#6 機械仕掛けの冬【短編】
(共同テーマの「能力もの」で書いた短編小説です。2016年冬執筆)
1
《二〇X四年十二月二十八日 午後六時十二分》
ふと、その男は我に返った。それまで自分が無意識に物思いに耽っていた事に気付き、そして今や何について考えていたのか忘れていた。ほんの少しの間だけ、その男はそれまで自分が何をしていたのか思い出そうとしたが、すぐに諦めた。まるで寝起きの朝の時みたいに頭が重く、かぶりを振って男は顔を上げた。
「――以上が件のダム建設案件についてです。何かご質問はありますか」
目の前には部下の後藤の姿があった。彼は十五年前にこの会社を立ち上げてから、ずっと苦難を共にし良く働いてくれた社員の一人だった。
後藤の問いにその男は組んでいた手を開いて膝の上に乗せた――手の平に汗が滲んでいたからだ。
「いや、特に何も無い。前に話したようにお前に預ける」
そう言いながらも男は、自身の緊張を悟られまいと、肘掛けの先をそれぞれの手で包み込んだ。男が座っている椅子はお世辞にも上等なものではないが、その席には見た目以上の価値と責任があった――彼はこの会社の社長であるのだ。
「承知しました。――それで仁良さん。今日の忘年会には出席するんですか?」
後藤の発言に仁良と呼ばれたその男は思わず苦笑した。普段はメールで伝えてくるような内容をわざわざ直に伝えにやってきた理由が、その質問をする為だったと判明したからだ。
「しない。それは前にも言っただろう」
「何だ、残念だなぁ」
後藤はそう言って刈り上げた後頭部をすりすりと撫でた。後藤が調子者ではあるが最も信頼できる部下である事を、仁良は理解していた。
「じゃあ、仁良さんの分まで楽しんできますよ。では、お疲れさまでした。良いお年を」
「ああ」
後藤が社長室から出ていくと、仁良はふうと溜息を吐いて背もたれに身体を預けた。倦怠感で重くなった身体を感じながら、彼は自分が忘年会を欠席する事にした理由を思い出そうとした――どうでもいい、でっち上げの理由だった気がする。仕事納めの日くらいは家で一人になりたい、だとかあるいは――、仁良はそこで考える事を止めた。どうにせよ自分が、今夜早く帰宅したいという事は紛れもない事実である。
仁良久人、四十一歳、十五年前に某M社を退社後独立し、発電設備や新輸送システム等の重工業を業務とするEEM(エレクトロニック・エクスプロレーション・テクノロジーズ)社を立ち上げた、その現代表取締役社長である。起業当時は色モノベンチャー企業として敬遠されていたEEMであるが、現在は新手の大会社として名高く、新技術の開発に貢献している。
天井を見上げ一度溜息を吐いたかと思うと、仁良は目の前のパソコンを起動し今日終わらすべき仕事がもう残っていない事を確認し始めた。幾つかのタスクがあり、それらは年明けでも十分に間に合うものであったが、仁良はそれらに取り掛かる事にした。
《二〇X四年十二月二十八日 午後七時三十分》
一時間程度時間を過ごし、仁良はパソコンを消すと身支度を終え帰路についた。会社から出ると年末の寒風が身体を打ち付け、彼は思わずコートの襟を無理やり立てた。歩道を埋め尽くす程の人込みに紛れ込んで、仁良はぶるりと身体を震わしながら、早足で駅の方角へと歩き始めた。
明るい街頭に照らされた大通りは、帰路を急ぐコート姿のサラリーマン達で溢れていた。同じ目的地へと皆々が歩を揃えて進む姿に、仁良は行軍する兵士を連想した。
冷たい風が頬の傍をすり抜け、顔を上げれば二酸化炭素等の大気ガスを吸収する柱状のものが遠くに聳え立っているのが見えた。電柱と同サイズの棒が上に伸びていて、それより一回り大きい円筒型の機械がその頂上にあって、ゆっくりとくるくる回転している。温暖化対策として世界中に建てられたあの塔もまた、EEMが開発・設計したものであった。
(この街の姿も十五年で大きく変わった)
仁良は白い息を吐きながらノスタルジックな気分でそう思った。東京に出てきて何十年にもなるが、その刻々でこの街は、否、日本中が、様々な面で姿を変えていった。人口減少や地方の本格的な過疎化等、様々な暗い問題をこの国は抱えているが、それでも変革という希望は春の新芽のように伊吹を上げていた。その様子を間近で見ていたからこそ、仁良は自身の故郷の事を思い出さずにはいられなかった。あそこは今もまだ、自然に囲まれて空気の澄んだ町なのだろうか、と。
しかしそれは懐かしさだけを仁良に与えるわけではなかった。
(きっと碌なものではない。変わらないからこそ俺は捨てたのだ)
そう思って仁良は頭を振った。嫌な思い出ばかりの故郷の事等、思い出したくも無かったからだ。彼はその事を考えないように努めた。
いつの間にか彼は目的地についていた。地下鉄の駅入口がある、大きな交差点だ。生憎歩道を渡る前に信号が変わり、仁良は少々の間足止めを食らってしまった。焦ってもしょうがないので信号が赤の間、彼は左右を通り過ぎる車を目で追いながら、帰ったら宅配ピザでも頼もうか、などと足踏みしつつ呑気に考えていた。
その瞬間であった。
仁良の背後で、甲高い悲鳴が上がった。
仁良は反射的に振り向く。後ろでは不自然な空間がその場に広がっていた。
背後にいるはずの人混みはそこから退こうと押し合ってて、誰もいない円形の空間を作っている――半径一メートル程度で、その中心には男が立っている。黒いコートにフードを被った、背の高い男性だ。顔にはマスク。
その足元には一人の女性が倒れ込んでいる。ピクリとも動かない、まるで操る主を失った人形のように。
息を荒くし、ただ事ではない様子。
「殺す」
その男と目が合った。男はそう言った。
マスクと真黒な長髪の中に、血走った一対の眼球が仁良を睨みつけていた。
ナイフの切っ先を男は仁良に向け、それに連動するように男の脚が動き始める。脚がすくんで動かない事に気付いた次の瞬間、
「うぅっ」
グサリ。腹のあたりに嫌なものを感じた。痛みはそのすぐあとに来た。
体当たりして、その男は仁良の腹にナイフを突き立てたのだ。
鳩尾の辺りに鋭い痛みを感じる。群集の湧きたてる悲鳴とどよめきが遠く聞こえるのを感じながら、仁良は地面へと叩きつけられた。
半身を襲う苦痛に顔が歪み、うめき声が口から洩れる。
「殺す」
頭上で男が繰り返した。仁良は腹を抑えながら、そちらの方を見上げる。
黒コートの男は仁良のすぐ傍に立っている。逆光で見えにくいが、隠し持っていたらしいもう一本のナイフを、逆手に持ち振り上げようとしている。
(何だこれは……? 一体何が起きたんだ……?)
泥が混ざったように鈍い脳髄で、仁良はこの不条理な現実に何とか意識を向けようとした。左頬に当たるコンクリートのくすんだ赤は酷く冷たく、身体中の鈍痛は留まる事を知らない。
地べたに倒れ込んでる自分の姿を思うと、何故か酷く己が惨めに思えてくる。
目の前には件の男の靴が見えている。ボロボロに履き古した赤いスニーカーだ。その上には、今にも自分に止めを刺そうとする男の姿がぼんやり見えた。
(こんな、こんな惨めに、おれは死ぬのか。こんな不条理に)
こういうのが、ニュースだとかでやっている通り魔殺人事件の実態なのだろう、と仁良は思った。ああいった事件の被害者は、皆死ぬ前にこんな悲惨な思いをしたのだろうか?
