#8 きっとかき氷売りの方が似合う君へ【短編】
小説を書くより街でかき氷を売る生活の方が時々良いように感じる。
僕は一台の屋台車を運転して、早朝に海沿いの製氷店に行く。すると既に顔なじみになった初老の男性が出てきて、いつものかい、とぶっきらぼうに言うのだ。それで僕は車内の巨大冷凍庫に直方形の氷を積み込む。その氷は決して家庭で作ったみたいに空気が混ざり込んでなくて、どこまでも澄んでいる。透明な彼女らを次々と運び込むたびに、僕は小さな幸福を感じる。美しいものに毎日出会うという事は、この世界では中々に恵まれている事だからだ。
八時くらいまでに僕はその製氷店から、自由が丘とかどこかの洒落た街路へと戻ってくる。そこは住宅地から駅までの通勤路になっていて、スーツ姿のサラリーマンだとか制服をだらりと着崩している女の子だとかがわんさかと歩いては通り過ぎていく。だから僕は事前に作っておいた音源をスピーカーから流すのだ、「一日の初めに冷たく美味しいかき氷はいかがですか」と。大きくもなく、小さくもない、耳障りにならないよう、しかししっかりと届くように。
それで、そこで寄って来てくれるのは大抵学生である。制服姿のカップルが来たり、あるいは五人くらいのグループで来たりする。その服の種類も、ちゃんとネクタイが締ったものからだらだらと色んなものが出てるものまで様々だ。たまに中学生や小学生も顔を覗かせてくる。中には生意気な奴らもいるけれど、僕はどんな客にも笑顔で応対し、かき氷を渡す。それが細々とした商売においてはかなり重要な事だからだ。
その道は学生が多く通る道なのだけれど、別の曜日には僕はあえて、スーツ姿の社会人が多く通る所に車を停めてみたりする。もちろん売れ行きは減るのだけれど、中には少し照れ臭そうにしながら近付いてくれる人がいる。僕は注文の応対をしながら、この人は一体何の仕事をしている人なのだろう、と時々想像してみる。これから巨額な取引が待ち受けているエリート社員かもしれないし、つまらない仕事を時々しては欠伸をする閑職なのかもしれない。けれど、きっと僕の仕事の方が楽なはずだ。
だから僕はかき氷を笑顔で受け渡す。
それが義務のように感じられるのだ。
朝の出勤ラッシュを過ぎれば僕はその場を去って、大学のキャンパス内でお昼時を狙ったり、あるいはどこかの街でぬるく午後を過ごすかもしれない。車の中で仮眠を取ったり、役所への出店手続きの書類を片しているかもしれない。どちらにせよ、僕はきっと五時には店を閉めて帰宅してしまうだろう。家に帰った僕は早々に支度を終えるとさっさと眠ってしまう。朝は早いし、何より仕事のせいでクタクタだったからだ。
プライベートな時間は確かに少ない。けれど、その僕はきっとある程度は幸福に生きられるだろうと思う。
僕達は一人一人、それぞれが違った武器を内に持っているのだと思う、正確に言えば、成長する過程で各々の内に武器を作り出さなければいけないのだと思う。それは実際刀に似ていて、最初は叩けば折れてしまうようななまくらでも、鋼を混ぜ、鍛えていくうちに堅く、鋭くなってゆく。
武器がない人間はこの世の中で生きていく事がかなり難しくなる。簡単に襲われ、打ちのめされ、最悪殺されてしまうからだ。
僕は成長するにつれ、どこか曲がりくねった道に迷い込んだせいで、武器の鍛え方が多少特異になってしまった。それがかき氷売りなのだ。僕はいつも思っている——自分の武器の強みを、特一段に引き出せる環境で生きる事こそが、その人にとって一番の幸福であるのだと。
だから僕はかき氷売りになった方がいいのかもしれない。
しかしふと冷静になってみれば、現実はこんな華やかなものではない事に気付く。
