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遅れているのは日本じゃなくて、私かも。

ここ最近「フェムテック」とか「フェムケア」とか女性性の纏わる言葉が世に許されて目にとまるようになった。

性を語ることって、ちょっと昔の本屋やDVD屋さんにある角のアダルトコーナーみたいな、左右前後確認後にささっと入らないといけないような
雰囲気をもつ事柄で、誰に対してなのがわからない後ろめたさを含むなんともいえない気持ちになる。

「フェムテック」
「フェムケア」
「フェムニズム」
いずれも女性に向けた言葉で
これからを生きる女性を救う言葉として
どんどん前を行くのだろう。

素晴らしい事なのだ。確かに
情報が入りやすい現代において他国の同じ女性が性についてどのように捉えて、何を使い、どうケアしているが知れる。そしてその女性達が人生謳歌しているのであれば尚更学ぶべき事は多い。

しかし、そんなキラキラ生きる他国の女性達に感化されればされる程に先を生きる日本人女性への想いは逆行していく私がいた。

日本は遅れているから
そうなのだろうか?

同じ女性性を生きて、
時に同じ様な気持ちを抱えたであろう日本の女性達も悩みながら時を過ごしていたのではないだろうか?

そこを知らずに、現代の情報だけを得て進んでいくにはあまりにも勝手な気がしてならなかった。

遅れているというのなら、遅れた理由があるはずだ。私は理由を知らずにはいられなかった。

月経日本史
遅れているのは日本じゃなくて私かも。

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