身体がどんどんと冷たくなっていくのを感じる。黒服の男がナイフがぎらりと光を反射している。
きっとあれが刺されば、間違いなく自分は死ぬだろう。
腕を振り上げて防御する事すら、身体が痺れて不可能であった。――状況は最悪だ。次の瞬間には仁良は通り魔殺人の被害者として、その短い生涯を終える事となる。
しかし、仁良は諦めなかった。
「……まだ、ここで死ぬ運命じゃない……」
「殺す」
仁良の振り絞るような唸り声と、男の淡々とした言葉が重なった。
直後、男のナイフが襲い掛かってくる。スローモーションのようにゆっくりと動くそれを目で追いながら、仁良は何度も繰り返したあの感覚を思い出す。
(……ここだ)
鋭い凶器が身体に触れる寸前、仁良は能力――《リサージ》を発動させた。
2
《二〇X四年十二月二十八日 午後六時十二分》
ふと、その男は我に返った。それまで自分が無意識に物思いに耽っていた事に気付き、そして今や何について考えていたのか忘れてしまっていた。ほんの少しの間だけ、その男はそれまで自分が何をしていたのか思い出そうとしたが、すぐに諦めた。まるで寝起きの朝の時みたいに頭が重い――かぶりを振って男は顔を上げた。
「――以上が件のダム建設案件についてです。何かご質問はありますか」
目の前には部下の後藤の姿があった。彼は十五年前にこの会社を立ち上げてから、ずっと苦難を共にし良く働いてくれた社員の一人だった。
後藤の問いに仁良は組んでいた手を開いて膝の上に乗せた――手の平に汗が滲んでいる。それは普段では中々無い事で、気分も悪かった。
「……仁良さん?」
「あ、あぁ。何もない。何もないよ」
仁良はぎこちなくそう言った。そんな様子に後藤は訝しむように顔をしかめたがすぐに返事をした。
「そうですか。了解しました。……それで仁良さん。今日の忘年会には出席するんですか?」
「悪いが後藤」
仁良の声はマスクを通したみたいに低く、くぐもっていた。
「気分が悪いんだ。退席してくれないか」
「……そうですか。分かりました」
「悪いな」
後藤が社長室から出ていったのを確認すると、仁良は深く溜息を吐いた。
――気分が酷く悪い。この部屋が暖房が効いた快適な環境なせいか、返って先程の《時間軸》で感じたあの冷たさが際立っている――死の淵に立つ特有の冷たさだ。
――殺されるのは今日で《二回目》だった。この時間を過ごしているのが既に《三回目》だという事に、仁良は驚愕し、恐怖していた。
《一回目》の退社時間は六時半だった。その時も自分はあの交差点で、おそらく同一人物であろう男に襲われ、死の淵へと至っていたのだ。そうして、仁良は自分自身に備わっていた能力を使って、《ポイント》に戻ってきた。
《ポイント》――端的に言えば仁良は異能の力を持っていた。神をも愚弄し天国すらも土足で踏み上がる――と表現するのが丁度いいようなこの能力は、仁良という人間をここまで押し上げてきた最大の要因の一つだった。
大昔に仁良は、一言で言えば時間を遡行する能力を授かった――正確に言えばその当時はもっとレベルの低い事しかできない能力であったが、意図的に訓練を行う事によって仁良は、十年前にこの遡行能力を身に着ける事ができた。
それは、二つのフェーズによって進行する。
(ⅰ)《リサージ》:現在自分がいる時間場に、目印の如く《ポイント》(と呼んでいる概念)を刻む。
(ⅱ)《リアクト》:この行動を行う事で、《ポイント》がある時間に意識のみ遡る。ただし現状、一番最後に刻んだ《ポイント》にのみ遡れる。
二〇四X年、十二月二十八日、午後六時十二分――最後に行った《ポイント》がこの時間であった。
この時間に《ポイント》を刻んだのは特別な理由があったわけではない。仁良は一週間ごとに、この時間に《ポイント》を刻むようにしていたのだ。それは先ほど起きた――正確に言えば未来に起きた――ような不意の事件・事故に対応できるようにする為であった。
(それにしても不可解なのは、『何故おれが命を狙われているのか』という事だ)
手元のリモコンで暖房の温度を下げてから、仁良は腕を組み眉を顰めた。正直なところ仁良には全くの心当たりが無かった。自らが設立・育成してきたEEMの商品によって危害を受けたり亡くなったりした人は、仁良が確認できる範囲では存在していない。
無論、逆恨みも含め、EEMを恨んでいる人間がいないとは言い切れない。むしろ新参のくせに我が物顔で市場を侵略したEEMを、憎む人はたくさんいるだろう。ただし、それが理由で暗殺を計画するのは現実的ではない。
だが、この殺人は――無論それは既に消し去られた未来での事だが――実際に起きた事なのだ。
仁良は、自分を殺そうとした男の顔に、心当たりが無いか考えてみた。男の顔を思い出そうとしたが、マスクやかぶっていたフードのせいで結局人相は不明瞭のままだった。しかし《一回目》・《二回目》共に男は同一人物の可能性が高いという事が、それによって判明した。時間帯が変わっても同一人物に殺されたという事は、やはり計画的に仁良を待ち伏せし殺しにやってきたという事に違いないだろう。
きっと会社の前とかで待ち伏せしていて、あの交差点まで仁良をつけてきていたのだ。
しかしそこまで論理的に考えてから、仁良は不可解な点に気付く。例えば、男は何故あんなに人通りの多いところで仁良を殺そうとしたのだろうか。もし仁良の暗殺が目的なら、退社ラッシュの起きている大通りは一番にあり得ない場所である。それに《二回目》では、男は仁良以外の女性も刺していた――その意図は仁良の殺害だけでは説明しきれない。
(どちらにせよ、このまま黙って殺されるつもりは毛頭無い)
仁良は傍に置いていた通勤用のカバンから、通勤に持ち歩いていた雑誌を取り出した。分厚さを確かめてから、彼はセーターを捲って、シャツとズボンの間に三分の一ほどそれを入れ込んだ。
立ち上がってベルトを適切な長さに絞めると、丁度雑誌は仁良の腹を覆うように固定された――いわば簡易的な防刃チョッキだ。セーターを元に戻せば見た目からも分からない。もし刃物でいきなり刺されたとしてもこれが防壁になって、軽症で済むかもしれない。
(気休めだが少しは対策になるだろうか)
そう考えながら仁良はコートを着込み、退社する準備を始めた。
《二〇X四年十二月二十八日 午後七時一分》
会社から出ると、仁良はいつもとは違う方向へと歩きだした。追って来る人間がいるかどうか、後ろを時折ちらちらと確認しながら、スマホに移る地図の画面を見る――普段とは違う目的地へと仁良は向かっているのだ。
《三回目》のこの時間でどうやって帰路につくか――『帰り道を変える』、また『時間帯を変える』、というのが現状仁良ができる精一杯の努力であった。
仁良が普段使っている最寄り駅は会社から徒歩十分程度の場所にあるが、逆方向に二十分程歩いたところにもまた別の路線の駅があった。電灯が多く建っている国道沿いに歩いて行けばいいので、見晴らしも良くいきなり襲われる事も無い。
国道に出たところで仁良は背後を確認したが、何度見ても結果は同じであった。誰も自分の跡をついてくる人間はいなかった。ほっとする反面疑問も残った――あの黒コートの男はこういう可能性も考えず別の場所で待ち伏せしていたのか?
兎角、仁良は再び歩き始めた。いつも以上に凍えるような風が身体を打ち付けたが、不思議と仁良は寒さを感じなかった。
《二〇X四年十二月二十八日 午後七時二十六分》
命が狙われている可能性がある、という恐怖さえ除けば、突然始まった散歩はある程度楽しいものだった。元々仁良は散歩が嫌いではない。このニ十分の道のりも苦には感じず、面白い建物の傍を通ったり高層建築物が建ち並ぶ中不自然に広がる空き地を見付けたりして、退屈を感じる事は無かった。会社を出発し始めた時は不安でいっぱいで気分も優れなかったが、駅に着く頃にはすっかり殺されかけた事を気にも留めなくなっていた。
(実際、考えすぎだったのかもしれない。過去にもこうして危険な目にあって、慌てて《リアクト》した事だってあったじゃないか――)
そんな事を思いながら、仁良は日比谷線ホームの適当なところで電車を待っていた。
駅構内は年末だからかいつもよりも混んでいる様子だった。文庫本を読みながら待っていると、すぐに電車はやって来て、果たして仁良は乗車した。
電車内は満員電車とは言わないまでも、他人との衣服が触れ合うくらいには混み切っていた。いつものように電車内は空調の温度が普通より少し高く、コートの中はそれまで散歩していた為に暑苦しくなってきた。吊革を持ちながら、乗換駅までの十分程度の我慢だ、と仁良は思った。件の、普段使わないこの路線では帰宅までに三十分程度かかる事が分かっていた。
乗車し数分経ったところで電車は次の駅へと停車し、満員電車特有の慌ただしい乗車人数の増減が始まった。
仁良もその動きへと巻き込まれたが攻防の結果、運良く扉付近の、座席と壁で出来た隅へと滑り込む事が出来た。
扉が閉まり、先ほどより幾分気楽な気分で壁に寄りかかったところで、仁良はある事に気付いた。
足元に、何か当たるものがあるのだ。人が多い為に屈みこんで確認する事は出来ないが、どうやら小さいショルダーバッグのようである。
どうやら数分前までにここに立っていた乗客が置いて行ったもののようだ。
こんな大きいものを忘れていくなんて大した奴だ、と思った瞬間――
ボン、と強烈な破裂音と共にバッグが文字通り弾け飛んだ。
「あっ!」
思わず仁良は叫んだ。バッグは上部のジッパーの部分が、その境界を無視するように四方八方に裂け、中からは液体のようなものが弾け飛んできた。
反射的に腕を上げ防ぎ、その反動で腕が顔に近付いたその刹那、仁良はガツンと殴られたように激しい痛みが脳裏を走る。
げぇ、と喉を鳴らして、仁良は上体を崩した。誰かの身体に寄りかかったような気がするが、すぐに退けられ、いつかと同じように仁良は地面へと倒れ込んだ。車内に叫び声が響き渡り、次いで悲鳴と喚声、そして咳き込む声が車内に入り混じって大きく響いた。仁良は声を出そうとしたが、喉がまるで締め付けられるように縮んで、呼吸すらできなくなっていた。
(まただ。またやってきたんだ)
仁良はそう思った。だが《三回目》だからか、あるいはその手段が違うからだろうか、仁良の脳は前回より少しは働いていた。仁良は頭痛と吐き気、喉の痺れを感じながらも、五感を振り絞って状況を確認しようとした。
(自分が――つまりこの車内の人間が無差別に危害を受けている――これは、何等かの薬物に依った攻撃だ……)
誰かが仁良の頭を踏みつけた。車内はパニック状態になっているようで、個々の乗客がそれぞれどこかへ逃げようと右往左往しているものだから余計収集が付かなくなっている。視界は乗員の足踏みが乱舞していて最早役には立たないが、既に自分と同じように倒れ込んでいる人がいる事は辛うじて分かった。
(バッグの中には中身を辺りに巻き散らす爆発性のものと、人間に危害を加える性質の薬物が二種類入っていた――)
再び仁良は喉を激しく鳴らした。胃が身体の異変を察して嘔吐しようと暴れまわっているのだ。だが吐瀉する事すら、喉の筋肉が収縮して敵わない。
たまらず仁良は《リアクト》を始めた。意識が肉体から分離し、時の歯車を逆回転させるのを感じながら、仁良は人間の本当の悪意を示す叫び声が遠くなっていくのを感じた。
