『きっかけがなきゃ動けない?そんなことはない。』 #143
みなさんお久しぶりです。
といかいとです。
忙しかったからかしばらくnoteから遠ざかっていました。
実際のところは忙しかったというより記事を書くことから遠ざかっていました。
自分自身で思考しまとめても「いや、別の考えがあるのでは?」そしてまた思考して、、、というループにハマり気づけばnoteを見る習慣もなくなっていました。
現在アメリカに戻り授業を受けていますが、決して生活が楽しくないわけではありません。ですが、楽しい時間を過ごしてる間でさえ自分の今後の進路どうするかが頭によぎってしまうのです。
自分の思考した結果に出た答えは本当に正解なのか?
当たり前ですが、こういった先の未来について正解はありませんし、どんなに答えを出しても自分が持ってる知識の領域は有限のためその中で導き出せる答えはかなり小さいんですよね。
今、編入するための書類や、アプリケーションの作成の時期なのですが、本当に四年制の大学に編入するべきなのか、それとも仕事を見つけて社会人の1人になるべきなのか、といったところでかなり悩む時期がありました。
物事を決定する際に選択肢が生まれたとき、
その中の一つしか選ぶことはできない
というふうにいつも自分は考えていました。
ですが、よくよく考えてみるとどちらか一択を選ぶ必要は一切なくて、どちらも選択するという答えを出すこともできるんですよね。
四年制の大学がどんななのかなんてそこに通っている人、通っていた人しか分かりませんし、そこの世界を知ってからでも遅くはないんだなって。なので僕はとりあえず編入を目指してそこで勉強しながらも、インターンであったり仕事をしてみるという結果に落ち着きました。
何か考えようとすると答えを出そうと頑張ってしまいますが、意外と答えを出す必要のないことってあるんだなって思いました。
さてさて、前置きは長くなってしまいましたが、最近自分の専攻でもある教育に対しての勉強のモチベが高く色々と調べているのですが
たくさんの方々のプロフィールとかを見てると
例えば「いじめを経験した」「不登校になった」「学校のシステムに馴染めなかった」などと強いきっかけがある人たちがたくさんいました。
でも自分は不登校になっていたわけでもなければ騒がれるほどのいじめを受けていたわけでもないし普通に教育を受けた人たちとなんら変わりはありません。
彼らのバックグラウンドは彼らが行なっていることの信頼性が強まりますし、それに比べると自分っていい意味でも悪い意味でも凡人なのかなーって。
でも、人が何かをやろうとしたときにそのきっかけがしっかり形になってる必要があるかと考えるとそうでもなくて、きっかけが曖昧でもとりあえずやってみることはできるし
人間は皆同じではないからこそ自分だから見える景色、考え方もあるのかななんて思いながら教育について考えてる今日この頃です、、、
ゆっくり自分の道を歩いていくとします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?