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行動経済学

予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」

わたしたちの行動に影響をおよぼす力(感情、相対性、社会規範など)は行動に多大な影響をおよぼしているのに、わたしたちは自然にその影響力をとんでもなく過小評価したり、まったく無視したりしてしまう。わたしたちが影響されてしまうのは、知識がないからでも、訓練が足りないからでも、意思が弱いからでもない。熟練者でも初心者と同じように、規則正しい予測できる形で何度も繰り返し影響を受ける。その結果である失敗が、そのままわたしたちの生き方、ものごとのやり方になる。失敗もわたしたちの一部なのだ。

わたしたちは、目の錯覚に引っかかるのをどうすることもできないように、心が見せる「決断の錯覚」にころりとだまされてしまう。問題は、視覚や決断の周囲にある状況が、目や耳や、嗅覚、触覚、さらにはその大元締めである脳によってフィルターにかけられていることだ。わたしたちが情報を把握して消化するところには、その情報はわたしたちが生みだした現実の表裏であり、わたしたちはこの入力を決断の基準としている。要するに、わたしたちには自然から与えられた道具しかないため、自然にくだす決断はその道具の性能や精度に制限を受けるのだ。

もうひとつの重要な教訓は、たとえば不合理があたりまえのことであっても、だからどうしようもないというわけではない、ということだ。いつどこでまちがった決断をするおそれがあるかを理解しておけば、もっと慎重になって、決断を見なおすように努力することもできるし、科学技術を使ってこの生まれながらの弱点を克服することもできる。

不合理だからうまくいく: 行動経済学で「人を動かす」

わたしたちの実験から、人間の労力について、次の四つの原則が明らかになった。

  • 何かに労力をつぎこむとき、変化するのは労力をかける対象だけではない。わたしたちも変わり、わたしたちがその対象に与える評価も変わる。

  • 労力をかければかけるほど、愛着も大きくなる。

  • 自分で作ったもの過大評価する性向は根深いので、ほかの人も自分と同じ見方をしているはずだと思いこんでしまう。

  • 多大な労力をつぎこんだのに完成させられなかったものには、あまり愛着を感じない。

ずる――噓とごまかしの行動経済学

肝心なのは、どんなものあれ、不正行為をとるに足らないものと片づけるべきではないということだ。初犯はたいていの場合、初めてのことだしだれにも間違いはあるといって、大目に見られることが多い。そうかもしれないが、初めての不正行為は、その後の自分自身や自分の行動に対する見方を形成するうえで、とくに大きな意味をもつことも忘れてはならない。だからこそ、最も阻止すべきは最初の不正行為なのだ。一見無害に思われる、単発の不正行為の数を減らすことこそが重要だ。これを進めていけば、いつかより正直で腐敗の少ない社会が実現するかもしれない。

わたしたちをとり巻く社会的な力は、二つの方法で作用するように思われる。ごまかしをする人が自分と同じ社会集団に属しているとき、わたしたちはその人を自分と重ね合わせ、ごまかしが社会的により受け入れられやすくなったと感じる。だがごまかしをする人がよそ者だと、自分の不品行を正当化しにくくなり、その不道徳な人物や、その人が属するほかの(ずっと道徳性の低い)外集団から距離を置きたいという願望から距離から、かえって倫理性を高めるのだ。

より一般的には、わたしたちが自分の行動(ごまかしを含む)の許容範囲をきめるうえで、他人の存在がとても重要だということを、これらの結果は示している。わたしたちは自分と同じ社会集団のだれかが、許容範囲を逸脱した行動をとるのを見ると、それに合わせて自分の道徳的指針を微調整し、彼らの行動を模範としてとり入れるのだろう。その内集団のだれかが、権威のある人物ー親や上司、教師、その他尊敬する人ーであれば、引きずられる可能性はさらに高くなる。

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