(一つ言えるのは……おれ自身の命を狙えばいいのに、こうやって他人を巻き込もうとする……その考えが……気に食わないって事だ)
意識を途切らす寸前、仁良は呟いた――無論それは声にはならなかったが、仁良はその言葉が、まるで無意識にどこからか飛び出したかのように感じた――そして、それが己の冷静沈着な外壁の奥底に隠しておいた原始の――まるで少年期のような感情から現れたものだと、改めて気付いた。
3
《二〇X四年十二月二十八日 午後六時十二分》
ふと、その男は我に返った。それまで自分が無意識に物思いに耽っていた事に気付き、そして今や何について考えていたのか忘れてしまっていた。しかし先程起きていた事件についてはまるで火花が走るように同様に思い出す――電車内の薬物テロ事件に巻き込まれ、死にかけた事を。
戻ってきてから数秒も経たないうちに、仁良は通常のはっきりとした意識の状態になる事ができた。顔を上げれば後藤がタブレットを見ながら話をしている。
「――以上が件のダム建設案件についてです。何かご質問はありますか」
「いや、ない」
仁良は即答した。それが三回も繰り返してきた言葉だったからだ。しかし――否、その即決が仁良自身に考える余裕をもたらしたのだろう――仁良にある考えが閃いた。考えといっても大したことはない、ただの一つの疑問である。
「いや、待ってくれ。……後藤、申し訳ないがさっき話していた事をもう一度言ってはくれないか」
「え? ……仁良さん、何か変じゃないですか? 呆けてしまって」
「いいから。簡潔に済ませてくれ」
「分かりました」
そういって後藤はタブレットを少し操作して、ごほん、とわざとらしい咳払いをした。
「S県R群の外れにある北之輪町とかいうイナカの村を廃村にして、新しくダムを造るという計画が国の方でありまして、そのダムというのが我々EEMの技術を用いた水力・地熱原子発電所との事らしいです。我々はその機関部をM重工さんと合同で造るって話で、大まかな日程はM重工さんが作ったんですけど、これがクソッタレで――」
「いい。もういい。ありがとう」
仁良は始まった後藤の愚痴を慌てて遮った――手を組みどこかを睨み付けるように目を細める。
――S県R群北之輪町、そこはまさしく仁良自身の故郷であった。
仁良は北之輪町で生まれ、北之輪町で育ち、そして北之輪町を捨ててここまで生きてきたのだ。
(廃村予定――確か北之輪町はここ数十年でめっきり人口を減らして、崩壊寸前だといったが……)
何か引っ掛かるものが、仁良の脳裏にはあった。まだ気付いていない事があると仁良は感付いていたが、まるで喉の奥につっかえているみたいに、それが何なのか思い出せなかった。
「まあ、そういう事なのですが、一応確認を取っただけですので」
後藤が声を上げて、仁良は気付いて顔を再び上げた。後藤はやけに不安そうな顔つきでこちらを見ている。
「……大丈夫ですか? 仁良さん。顔色が悪いようですが」
「何でもない。いいから忘年会に行ってこい。おれはこのまま直帰するから」
仁良がそう言うと後藤は首を傾げながらも、じゃあ良いお年を、等と言ってから社長室を後にしていった。
後藤が姿を消してからしばらく仁良は天井を見上げていたが、ふとその忌々しい名前を一人ごちた。
「北之輪町……か」
そこは何も無い町だった――いや、村と呼んでも差し支えない程の地域であった。町の外れの方に行けば幾分現代的な建物が建ち並ぶ風景があったが、居住区は木造建築も少なくはなかった。畑や田んぼがあちこちに作られ、近くには朽ち果てた遊具が建っている公園が一つあるだけだった。そういった環境だったから幼少期の仁良を含め、子供達は野や山を駆け回る他する事は無かった。
仁良が物心ついた時から、既に町には人が少なかった覚えがある。少し遠くにあった商店街は軒並みシャッターが降り、半ば廃墟めいていた。自分の周りにいた大人は皆親よりずっと年上で、その親達も遠くの方へ通勤して町にはほとんどいなかった。娯楽も少なく、ネット環境も今覚えば異常に少なかった気がする――パソコンを持つのが何となく悪い、という風潮が何故か仁良の周りにはあったのだ。
嫌な風俗だ、仁良は思う。小さい頃は気が付かなかったが、段々と成長するにつれて、あの村に蔓延する『暗黙の了解』――言葉を変えれば村社会的なルールに仁良は気付き始め、そして嫌悪するようになっていったのだ。
(――今更こんな事を考えても仕方無いじゃないか)
仁良は立ち上がった。この事について今考えるべきではないと思ったのだ。まずはこの命が狙われている状況を何とかしなければいけない。最短で帰宅し防犯設備の整った家でゆっくりと考え込んだ方が効率的である。
そう思いながら、仁良は退社の準備を始めたのだった。
《二〇X四年十二月二十八日 午後六時四十一分》
仁良は正面ホールから外へと出た。それはタクシーに乗り込む為だったが、仁良は打って変わった姿で、コートも着ず柄にも合わないサングラスをかけていた。髪型も少々違って、右側に流していた髪の毛を全てオールバックにしている。
(最初からこうしていれば良かったんだ)
何かしらの方法を用いてこれまで三回仁良は殺されかけてきたが、簡易とはいえ変装しタクシーを用いて帰宅すれば、流石の暗殺者(それ以外に呼びようが無い)も手の施し用が無い。
自分が必用以上に節制してしまう性格から、タクシーを使う事は滅多に無いのだが、今回ばかりは別であった。無論料金は高くつくだろうが、下手な事でまた死にかけるよりはマシだった。
予め予約していた黒塗りのタクシーが会社前のロータリーに停車していたので、それに乗り込んで仁良は自宅付近の目的地を言うと、年配の運転手はこくりと頷いて車を発進させた。車内のFMラジオは暗く叩きつけるような無名のバンドの音楽を流していた。
発進してしばらくするまで仁良は車内のフロントミラーをじっと見ていたが、前回の《時間軸》で用いた国道に出るまで、このタクシーを追ってきてるような車やバイクは存在しなかった。とはいえ《三回目の時間軸》では自分を追跡してくる人間は確認できなかったので油断は禁物であろう。
オレンジ色の街灯が連続して通り過ぎ、光は仁良の前で点滅を繰り返しているようだった。タクシー車内は暖房が利いていて暖かく、またそ張り詰めていた精神が少し解けた為か、仁良は眠気に襲われていた。しかもラジオでは、先ほどと打って変わってローテンポの落ち着いた音楽を流し始めた為、仁良はいけないと分かっていても瞼を閉じるのを我慢できなかった。
「運転手さん、何分くらいで着きますか」
仁良が口を開くと、その運転手は
「時間は前後しますけれど、おおよそ四十分くらいですかね。お急ぎですか?」
「いえ……少々眠いもので」
「そうですか。安心してください。ラジオの音を下げますか?」
「そのままで大丈夫です。ありがとうございます」
仁良はそう言った後、身体を座席とドアにもたれ掛け、改めて目を閉じた。その次の瞬間には瞼の向こうの暗闇から睡魔が襲い掛かって来て、果たして仁良は意識を無意識の彼方へと預け始めた。
夢うつつの状態で、仁良は自分が、東京では無いどこか別の場所にいる事に気付いた。
そこは都会とは打って変わった、四方を山々に囲まれた田舎のような場所だった。蝉がうるさいほど四方で鳴き続け、若い稲が生え茂った田畑が満面に広がっている。それらの端の木陰にいる人々を、仁良は俯瞰するように空から眺めている。そこには大石に腰かけて、アイスキャンディーか何かを食べている三人の少年少女がいる。
仁良は自分が、過去の景色を見ている事に気付いた。一瞬、自分が無意識に《リアクト》してしまったのかと慌てていたが、何でもない、ただの記憶だ、そう気付く。そういえばおれの能力は元々《過去視》だったな――仁良は燃え盛るような熱風に打たれながら、漠然と思い出す。
そこにいる二人の少年と一人の少女は、着崩しているとはいえ制服を着ている事から、中学生くらいだと判断できた。少女はセーラー服の半袖を肩まで捲り上げ、その隣の、長い髪を後ろで縛った少年は何故か長袖で、二の腕あたりまでしか捲り上げてない。そこから少し離れたところに二回り程小さいスポーツ刈りの少年が、地べたに座り込んで、同様に夢中になってアイスを舐めている。
『ひい君、もう宿題は終わったの』
スポーツ刈りの少年が長髪の少年に向かって言った。二人のシャツにはそれぞれ緑色と赤色の校証がプリントされていて、どうやら二人は一学年が違うようだった。
『もう終わらせたよ。あんなもん』
『えぇーっ、おれなんか一つも手を付けてないのに』
『私も。ひい君はマジメだから』
少女もそれに乗っかって口を開き、それに対し長髪の少年は小さく呟くように返す。
『……僕は東京の大学行きたいから』
『私も行きたいな。東京』
少女はうざったそうに髪をかき上げながら言った。スポーツ刈りの少年もそれに次いで、
『おれは農家継ぐって決まってるからなぁ……でもひい君、《能力》があるからカンニングできちゃうんでしょ。羨ましいなぁ。おれなんかいっつも試験の点数悪くて、母親に怒られるんだもん』
『違えよ。採点ミスを見繕って点数稼ぐヒロとは違って、僕は素で点を取ってるんだ』
『嘘だね。絶対ヤってんだろ』
『ふざけんな。僕はちゃんと勉強して――』
『止めようよ。せっかくの夏休みなのに、学校の話して』
『…………』
再び、風が通り過ぎる音、蝉が鳴く音だけが辺りに響く。仁良は空のどこかから、それを見ている。まるで夢の情景を見ているように、あるいは透明人間になったみたいにその様子を見ている。
しばらくして、長髪の少年が今度は自分から、口を開いた。
『あのさ、お前等、二週間後辺りって暇?』
そう言われた二人は顔を見合せる。
『多分暇だけど……何で?』
『僕さ、その日辺りに泊りがけで東京に行ってみる予定なんだ。所謂小旅行って奴さ。それに付いてこない? って話』
『成程……おれは野球部の練習無いからいけるよ。ミっちゃんは?』
『私も、ママに行ってみないと分からないけど』
『よし、じゃあ決定。詳しい日程は後で聞くから』
風切り音が大きくなる――三人の会話はそれに邪魔されどんどんと小さくなり、それと同時に仁良の意識も再びうつつ側へと寄り戻されていく。
(そうだ――おれは――)
《二〇X四年十二月二十八日 午後七時八分》
「うわああぁぁあ!」
仁良は叫び声で突如目が覚めた。身体を飛び起こしたその時、目の前の窓に写っていたのは、白い車が突っ込んでくるその一瞬であった。
凄まじい轟音と共に、仁良は衝撃に襲われた。咄嗟に身体を折った次の瞬間には、天地は狂ったように回転し始めた。ジューサーの中にいるように仁良は車内でかき混ぜられ、身体のあちこちをハンマーで叩かれるように激痛が走る。金属とガラスの破裂音、車の骨組みが折り曲がり、バキバキと音を立てる。外装がひしゃげ、仁良の身体を襲い押しつぶそうとする――
数秒の間、仁良は気絶していた。クラクションの甲高い電子音の嵐、人々の叫び声の中仁良は目覚め、自身の身体が逆さまになっているのに気付いた。エアバッグはすでにガスが抜けていて、仁良は肩辺りを接地して身体を支えている状態となっている。
(クソッ……またか!?)
