少し後ろ向きに見えて前向きな創作の話。
Twitter(X)で喋ったことと、その続きです。
結局『努力・友情・勝利』が一番心臓殴ってくるって分かっているのに、最近の私の頭の中は努力も友情も勝利もない「人間という名前の現象」みたいな私らしく腑抜けしか書けないようなネタでいっぱいです。
似たテーマで傑作を生み出す人も世の中には沢山いて、そういった作品は、微かな衒学的高揚感と共にその傲慢に恥じぬ膨大な知識と見識で圧倒する……といった作品ばかりだという偏見があります。あるいはきっと、真に「そういう世界」が見えている作家が書いています。
私は浅学なのでそういうことができません。
(余談ですが、衒学的って言葉自体が最高に衒学的なの、皮肉で好きです。こういう話をする当の私は衒学ではなく俗物だなぁと思うなどします。)
私自身、頭の中のこれがドラマ性を持たない=面白くないことを理解しているのと、何だか漠然としていて持て余している感じがあるので捌ききれずにここまで来ています。しかしこのままこれをずっと抱えて創作していると、自分の作る話から感じるぬめりと生臭さがずっと取れない気がしています。
もう手遅れ感がしますが、ちゃんと向き合わないといけないのかな、と思うなどしています。 ずっと自分の作る話のぬるつきが気になっているので……一度思い切りぬるっぬるの話を書いてしまった方が理由が分かるのかもしれません。
このぬめりというものを上手く処理できれば「人間くささ」に昇華できるのですが、私のそれは非常に浅く狭いところでひたすらぬるぬる行ったり来たりを繰り返すようなそれで、その言葉が表す光景どおり滑り倒しています。
だから余計ネタ自体のつまらなさが際立ってしまうのですが、浅い人間が無理をして深みを出そうとしても上手く行かないのは順当なことです。
好きな作家で言えば、村上春樹なんかは人間くさいどころか生身の人間そのものがその場に据え置かれたような、ぬめるどころがドロドロな作風を、知性と感性で編み上げているように思います。村田沙耶香は「世界が歪に見えるからそのまま書いた」の典型例です。天才。
素人が真似してできる作風じゃないのはよく分かっているんですが、私の持っている「骨の無いぬるぬる」を捌くとしたらこういう方向性なのかもしれません。
どちらかというと村田沙耶香のような「自分の見える歪さをそのまま書く」、ある種独りよがりな作品を本気で書いてみるべきだなと思います。
これまでも短くて独りよがりな小説をぽつぽつと書いてきましたが、長いものは、独りよがりなだけあって途中で飽きて投げてしまいます。おもちゃを次々と散らかす子供と同じです。一つのおもちゃに全力を注いだら景色が変わるかもしれないのに。
考え始めたらなんだかぐるぐるとしてしまったので明文化してみましたが、少しスッキリした気がします。
気付きとしてひとつここに置いておこうと思います。
2024/04/15 揺井かごめ
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