エッセイが書けない問題
掲題のとおりです。
じゃあ今書いているこのnoteは何かというと、エッセイなんだけど、これはこれで苦手過ぎて、下書きだけでかなりの数が溜まっています。もはや思考メモであり、つまりは読み手を全く意識していないから書ける文章であり、それはエッセイではなく何と呼べばいいのか分からない。日記というには自由過ぎる。
遡ること数億年前、小学生やってた時から作文は苦手でした。読書感想文も苦手だったし。今ならなぜ苦手だったのか分かる。めっっっっちゃ分かる。読み手を意識していたからだよ。作文を読むのは先生であり、先生が読んで「正解」と判断してくれる文章を書くのが作文だと思っていた気がします。だから行事の感想は要約すると「楽しかった」で終わるのだけれど、別に楽しくない行事も多々あり、こういうところで変に嘘をつきたくない人間なので、結果的に報告書みたいな感情のない文章になったりしていました。つまり、自分の身に起こったことを時系列に沿って書く。つまらない文章だけれど、まあそれでいいかな、と。それで規定枚数である原稿用紙2枚にだいたいぴったり収まっていたのは才能では。すごいな。
いや、冷静に考えてほしいのだけれど、なんで先生に、自分の感じたことや考えたことを教える必要あるの? そこプライバシーのアレじゃん?
要するに私は、想定される読み手(この場合は「先生」)に、自分のことを知られたくなかったのだろうな。そもそもそんなに親しい間柄ではないはずだ...今思うと...少なくとも感情を正直に伝えることについて、何かしら意味を見出せるような間柄ではなかったのでは。
時間軸を数億年進めて現在。多くの人が自分のことをどんどん外へ出していく中にあっても、どうも私は自分について知ってほしいとは思わない人間なのかもしれない、などと考えていました。小説は書けるけれど、小説は私ではないのかという問題もあり、それはただ、語り手が私ではないというだけの違いしかないのかもしれず、この話はどこにも落ちませんし、どこまで行っても私がエッセイを書けるようになるわけではありません。問題はそこだ。
村上春樹のエッセイかインタビューか何かで、自分のことを話せないなら、自分の好きなものについて話せばいい(たとえばカキフライとか)みたいな話があったけれど、私にとって小説を書くと言うのはそれに近いアレかもしれません。なんてことを、最後の最後にふと思い出したので書いておきます。
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