朦朧とする中、仁良は何としても外に出なければならないと身体を捻じった瞬間、あばらの辺りに激痛が走って仁良は悲鳴を上げた。どうやら骨が何本か折れているらしい。
車内は既に原型を失っていた。今や地面側にある天井はぼこぼこと歪んでへこみを作り、座席の背もたれは奇妙な形に折れ曲がっている。その向こうに運転手の身体が重力にまかせ、奇妙な体勢でそこにあった。左腕が不自然な方向に折れ曲がっているのが嫌でも分かり、仁良は目を逸らした。
何とか痛む部分を動かさないようにして身体を起こし、ひしゃげたドアを開けて――運良くそれは抵抗無しに開いてくれた――何とか潜り抜け外に出た。
痛む脇腹を抑えながら仁良は立ち上がった。逆さまに転がっているタクシーが、無残な姿でそこにあった。あちこちをぶつけたようで外装は無数に傷があり、車体右半分は衝撃で潰れていた。仁良が寄りかかっていたのは左半分だったから皮肉にも、仁良は何とか軽症で生き延びる事が出来たようだった――右半分の方にいれば車体と一緒に身体も押しつぶされ、最悪死んでいたかもしれない。
仁良が現在いる場所は、信号がある巨大な丁字路の交差する所のようである。眠っていたから事件の直前の事はよく分からないが、丁字路の上辺を走り過ぎようとしたタクシーが、赤信号なのに飛び出してきた車と丁度激突し、そのまま押し転がしながら歩道側へと転がって――信号にぶつかって止まったようだ。
タクシーから少し離れたところには前方が潰れボンネットが開いた、白のセダンがあった。スリップして向こう側に行ったようで道路にはタイヤの跡がついている。ここからでは見えないがおそらく運転手も無事では無いだろう。
いやはや、何てタイミングを良く図った事だろう!
四肢が痺れるのを感じながら、仁良は激突したこの白い車を睨む。こいつはよくもタイミングを見計らって自分の車に襲い掛かって自分の命を狙ったのだ! 仁良は唇を歪め一笑した。中々上手い殺し方じゃないか。タクシーの運転手はおれより無事じゃ済まないだろう――もしかしたらもう死んでいるかもしれない。
そこまで自嘲気味に思ったところで、仁良は自分が馬鹿な考えをしていた事に気付いた。
そんなわけがないだろう。
こんな馬鹿な暗殺があるか。
四度起きたこれらの事故はやはり、自分を狙ったものではない、偶発的に起きた事なのだ。
あるいは、自分とは関係ない事件に、仁良自身がただ巻き込まれただけなのだ。
最初の二度の殺傷事件だって、気が狂ったただの通り魔にたまたま仁良が巡り合わせただけだったのだ。電車内の薬物テロ事件だって、ターゲットの電車にたまたま仁良が乗り合わせて、さらに爆弾の上に仁良が偶然立っていただけなのだ。そしてこの事故も――偶然起きた不幸な事故の、その被害者がたまたま仁良なだけだったのだ。
(運命だ)
仁良は震えあがった。それは出血し過ぎたせいでも、年末のこの気温が低すぎたせいでも無かった。
仁良は運命という概念に初めて恐怖したのだ。
(ずっと考えていた――おれが《リアクト》して無かった事にされた時間軸の人々は、一体どこへ行ってしまうのかという事を。その時間軸はただ帳消しになるだけなのか? それともおれの知らないところでそれはずっと続いていくのか? それとも――彼等はおれが繰り返すその度に殺されて、消されていくのか?)
どこからかパトカーと救急車のサイレンが聞こえて、びくりと仁良は身体を震わした。――誰かが通報したのだ! 仁良は、自分が被害者であるはずなのに、どこからか湧いてくる罪の意識で嫌悪感を感じる。
(おれが今まで消し去ってきた無量大数もの人々の罪が、今ツケとなっておれにやってきてるんだ。これは運命なのだ――おれがこの時間で死ぬのは運命なんだ。絶対に避けられようのない決定事項なんだ)
そんなはずはない。仁良はそう思おうとした。今まで危機を《リアクト》して避けてきたじゃないか。危険な事が起きてピンチになった時は、《リアクト》して無かった事にして、無事それらを潜り抜けてきた。小金も稼いだ事があったし、その金で何度も豪遊してはその気持ち良かった記憶だけを持ち帰って繰り返した事もあった――それが当然の権利だと思っていた。
(けれどこればかりは避けれられないんだ。死は誰にも避けられないんだ)
「逃げなければ……」
仁良の口は何時しかその言葉を繰り出していた。脚を引きずり、目的地がどこかも分からないまま歩き始める。兎にも角にも、おれはこの場から離れなければいけない、そういった強迫観念が仁良にはあった。
血やガラスだらけの仁良を見て通行人はぎょっとしているようだった。そのうちの一人が仁良の行方を阻んで止めようとした。それを仁良は手で突き飛ばす。
「逃げなければ……!」
自分が除けた男の怒声が後ろから聞こえる。酷く冷たい寒風が仁良の頬を殴りつけてくる。コンクリートの固く冷たい地面を踏みしめるうちに、仁良は酷く泣きたくなってきた。おれはこんなところで殺されるのか? 一人惨めに、不条理な運命によって。孤独のまま――
「まだ何も手に入れてはいないのに――」
その次の瞬間、仁良は目の前の光景にふと気付いた。自分とは全くの関係の無い一つの出来事の一部始終が、まるで映画のフィルムをゆっくりと回して見るかのように、何故かまざまざと確認させられたのだ。
――仁良の左手側にある車線は、事故の影響で渋滞が起きていた。
――その車線の普通車が仁良の後ろ側で急ブレーキし、その後ろを走っていた大型トラックは慌ててそれに合わせ、あわや激突とまで近付いた。
――明らかに苛ついた運転手の顔が、仁良からはっきりと確認できた。
――何かしらの用事で急いでいるのか、あるいは前方の車の悪質な運転に苛ついて冷静な判断を下せなくなったのか、そのトラックは前後に車がいるのに無理なUターンしようと車をカーブし始めた。
――乱雑な数回のカーブの後、もう一回で反対車線へと出られるというところで、そのトラックが後ろ側へとバックしぎて過ぎて歩道に乗り上げてしまった。
――歩道を走っていた自転車がそれに驚き、避けようとして体勢を崩した。
――仁良のちょうど側面にあるその先には、建物の改装の為か足場が組み上げられていて、自転車はそれに激突する形となった。
――急に足場が揺れたその瞬間、その三階には二人の男がいて数本の鉄パイプを手渡ししようとしていた。彼等の手元は揺れ、二人は普段よりも危険な――両側を抑えるのではない――形で鉄パイプを受け渡した。
――その瞬間、固定器具が丁度外れるのを、仁良はしっかりと見上げていた。
――ゆっくりと器具が弾けるように手を放し合い、縛り上げられていた鉄パイプがバラバラと四方に散らばった。
――男達は反射的に手で押さえようとしたが、その内の何本かは倒れ――
――仁良の頭上目掛け落下してくる。
(やはり、これは運命なのだ)
落ちてくる頑強な凶器を見つめながら、仁良は確信した。
