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「歴史」を培ってきた「土地」を尊ぶこと

その歴史を培った民と地を尊ぶがこそ、
歴史を語るに足らう者なり。

と、我思う・・・・・・。

***

ご飯を食べたなら、ごちそうさま
「歴史」を消費するなら敬意を。

ことあるごとに蒸し返しているこの話。

事の発端は、歴史好きが集まる場での会話。
某歴史ドラマ好きの方が、

「歴史は好きだけど学問として専攻しようとは思わない。ドラマの舞台になっている土地は田舎で面白くないだろうし、気候も暑くて耐え難し」

という発言をぶっ放したことでした。
(なお、私個人にではなく、その場にいた不特定多数の人に向けての発言。)

端的に言えば悔しかった。

クソな立地という壁を超えてもらえるほどにはこの地の歴史の魅力は伝わっていなくて(個人の興味の問題なので致し方ない)、このドラマの舞台となった土地の歴史を掘り起こしていた者としては、とてもとても悲しくなったのでした。暑いはずなのに少し鼻水が出るくらいには。

けれども、やや1週間くらい時間がたって気づきました。

我々、もしや結構失礼なこと言われたのではないかい?結構とまではいかなくても、いささか失礼なのではなかろうか。

まあ、西洋史が好きだからといってヨーロッパに住まないといけないわけはまったくないし、中華ドラマが好きでも東洋史で卒論を書く人間なんてどれくらいいるだろうか。「好き」と「住む」と「する」という語彙が「す」の1音しか被っていないように、好きだから住むわけでも研究をするわけでもできるわけでもないのは当たり前のこと。生活スタイル、経済状況、体質エトセトラエトセトラ・・・・・・人間できることには限りがあるのですから。

なので、ここからはお気持ちの問題なのです。

あなたが好きだというドラマの土台となっている歴史は、このクソ田舎の人々が長い時間をかけて培ってきたものなのです。高いビルディングもJRの駅も高級なデパァトもない、一年中湿って蒸し暑いこの田舎で暮らす人々によって。

そう、大河ドラマにしても時代劇にしても、私たちは歴史をエンタメとして消費することで娯楽を享受しています。これは決して悪いことではありません。けど、これらを好きだと語るのならば、「歴史」にはある程度の敬意を払うべきだと思うのです。勉強しろだとか研究者を敬えだとか「正しい歴史」を学べだとか、そういうことではまったくありません。
(そんなこと強いられたら楽しくないので。)

「歴史」を培ってきた人々と土地を尊ぶこと。

多くの人が嫌がるような(かもしれない)、モノが乏しく過ごしにくい土地(のような気がする)。

そんな場所で、今も昔も、生きて、歴史を繋いでいる人たちがいて、今もいる。

その人たちを前にして、「アナタたちの歴史は面白いけど、アタシはこんなクソサウナ田舎には住めないワ」(悪意のある意訳)なんてどうして言えましょう。

言われたらイヤくないか?
ふつうに失礼じゃなかろうか。

心のなかで思うのは自由です。

しかし、そういうことは、心のなかでそっと呟いておくのが吉でありましょう。

「好き」と「住む」と「する」は違うので、東洋史を勉強していても四川料理が苦手だってかまわないし、日本に住んでいたって日本史に興味を持つ必要はないのです。
(一般教養的な話は横置きして。)

そういうことは、心のなかに留めておいて。

(もはや歴史云々以前に、いかに無難なコミュニケーションを以って交流するかという話のような気もする。)

とにかく、このド田舎亜熱帯で培われてきた歴史を私たちそしてあなたたちは消費してるのである。創作や摂取するエンタメとして、はたまた妄想の糧として。そうであれば、ネタの供給元に対して感謝をするのが妥当っちゃ妥当なんじゃないのかな、と思います。そこに余計なひとことを言っちゃわないようにするのが、敬意を払うことであり一般的には気遣いといわれるものであり、ひいては感謝の姿勢なのではなかろうか。
(と、私が勝手に思っているだけです。悲しかったので。)

そのうえで、さらに、一度は娯楽として享受した歴史にもし興味をもってもらえて、いつかちょっとでも踏み込んで昇華してもらえたのならば、歴史好きからするとそれはそれはとても嬉しいことであります。

***

人と土地がなければ人間の歴史が紡がれません。

たとえ自分が荒れ地に住みとうなくても、そこで生きている民を前にして「こんな土地、住みとうない」と言い放つ口で、どうして歴史を語れましょう。

以上、完全に憤りと愚痴でした。

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