメーラレン湖東の小島に築かれた砦です。その頃、戦に備え島を囲むように丸太の柵が巡らされ、ストックホルムの名前の由来となる丸太の小島と呼ばれるようになりました。街は次第に大きくなって近くの島にも拡大し、この街の発端となったスタツホルメン島は、ガムラスタン(旧市街)と呼ばれる様になり、今もその頃、いわゆる中世の建物が建ち並んでいます。13世紀以降、バルト海沿岸のハンザ同盟都市との交易で栄え、その後、カルマル同盟でデンマーク王室配下に併合されて、同王室の重要な課税地となりました。デンマーク王国からの独立は、1520年、デンマーク王クリスチャン2世が、後にストックホルムの血浴と呼ばれるスウェーデン独立派の処刑を行ったことが逆に契機となり、結果として独立運動が高揚し、1523年にスウェーデンは、グスタフ1世に依りスウェーデン王国として遂に独立します。ロシアの血の日曜日事件、その後の帝政ロシアの崩壊と同じ様な感を受けます。恐らく、デンマーク王室が貿易利益の独占、さらに商人に対し重税を課していたのでしょう。最終的にデンマーク王室の利益独占と凄まじい圧制に業を煮やした地元商人の勝利となりました。ストックホルムはスウェーデン王国の首都として人口が急増し、17世紀初頭には1万人に上りました。そして、スウェーデン王国は、独立後瞬く間に列強国に成長し、ストックホルムの人口も17世紀中に数倍になりました。スカンジナビア半島の各都市と国内の中継点として貿易を独占し、ストックホルムは栄えますが、その代償として18世紀初頭にペストが大流行しました。当時のヨーロッパの人口を激減させたペスト菌を病原とする黒死病と呼ばれる伝染病です。非常に感染力が強く、一人でも感染すると街全体を封鎖しなければならない強烈な病気です。ペスト菌は、主に鼠が媒介したと言われていますが、それに留まらず交易品の織物等にペスト菌が付着して感染が広まる等、当時の人々にはどうしようもない状況でした。ペスト菌は体細胞を壊死させる強い毒性を持ち、そのため末期になると体中の至るところに壊死した細胞の塊である黒い斑紋が出ます。そのため黒死病と呼ばれました。さらに運の悪いことに大北方戦争の敗北で、都市の発展に翳りが出ますが、自由の時代と呼ばれる穏やかな時期を経過して、グスタフ3世がロココの時代と名付けられるロココ様式の大流行を巻き起こしました。19世紀後半には、スウェーデンの産業の中心都市として再起し、そこに貿易を目的としたドイツ商人やオランダ商人が移民として流入し、ストックホルムの人口も増加します。然しながら、ストックホルム生粋は市の人口の半分にも満たなかったそうです。丁度、現在の日本の東京に江戸っ子があまり居ないのと同じかと思います。勿論、商産業の発達が人口の都市部集中を招いた結果です。スウェーデンは、他のヨーロッパの地域に比べると開発が遅く、中世以降もストックホルム以外は、ほぼ原野でした。そんなこともあり、18世紀以降、ストックホルムは幸運なことにヨーロッパに在りながらも、ナポレオンの侵攻、第一次世界大戦、ナチスドイツの侵略を含む第二次世界大戦等の全ての戦火を免れました。まず奇跡ですが、第一に義勇兵を除き国家として参戦しなかったこと、次に敵対する国同士の経路上になかったこと、更にスウェーデン自体の開発が遅れていたために資源採掘等の目的価値がなかったことが幸いしたと考えます。しかし第二次世界大戦当時、付近ではスカンジナビア半島沿岸のフィヨルドと呼ばれる渓谷の自然地形を利用し、ドイツの超弩級戦艦テルピッツが船体を隠し、北海を航行するソビエト連邦の輸送船を不意打ちで攻撃していた様です。万が一、第二次世界大戦でドイツが優勢だった場合、ストックホルムにドイツの艦隊が進出したかもしれません。しかし幸いなことにドイツの戦艦テルピッツは、1944年にイギリス空軍の攻撃で沈没します。運の悪い都市の例で、同じヨーロッパの半島でもバルカン半島のセルビアの首都ベオグラードは、戦略的拠点として十字軍の時代から現代迄に100回を超える争乱に巻き込まれ、度々廃墟と化しています。そしてストックホルムは、20世紀以降、現代的な多民族都市へと成長します。市内のクララ地区などの古い歴史的な街並みは、次第に現代建築に建て替えられています。最後に、参考迄にスウェーデンの他の有名な都市には、スポーツとりわけサッカーの盛んなイエテボリがあります。 いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #歴史 #観光 #ヨーロッパ #世界史 #北欧 #スウェーデン #都市 #観光地 #ヨーロッパ旅行 #ストックホルム #町 #北欧旅行 #スカンジナビア #バルト海 #スカンジナビア半島