やはりおれはここで死ぬ運命だったのだ。そして、それに《誰によって》や《どうやって》等は関係ないのだ。重要なのは《おれが》《いつ》死ぬかなのだ。そして、それは今なのだ――
仁良は目を閉じた。脳裏にはそれまでの人生の様々な事が流れていった。努力と才能によって掴み取っていった恵まれた体験、贅沢な体験、娯楽、富――だが、それは余りにも陳腐に写り、そしてずっと孤独感が傍にあった。
その孤独感は物心ついた瞬間からずっと続いていたのだ。『外』で一人働き続けていた父親は、子供に金以外のものを受け渡す事は無かった。母親と二人暮らしする中で、仁良はそこですら孤独であった。北の輪町の村社会的な価値観は自身の孤独感をまるで肯定するようで、仁良はそれらによって歪まされた。
小学校でも独りぼっちで過ごした彼は、皮肉にも英雄的な呪いを授かった。コンプレックスを抱き続け、歪んでいた仁良を支えてくれたのは、一緒にいてくれた二人の同級生だった。
ヒロ――今日 広智。
ミっちゃん――茨田 美利。
だが、仁良久人は彼等を捨てた。あまりにも酷い形で、あまりにも醜い終わり方で、そしてその事を仁良は忘れようとした――歪んだ欲望に捕らわれて、呪いの力で富と名声を手にいれた。それでも、胸のどこかを冷たい風が吹き通っていた――自分は既に、死んだも同然であったのだ。
(それが、ようやくおれの元にやってきただけなのだ――)
仁良は既に覚悟を終えていた。鉄の凶器が自身の身体に到達し、肉片を散らしながら貫いていくのを感じる。不思議と痛みは感じなかったが、冷たさだけはずっと胸の奥でわだかまっていた。それも今、終わる。
4
《二〇X四年十二月二十八日 午後六時十二分》
仁良は我に返り、そしてそれまで何を考えていたのかを、完全に思い出した。
弾かれたゴム人形のように身体を起こし、自分がどこにいるのかまざまざと理解すると、それまであった己の死に対する覚悟に嘔吐感を覚えた。暖かで快適な暖房や真っ白な蛍光灯の光に痛みすら感じた。八畳程度の広さのこの社長室にいる事があり得ないと感じ、自分がここにいるべきではないと感じる事に自己嫌悪した。
(おれはあの時、本当に死を覚悟していた。そして死もまたおれを抱こうとしていた)
仁良は全力疾走したように息は絶え絶えになって、吐き気に腹を抑え耐えながら、肩を上下させている。あの時完全に死を望んでいた己に、仁良は改めて恐怖し、悪寒を覚えた。
拭えぬ過去と孤独、それに苦痛と恐怖が加わればあんなにも脆くなる己自身が醜く同時に悲しくもなった。
「大丈夫ですか!? 仁良さん!?」
心配して声を出す後藤に、仁良は言葉が返せなかった。口を開く事すら敵わない程に、背中を這い上った死の残り香を振るい切るのは大変だった。
「仁良さん――」
「大丈夫だ」
胃が引き絞られるような痛みに襲われながらも、仁良はようやく、声を上げた。
「もう、大丈夫だ」
「病気ですか」
「……まあ、そんなところだ」
嘔吐したいのを強く我慢しながら、仁良はそんな素振りを出来る限り抑えた。
幸運にも、身体を襲う悪寒や吐き気は少しずつ治まっていった。
「…………」
後藤は心配そう仁良を見続ける。仁良は大きく二回深呼吸すると、彼に微笑みかけ、話を逸らそうと口を開いた。
「そう心配するな。……それより、発電システムの件は了解した。……これからもお前に任せる。それでいいな?」
「は、はあ。……それで、今日の忘年会は出ないんですよね?」
「そうだな――」
ふと、仁良の元に直感的な判断が降ってきた。第六感とでもいうのだろうか、仁良は半ば無意識で、
「――いや、出よう」
と返事した。後藤はどこか安心したように笑みを漏らした。
「そうですか。予約は取ってたんで大丈夫ですよ。ご予定は良かったんですか?」
「ああ……急にキャンセルが入ってね」
咄嗟に仁良はそう言う。
「じゃあ幹事の奈良にもそう言っておきます。じゃあ、七時三十分に下で集合で」
「分かった」
後藤が出ていくと、バッグに入れておいた水を取り出してから一口飲み、そして息を吐いた。
――一通り落ち着くと、仁良は自身の発言について分析をしていた。忘年会に出るという事は、これまで体験してきた死への帰結の時間に対する、一種の悪あがきのようなものだった。
どう足掻いても、これまで体験してきた未来と同じように、苦痛と孤独の中でただただ無様に死んでいくだけなのだという予感が、嫌でも思い浮かんでくる。そういうものに対して自分は、行動を変化させる事で意地でも対応したいと、そう無意識的に思っていたのだろう。
しかし果たしてそれが上手くいくのだろうか、仁良は不安を感じずにはいられなかった。指先や足先は感覚が無い程冷たくなっていて、痺れて動かない。冷汗がシャツに滲み込みベタベタと貼りついている――命を狙われているという事がこれほどのストレスになるという事を、仁良はまざまざとこの時理解させられていた。
だが、既に仁良はこの現象を説明できる何かしらの材料に気付き始めていた。過去に向き合う事は仁良を暗い気持ちにさせたが、そこに答えがある予感がどこかあった。
「ただ一つ言えるのは……運命なぞ存在しないという事だ」
仁良は空を睨み付けながら、そう言った。
《二〇X四年十二月二十八日 午後八時十一分》
仁良が忘年会などと言った飲み会に行きたがらない理由は単純で、ただ仁良自身が下戸で、多数の人間が集まっている場所というのが苦手だったからだ。
だが今回催された忘年会は、EEM創立時のメンバーだけで開かれたもので参加人数は十人程度であったから、仁良もそれほど気は重くなかった。とはいっても、会を楽しむ程の余裕は仁良にはほとほと無い。
予め予約されていた居酒屋の個室に入り、乾杯の音頭を取らされた後も、仁良は無理やり座らせられた上座の端で烏龍茶をちびちびと飲みながら、取り留めもなく考え事をしていた。
(起きた事を整理してみよう)
まだ割ってもいない割箸を手元で弄りながら、仁良は今まで起きてきた事を思い出した。
(ⅰ)《リアクト》した先々で、命を失うレベルの危害が自分の身体に襲い掛かってくる。時間帯は多少前後している。
(ⅱ)危害に関連性は無いうえに、これらは個人を超越した――まるで運命によって起きているような――条理を逸した力によって齎されている。事実《四周目》に至っては全くの偶然の重なりによって自分は死んでいる。
(まてよ……危害に関連性は無い……だと?)
ふと、仁良は根本的な事を見落としていた事に気付いた。確認する為スマートフォンでインターネットに接続する。
辿り着いたのは適当なニュースサイトだった。ニュースサイトは平然としていて、三十分前に更新された記事は芸能人の不倫について報じたものだった。しかし、それこそが仁良の求めていた事実を示していた。
(やっぱりだ――《一周目》や《二周目》で起きた通り魔殺人も、《三周目》の電車内での事件も、自動車事故だって起きてはいない……前回の時間軸で起きた事がこの時間軸では起きていないのだ……!)
それがとても重要な事実である事を、仁良は痛い程知っていた。
仁良はこの能力を完全に身に着けてから数えきれない程発動してきたが、その過程で発見した一つの事があった。それは、『起こりうる事象は自分が関与でもしない限り絶対に起こりうる』という事である。
五年前の或る商談における能力の使用を例に上げると、その期間では《リサージ》から《リアクト》までの間に、それとは関係の無いところで大きな交通事故があった。それは九州のどこかで起きたものだが仁良はその時東京で、タクシーの中でそのニュースを聞いたものだった。その数回繰り返した中で、その事件が起きなかった時間軸は一度も無かった、即ち『起こりうる事象はどの時間軸でも確実に起こる』のだ。
他に例を上げれば、他の時間軸で乗っていたタクシーが事故を起こした事があったが、一旦時間を巻き戻しても同時刻にそのタクシーは、仁良自身がいない場所でも事故を起こした。さらに言えば自転車で事故を起こした部下に、繰り返した時間内で注意した事により事故を回避した事もあった。
ただしこのルールは一日程度までの短期間内に限られた。これは所謂バタフライエフェクトと呼ばれる現象に依るものだろう。数日も経てばこの影響が現れて、上記の法則は崩れ始めるのだ。ただし映画や創作の物語で、起きるようなバタフライエフェクトが起こる事は稀で、大抵は些細な事に収まった――殺人事件等に至ってはこの現象によって事象が変化する事はあり得ない。
(重要な事は、これまで起きてきた通り魔殺人や電車内のテロは、全ておれの行動に起因していた、という事実が分かったという事だ。もしあれがおれに関係の無い事であれば、今もあの事件は実際に起こって、ニュースにもなっているはずだ。数時間も経っていないからあれほどの事がバタフライエフェクトによって起きた可能性も無い――)
居酒屋の、予約していた大部屋内では一年間の鬱憤を晴らそうと部下達が笑い合い、はしゃぎ合っていた――隅の方で工業について熱い話をしている数人もいれば、下品な話で馬鹿笑いしているグループもあった。後藤はひたすらに刺身や唐揚げをかき集めるように食い散らかし、幹事の奈良は時折立ち上がっては店員に何かを伝えていた。
しかし仁良はそれには目もくべず、考えを進める。
(――これまでのおれの行動で、殺人事件を引き起こすようなものはほぼ無い。――いや、『帰宅』という事が当てはまるか? おれ自身の行動が事件を呼び起こしている、という事だ。……いや、それにしても普通ではあり得ない。という事は、やはりおれの命を狙う人間がいるという事だ。しかも間接的に、超越した力を使って――)
「それにしても酷かったよ、あの北之輪町ってところは」
部下の一人の言葉がふと仁良の耳に届く。そちらを見れば仁良の直ぐそばで二人が顔を突き合わせるように会話している。
「確か視察に行ったんだって? 遠かっただろ?」
「こっから四時間もかかるんだよ、山道歩いてさ。で、着いたところが寂れたところで、もう爺婆しか住んでないようだったよ。人も歩いてる間ニ、三人しか見かけなくて、まるで廃墟みたいだった」
仁良は、じっと彼等が話すのを盗み聞きしていた。隣で聞いていたもう一人は口を開き、
「典型的な廃村だな」
「村といっても住所的には『町』なんだがね。でもまあ、村みたいなものさ」
「そうなんだよ。それでしかも村長というか、村代表みたいな人が出てきたんんだが、その男と女がまた不気味でさ。男は気持ち悪く笑ってくるんだけど女は車椅子に乗ってて、で男は女の言いなりなんだよ」
「その男と女っていうのは?」
仁良は会話に割り込んだ。会話していた部下の一人は笑って受け答える。
「あっ、仁良さん、聞いてたんですか?」
「まあな。その男女ってどんな奴だったんだ?」
「別に、どうだってわけじゃないですよ。男の人の方は仁良さんと同じくらいで、でも女の方は酷く老けてたし、髪もボサボサで顔は良く見えなくて分かりませんでしたよ」
「名前は?」
「いや、忘れちゃいましたよ。文書見れば分かりますけど」
携帯端末を出そうとした部下を慌てて仁良は制止した。
「いや、そこまではいい。ありがとう」
「仕事の話なんかやめて、仁良さんも食べてくださいよ」
礼を言った仁良に、いつの間にか後藤は乗り込んできて言った。手元の取り皿には一通りの料理を満杯に乗っけていた。
「――おれはいらないからお前が食っておけよ」
そう返し、仁良は再び元の席に座って、烏龍茶をまたも一口喉に流し込んだ。
(おれは既に『行動』している――もしおれの勘が正しければ、この食事にも既に何かしらの影響が及んでいるだろう)
楽しそうな会場の中、仁良は一人だけ冷めていた。それは、この時間軸も既に失敗してしまったのだという予感があったからだ。
《二〇X四年十二月二十八日 午後九時二十七分》
仁良の悪い予感はやはり当たった。
トイレに立った後藤がいつまでも帰ってこない事から見てみれば、倒れている後藤の姿があったのだ。その場の状況から食中毒のようで、嘔吐や腹痛、熱などの症状があり、仁良はすぐ店員に救急車を呼ぶよう言った。
仁良の部下にも症状が出ていて、そのほとんどが仁良の近くに座っていた人々であった。彼等は仁良が食べるであろう食事を口にし、見事毒に充てられてしまったのだ。
救急車が何台か駆けつけ、店内は騒然となった。対応に追われる部下や店員を縫うようにして、仁良は隠れて外へと出た。
(会社の友人をほったらかして、独り外で休んでいるおれはずるい奴だろうか)
店を出て、こそこそと四階から階段を降りながら仁良は思った。外は雨が降り出していて、冷たく小さな槍が天空から降り落ち、人々の身体を刺していた。
地上に出て、大騒ぎしている救急隊員の様子を、そしてパトライトの赤が濡れた地面を染め上げているのを、どこか他人事のように仁良は眺めていた。髪が濡れ、身体が凍えようとも気にしなかった。
(……行こう)
そうして、慌ただしく時が進行する中、仁良は独り能力を発動した。
街路の騒めきや真っ赤に染まった道路が遠くに行っていくのを感じながら、仁良は次で終わらす事を決意した。仁良にはある一つの論理的結論が浮かび上がっていたのだ。
5
《二十六年前 三月二日 午後四時五十八分》
異様な程真っ赤にぎらついた夕焼けが小屋の小窓を通って二人を照らしていた。少年は溜息を吐きながらズボンのベルトを締めた。埃っぽいこの空間に喘息を誘発しそうで、少年は少々不安だった。しかし目的はもう果たしたようで、少年はこの小さい倉庫から出てゆこうとしていた。
「待ってよ」
少年の背後で少女が叫ぶように、しかし小さく言う。
「さっきの事……本気でするつもり?」
「だったら何だよ」
少年は返す。その台詞は全くの標準語めいていて、少女のような訛りは一切含まれていなかった。
「ここは異常だ。あいつはこの町を牛耳って、それに周りの人間は何にも言おうとはしない。僕と君だって迷惑を被ったし、僕の母親だって――クソ」
少年は頭を振った。先程まで治まっていた頭痛が再びぶり返してきたのだ。
「――だから終わらせるんだよ。終わらせて、僕はここから出ていく。もう高校の手続きだってやっておいたし、金だって僕が預かってる。……一年半前の三人での旅行から、もう始まってたんだよ、僕の計画は」
「逃げ切れるわけがない」
「いいや、逃げ切るさ」
振り替えって少年は言った。少年の目は血走り、見開かれていた。その狂気じみた表情に少女はビクリと身体を震わせる――先程の痛みを無理やり思い出させられたみたいに。
「僕の能力は既に発動された。何度でも僕はここに戻って来て、そして本当に逃げ切れる道を探す」
少年はチラリと、少女の手首と足首に強く巻かれた縄を確認してから、再び背を向けた。
「最後に、君に会えてよかったよ」
「……裏切者」
少年が小屋から出る直前、少女は小さくそう言った。だがその言葉は少年に届く事は無かった。少年は木造の小さい倉庫から外に出ると、ドアを背にもたれ、目を瞑り深く深呼吸をした。
沈みかけた太陽が直接、少年を照らしている。これからの自分の運命に強い恐怖と不安を、少年は今感じている。着ている長コートに忍ばせた鋭い長包丁の柄を握りしめながら、少年は静かに《リサージ》した。
6
《二〇X四年十二月二十八日 午後六時十二分》
仁良は我に返った。ここがどこかを思い出す。汚れた年代物の机に、本棚やソファ等がある、見慣れた景色の社長室、目の前には部下の後藤がタブレットを見ながら何かを話している。
「――以上が件のダム建設案件についてです。何かご質問はありますか」
「いや、特に何も無い。前に話したようにお前に預ける」
後藤の締めくくりに仁良は返答した。機械的な反復行動をするみたいに、仁良の声はどこか無機質だった。
「承知しました。――それで仁良さん。今日の忘年会には出席するんですか?」
「行かない」
「……そうですか」
素っ気ない仁良の様子に後藤は多少たじろぎながらも、仁良が他に何も言う事は無いというのを察すると、
「じゃあ、仁良さんの分まで楽しんできますよ。では、お疲れさまでした。良いお年を」
「ああ」
「失礼しました」
そう言って後藤は出ていき、それを確認すると溜息を吐いた。
(さて……始めるか)
決意を固めた仁良であったが、仁良がするべき行動は何一つ無かった。
寧ろ何も行動しない事が重要だった。
仁良は旧友にして初恋の相手の事について思い出していた。名前は茨田美利、仁良とだ同じ歳で幼馴染だった――といっても故郷の北之輪町は小さい村で、周りに住んでいる大抵の子供達が互いに幼馴染のような関係性だった。
北之輪町には一種の儀式のようなものがあった。この町に伝わる伝説に基づいたもので、それは恒例行事の夏祭りの時に行われた。十二歳の少年少女二人が変な恰好をして、伝説に由来した演劇をし、最後に神から賜った御神酒を数口程度飲む――村で偉そうにしていた年寄りの連中ならその儀式の意味を理解していたのかもしれないが、当時は子供だった仁良には全く持ってそれを行う意味が分からなかった。十二歳の時、仁良はその儀式の主人公に――その時の経緯はよく覚えてはいないが――見事に選ばれてしまった。その相手というのが、茨田美利だった。
結論から言えば仁良と茨田はその儀式を境に、とある特殊な能力を身に着けた――いや、授かったのだ。
彼女はその日を境に、未来に起こる事を予知できるようになった――といっても最初それは虫の知らせというか、嫌な予感がするといった程度のものであったが、それでも『嫌な予感がする』といって日本晴れの日に傘を持って学校に行き、帰りに土砂降りの雨の中悠々と下校するくらいに便利なものだった。
一方仁良は、ある特定の過去に対しその光景をまるで録画した映像を再生するみたいに鮮明に見る事ができた。つまり、『覚えておこう』と思ったその瞬間の時間を、後から過去視する事ができるようになったのだ。例えば友達と待ち合わせする時間を約束した時間を記録(それは現在の《リサージ》の原型となったものだ)し、後でそれを忘れたとしても《過去視》によって思い出す事ができた。これもまた便利な能力だった。記憶という万能だが曖昧なものではなく、万能でありかつ鮮明である過去の記録法を手に入れたのだから。それらは十つ程までしか記録を保持出来なかったが、それでも幼少期の仁良には十分だった。
後から知った事だが、その儀式には現在進行形で謡われている伝説のようなものが、やはり潜んでいたようだった。その儀式によって、何年かに一人(あるいは二人)、人間を超越したような力を手に入れる事が出来る――そういった噂、あるいは都市伝説が暗黙の了解として、大人達が理解していたようだった。実際に能力を発現させた人は過去にもいたようだったが、その事実を町内会の人々はひた隠しにしていた。
だからそんな事を子供達は露知らず、当時の仁良も酷く動揺した。秘密主義で古い考え方に縛られていた村の大人達を憎み、己の能力をも愛すると同時に疎ましく思っていた。茨田もそういった感情があったのかは分からないが、彼等の心境の変化は同級生達にも伝わり、何時しか仁良と茨田は孤立していった。逆に彼等は孤独に押し潰されないよう、二人同士で行動する事が多くなった。そういうわけで、仁良が茨田に好意を抱く事は寧ろ自然な事であった。
一年後も同様の儀式が行われ、二年連続で今日という、茨田と――そう、仁良よりも親密な――幼馴染同士の少年が能力を発現させた。今日は人に《幻覚》を見せる事が出来た――あるいは相手に見間違いをさせる事が出来た、と言った方が正確かもしれない。相手が注視していない状況なら、試験の点数の二桁目を三から七に勘違いさせる事が出来たのだ。
どのような経緯は今や過去の彼方であるが、それから程無くして仁良は、茨田と今日との三人で過ごすようになった。仁良にとって今日は可愛い後輩分と同時に、目の上のたんこぶでもあった。
――もし、あの事件が無ければ、我々は今でも交流があるような親友同士になっていたのかもしれない。あるいは山奥で何も知らぬまま平穏に暮らす事に納得して、今でも北之輪町で家族と一緒にさもしく暮らしているかもしれない。だが結局仁良は茨田と最悪の別れ方をし、北之輪町から逃げ出て行った。その嫌な記憶を仁良は何時しか封印し、思い出さないように日々を生きていたのだろう。そのツケが、この日に回ってきたのだ。
(例えば、もし、茨田がおれ自身と同じように能力を成長させ、異形の力を持っていたとしたら? それなら全ての説明がつくかもしれない。時と共におれに対する恨みが図り知れない程強まった茨田は、EEMの社長が仁良である事、そのEEMが北之輪町を実質潰すような工事に関わっている事――それらが、茨田におれへの復讐のきっかけを与えたのだろうか。茨田達にとっては、おれが北之輪に対し恨みをもって潰そうと働きかけたと、みえたのかもしれない。村に捕らわれた人々が、村を捨てた悪の大企業の親玉に対し、村の力をもって成敗する――そんなストーリーがこの事件にはあったのだろうか)
仁良は時計を見る。既に一時間が経過している。仁良はずっと椅子に座り、何もしなかった。何かをするというのが茨田の能力を引き出すファクターとなっている可能性が非常に高いからだ。逆に言えば仁良が何もしなければ、茨田も何も出来ずただ消耗していくだけだ。
(《運命を操る能力》――茨田が自分を成長させていたとしても、彼女が人間だという事に変わりは無い。さらにこれ程までに強大な能力というのは、それと同程度に対価を支払わなければいけない。無論それはおれも同じであるが)
(――村長というか、村代表みたいな人が出てきたんんだが、その男と女がまた不気味でさ。男は気持ち悪く笑ってくるんだけど女は車椅子に乗ってて――)
仁良は前の時間軸での部下の言葉を思い出す。
(――ましてや彼の言っていた『女』というのが茨田なら、能力を操り切れているとは到底言えないだろう)
もちろん、仁良の方も消耗していないといったら嘘になる。身体は重く、背中にはじっとりと汗をかいていた。気分も悪く、今にも倒れそうな状態だった。計五回の《リアクト》は仁良の精神をしっかりと衰弱させていたのだ。若い頃なら兎も角、今の仁良にはこれがせいいっぱいだった。
(要するに……根競べだ。どっちが消耗しきって倒れるか。その戦いなのだ)
仁良は腕を組んで、時が経つのをひたすらに耐えた。
《二〇X四年十二月二十九日 午前二時三分》
(そろそろ頃合いだ)
仁良はそう思い、立ち上がった。身体は重かったが意識ははっきりとしていた。
タクシーを呼ぶ前に仁良は一度、《リサージ》を発動した。自らが行動を起こす前に《ポイント》を作っておきたかったのだ。
この不可思議な能力を発動するたび、仁良はその感覚に違和感を覚える。自分が容易に行えるこの行為が、他の人間にとっては持ち合わせてすらいない感覚であるとイメージするのはいつも容易くなかった。この行為について、仁良は猫が尻尾を振るようなものだと考えていた。猫にとってそれは手足のように自在に動かせるが、尾を捨てて進化してきた人間には尻尾を振る感覚を、イメージする事が出来ない。
今現在の《リサージ》にも、《リアクト》に体力を消費するのと同じように、対価――というより弱点が、存在した。それは一度《ポイント》を作ってしまえば、それより以前にあった《ポイント》には戻りにくくなってしまう、という事だ。仁良のこの感覚を敢えて言語化しようとするなら――それらは、つまりより以前の《ポイント》に手が届きにくくなってしまう、といったものだった。まるで子供の頃通れた細い穴が、成長して潜り抜けられなくなってしまったような、そんな感覚だ。そういうわけで二つ前の《ポイント》までくらいなら、仁良は何とか戻れるような気はしていた。――無論、そんなリスクがある行為を仁良はカードの一つに採用しない。もし洞穴が潜れず、途中で詰まってしまったら、未来にも過去にも戻れず時の狭間で朽ち果ててゆくだけなのだから。
会社のあるビルは、当然ながら社長室辺りしか明りが灯るところは無かった。廊下は既に消灯され、非常灯の明りのみが薄暗く緑色を発していた。仁良は携帯端末の明りを頼りに、階段を降り(そこは九階だったから苦労を伴った)、一階の裏口から外へと出た。
孤独な冬の暗夜が、そこには広がっていた。車の走り抜ける轟音も、人が闊歩する靴音も、今やどこからも聞こえなかった。街頭だけが滾々と輝き、薄汚れたアスファルトの地面だけを照らしていた。歩き始めると自らの革靴が乾いた音を発して、それが凍えそうな寒さをさらに加速させた。
仁良は裏口から周り込んで、表の停留所まで行き、そこで待っていた予約タクシーに乗り込んだ。運転手に自宅の最寄り駅の名前を告げ、果たして車は発進した。
車はオレンジ色の街頭に満ちた国道を走り抜け、その光景に仁良は《三巡目》の時間軸について想起した。居眠りの最中に事故を起こされた事を考えるとおちおち目も閉じていられないが、仁良は兎に角眠る事にした。この後の計画を思えば、今体力を回復させておかなければならないと考えたのだ。
(それに危険な状態に陥ればまた戻ればいい)
楽観的に仁良は思う事にした。それに仁良には何となくの予想がついていた、もう既に相手の攻撃は来ないだろうという事を。
《二〇X四年十二月二十九日 午前二時五十一分》
結局、車は何事も無く目的地へと着いた。仁良は金を運転手に払うと車を降り、十分程かけて自宅まで辿り着いた。
高層マンションのB棟十二階二十三号室が、仁良の住む部屋だった。北之輪町を出てきてからしばらく住んでいたアパートの小部屋に比べて、ここは一人暮らしには十分の広さで、家賃も相応に髙かった。
玄関を潜ると幾分ほっとして膝をつきそうになったが、仁良はそうしたい気分を堪え、書斎にしている一室へと向かった。
書棚が並ぶ中、仁良は隅に置いていたアタッシュケースを二つ取り、中身を確認してから、両手にそれを携え、再び自宅を出た。仁良がそのまま向かった先は駐車場で、地下二階の五十六番に彼の真っ赤なフェラーリがあった。特徴的な低い車高のそれに乗り込み、仁良はエンジンを起動させた。
雄馬にふさわしい低く雄大な轟音のエンジンを鳴らしながら、こんな骨董品をよくも自分は持っているものだ、と仁良は思っていた。電気自動車がいまや、ただでさえ数少ない自動車シェア数のおよそ八割を占める中、大量のガソリンを喰らう暴れ馬を飼う事はあまり賢い選択とはいえなかった。それが自分の、街に対するコンプレックスから生じた結果である事を仁良は自覚していた。
ゆっくりと、仁良はローギアのままアクセルに力を入れた。薄暗い地下の牢獄から、真っ赤な鋼鉄の生き物が這い現れる。車内のカーナビには北之輪町の住所が入力されていた。
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《二〇X四年十二月二十九日 午前七時九分》
雨雲が散り、朝日が山の影から顔を覗かせてくるこの北之輪町、その入口で一台の場違いなスポーツカーが唸りながら停車した。
道路は舗装されてなく、夜中雨が降っていたせいか少しぬかるんでいる。そんな道々を進んできた為か、車は全体的に泥で汚れ草葉が貼りついている。
北之輪町に入る道の中で一番広いルートでも、二十分程山道を通りこの有様になるまで汚れる羽目になった。
目の前には田んぼや畑が土地いっぱいに広がり、それに付随するように建物が建っている。この先の道が車が通れない程細すぎる事を、仁良は車から出て確認した。エンジンは既に切り、アタッシュケースの中身は既に懐やポケット等に装備している。
「やあやあ、久しぶりじゃないか、久人くん」
と、そこにどこからともなく、六十代に見える一人の老人が仁良の前に現われた。男は農作業中だったのかカーキ色のジャンバーに鎌を持って、すっかり色が抜けた白髪をかきあげている。
「いやはや、ずいぶんと大きくなったなあ、ええ?」
「……どうも」
仁良はしかめた顔を変えず、小さく返した
「東京の偉い社長になったんだろう? テレビに映ってるのを皆観てたよ。誇り高くてさぁ」
「…………」
「ああ、立ち話も何だし俺の家ン中にでも入ってておくれよ。その間に皆に知らせてくっからよ」
数十メートル先にある家を指して老人は笑いながら言い、そしてふと思い出したように次いで喋る。
「おっと、俺は一仕事あるから、久人、あんた先に行っててくれよ。俺はすぐに終わらせるからさ」
老人は足を止めたまま言い、仁良が歩き出すのを待っているようだった。しかし仁良は動かず老人を睨み付けていた。
数刻、空白の時間が流れ、老人が不思議そうに口を開く。
「おい、どうした。先に行っててくれって言ったんだ。俺は仕事があるからよ」
「…………」
「久人、聞いてんのか。懐かしくて固まっちまってるっていうのか?」
「……あんた、誰だ?」
仁良は言った。既に身構えていて、右手は懐の方に伸びている。
「おいおい、覚えてないのかよ。俺は――」
「見たところ年齢は六十から七十歳くらいに見えるが、そうするとおれが十五の時に、三十から四十代という事になる。その時既に、北之輪町は限界集落化していて、壮年男性はほぼ残っていなかったはずだ」
「…………」
「おれらの親の世代かそれより下といったところだが、外に働きに行ってた人も多かったから、当時この村に住んでたのはせいぜい百人かその程度だったかな。それに、当時おれがここで起こした事を考えれば、そんな友好的な対応は寧ろ不自然だ」
「……こっちはもてなしてるっていうのに、お前は覚えてないからって失礼な態度をとるのか? いい加減怒るぞ」
「怒ってくれても構わない。だが信頼を取り戻したいのなら、その鎌を地面に置いてみたらどうだ? あるいはおれの背後に回ろうと努力するのもやめてみたらどうだ」
「…………」
仁良が言ったその直後、老人は急に表情を失った。まるで最初から精工に作られたマネキンだったように顔の筋肉を強張らせ、その目はいつの間にか生気を失っていた。
「……■■」
人間ではないその何かは、唇を歪ませ何かを言った。
ざわり、と空気が一瞬震えた。その次の瞬間、仁良は十人程度の人間――いや、人間の姿をした何かに囲まれているのに気付いた。
どこにも隠れる場所は無かったのに、まるで瞬間移動してきたように彼等は現われた。見た目はどこにでもいるような老いた農夫や老婆だったが、その手には錆びた鉄製の刺又や大鎌、鉈等といった武器が握られている。
仁良は武者震いの代わりにニヤりと笑った。明らかに超常的な力から、自分は襲われている、そうであるはずなのに仁良は不思議と熱い興奮を覚えていた。
「■■■■」
老人が再び呪文のような言葉を発した。仁良は応じるように身構える。
「上等だ、何度でもやり直してやる――」
そう言って、仁良は《再起》(resurge)した。
《二〇X四年十二月二十九日 午前七時二十六分》
雨戸も全て締め切り、埃が積もって薄暗い部屋の中で、一人の男が椅子に座っていた。彼はじっと動かないまま過呼吸のように息だけは荒くし、ずっと空を睨み付けていた。酷い汗で着ていたセーターまでもが背中に貼りつき、目は病的に充血していた。顔色は真っ青で、広くなった額には血管が青く浮かんでいる。
その部屋は八畳程度の広さであったが、幾つもの本棚の為や、やけに上品なシングルベッドの為に、床が見える部分はかなり狭くなっていた。その男は木製の小さい椅子に鎮座していて、ちょっと離れたところに車いすに乗った人間が一人いた。彼女は白髪を乱雑に垂れ流し、頭を垂れて眠っているようだった。その姿はまるで死んでいるようだったが、時折右手がひくりと痙攣していた。
突然、そのドアが乱雑に開かれた。明りの少ないその部屋で、辛うじて彼が仁良である事を、男は顔を見て判別した。男は力を抜いた――最早無駄であると理解したので、能力を解除したのだ。
「やるね。ひい君。まるで僕が何をするかを分かっていたみたいに、迷う事なくここに来るなんて」
「過去は恐ろしい。それが大切である程呪いにも成り得る」
独り言のように、仁良は呟く。その声があまりにも低く、男は動揺したらくて瞬きを何回も繰り返し始める。
「美利は、これ程までにおれを恨んでいたのか? ヒロ」
「……ぼ、僕はただ手伝っていただけなんだ。でも、ひい君なら分かるだろ? ここで生まれた人間は馬鹿なんだ。ミっちゃんだって元々は普通の人間だった。でも一昨年くらいからおかしくなって――」
「《運命を操る能力》を手に入れた?」
「そ、そうなんだ。未来を操れるようになり始めて、それからおかしくなったんだ。僕だって説得したんだけど、でも聞く耳持たないし、僕だって下手したら殺されるところだったんだ。それで、君がここを壊すっていうのを聞いて、彼女は決意したんだ、君を……」
「殺すのを?」
「…………」
男――今日広智は無言で頷いた。仁良はそれに対し「そうか――」と、まるで自分に言い聞かせるかのように呟き、それから懐に右手を入れた。取り出したのは拳銃の形をしたものだった。形状は一般的なものより一回り大きく、ところどころに付いたサインランプが青く点滅している。
「おい……何だよそれ」
「これか? うちで作ってる新型のティザーガンだ。日本警察の導入に合わせてEEMが開発に関わった。ただこれはリミッターを解除しているがね――」
ティザーガンと呼ばれた大型の銃を車椅子に乗った彼女――茨田美利に向ける。茨田は何かを感じてか、目覚めたようで顔を上げた。長髪に隠れて濁った肌と目が見え隠れし、それに幼き彼女の姿を想起したが、仁良は躊躇せず引き金を引いた。
有線ケーブルと共に針が彼女に突き刺さり、バチンと弾けるような音、彼女の引き絞るような叫び声、それに合わせ数回茨田美利の身体は跳ねた。
勢いが大きく茨田は車椅子から崩れ落ちた。一通り跳ねるのが終わると茨田は、二度と動く事は無かった。
「……もしかして……殺したのか……?」
「何だ? その言い方は――」
仁良は銃のスライドを引いてケーブルを切り離すと、装填し直し今日広智に向けた。
「――まるでおれが酷い事をしたみたいじゃないか」
「ま、待ってくれ! 僕はミっちゃんに命令されてただけなんだ! 僕は何も……」
「静かに暮らしていればよかった。お互い忘れていれば良かった。お前等がちょっかいを出してきたから、おれも反撃せざるを得なかった」
「助けて! 僕等親友だったろ? 今は違うかもしれないけど、まだやり直せるさ!」
「駄目だ。直せない。もう終わりだ!」
仁良は叫ぶ。銃を構える右腕全体に力が入り込む。
「いや、直せるさ! 君も能力を進化させたんだろう!? 時間をまた遡ればミっちゃんは生き返るはずだ! 何回もこの時間を繰り返してこの場所を見つけ出したんだろう!?」
「…………」
仁良は今日広智を睨み付けたまま動かない。それに対し今日は涙目で訴え叫ぶ。
「また三人でやり直せるんだ! 戻ってよ! だったら中学生くらいの頃に戻ってさ! そうすれば君があの人を殺した事実も消え去るさ! そうすれば喧嘩もせずに、僕だって自分の気持ちを我慢して、三人でいつまでも笑って、この北之輪町で暮らして――」
仁良は引き金を引いた。火薬の破裂音と共に弾丸のような針は発せられ、今日は叫び声を上げて激しく痙攣した後、絶命した。
仁良はその様子を確認して、小さく呟いた。
「……もう戻れない。それに、戻ろうとも思わない」
《二〇X四年十二月二十九日 午前七時五十三分》
朝日は既に完全に上りきり、仁良は鳥達の歌声を聞きながら、廃墟の中を通り来た道を戻っていった。最早人気は全く無い――来訪時に現われ襲い掛かってきた人間達は、皆々今日広智が作り出した《実態のある幻覚》であったのだろうと、仁良は推測した。今日広智もまた、《能力》に振り回され、《能力》に魅了され、《能力》に支配され、《能力》に狂わされた人間の一人なのだ、仁良はそう思い我が身について意識した。おれはどうだろうか?
だがすぐに、仁良はその事について考えないようにした。例え自分の運命が破滅に向かっていようが、あるいは既に《能力》に溺れていようが、仁良は自分には関係ないと思ったのだ。少なくとも、過去でも未来でもない、現在の自分には関係ない。
ぬかるんだ道の泥を跳ねのけ仁良は進む。革靴にこびり付いた土を見ながら、東京に戻ったら靴を磨き直さないといけないなとふと思った。車だって洗車しなければいけない――大丈夫だ、まだ時間はたっぷりある。
――彼等の死体はいつ発見されるだろうか、仁良は考える。一週間後か? 一年後か? 彼等の死因が分かれば、仁良自身にも疑いがかかるかもしれない。だが閉鎖的な態度を取り続けてきたこの村に、物好きな警官や観光客が来るとは思えなかった。それにいざとなれば揉み消す事も、仁良には最早可能であった。
やがて真っ赤なフェラーリの元に着き、仁良は乗り込んでエンジンをかけた。全く、こんな車でよく山道を進んできたものだ、と自分に感心しつつも、彼は車を方向転換させ、帰路を辿り始めた。
車を運転させながら、仁良の脳裏にはずっと今日と茨田との思い出が流れていた。夏の日一緒にアイスキャンディーを舐めながら話をした事、旅行、喧嘩、そして――
――仁良は《再起》(resurge)した。彼等との決別を、決定的なものにしたかったのだ。彼はその時はっきりと、過去を取り戻すという選択を捨て去ったのである。
仁良はアクセルを踏み込んだ。
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