車での屋台の出店許可はきっとかなり面倒だろうし、制約も多そうだ。巨大で大量の氷を保存するためにはある程度の電力が必要で、車には沢山バッテリーを積む必要がある。その電気代も馬鹿にはならない。シーズンによっては売るものを変えなければいけないようだし、大体僕は巨大な氷を売ってくれる所なんて知らない。それを教えてくれる人もいない。事実、かき氷の出店なんてあまり聞かないから、やはり現実的では無いのだろう。
だから僕はこういう事を考えるたびに、途中からだんだんと暗くなっていって、終いにはかなり憂鬱になってまいってしまうのだ。僕にはかき氷を売る事が出来ないのだろうと。
僕の武器はどんどんと錆びていくのだろうと。
炊飯器がアラームを鳴らしたところに、丁度同居人が帰ってくるドアの音が聞こえた。やがてどたどたとした彼の足音が近づいてきて、スーツ姿の青年が姿を現した。
「おかえり」
「ああ」
「丁度飯、炊けたよ」
「さんきゅ」
彼はソファに倒れ込んだ——疲れた様子だったが帰宅時間はいつもより早かった。僕は予め作り置いていた夕食をトレイに乗せて、台所からリビングへと運び始めた。
僕が住んでいたアパートを追い出されたのは三か月前の事だった。国の再開発とか何だとかの為に、アパート自体が取り壊される事になっていたのだが、ぐずぐずと住まい探しを先延ばしにしていたらもう手遅れになっていた。途方に暮れた僕は旧友の事を思い出し、電話したところ空き部屋があるという事なので、果たして居候として住まわせてもらう事になった。
旧友は僕の高校の頃の同級生だった。どちらも浪人・留年せずに大学に進学したが、大学卒で彼は就職し、僕は大学院へと進学した。何も無い、足の浮いた生活が一年半続き、内定が決まったところで僕は住まいを追い出された。そういうわけで、僕は修士論文を完成させるのと新しい住まいを早く決めるという二つの使命が課せられていた。
旧友の彼は既に社会人で、仕事内容を聞くと口を濁して、重工業系の開発を担当しているのだという。今はボーリング調査を行う特殊車両の改良に関わっているそうだ。社会学の修士生である僕には、ボーリングという単語すら分からなかったから、同居人の彼は苦い顔をして、地面を掘るんだよ、とだけ言って終わらせた。それ以来彼は、あまり僕に仕事の話をしたがらなくなった。
何となくの当たり障りの無い生活が続いて、論文の最終発表があと一か月というところに迫っていた。だが論文はほぼ完成させていて後にすべき事は住まいを探す事だけだった。
「まあ、慌てなくてもいいからな。新しい部屋の事は」
一緒に食事を取り、テレビの方を向いたまま同居人の彼はそう言った。目の下がくぼんでいて、声量も小さかった。だが別段機嫌が悪いというようではなかった。
「ああ。取り合えず本社の近くを探してみる。年が明けたから募集も増えてると思うよ」
「頼むから論文の方を優先してくれよ。俺はお前が来てくれて逆に感謝してるからな。まともな飯が食えるようになったし」
「……このモモ肉、味付けがちょっと濃かったな」
「ん、まあ美味いよ」
彼は僕が話を逸らした事に気付いて、少し気まずそうにビールに口を付けた。午後八時のバラエティ番組は、僕達の会話を弾ませるには少々役不足過ぎた。彼はビール缶を二本開けても押し黙ったままで、食事を終えると僕の分まで皿を台所に持っていった。その間に僕は風呂を追い炊きし、歯を磨いた。支度が終わったところで彼に酒を勧められたが、作業があるからと僕は断った。
「今度のは、どれくらいかかるんだ?」
彼はゲーム機を片手にそう言った。彼が言っているのは、僕が今書いている小説の事である。
「あと一か月で書き終わるよ。それで新人賞に送ってみる」
「受かるといいな」
「どうだろうね」
僕は苦笑した。「どうせ、小説は副業としてやっていくほかないんだ」
「内定とった会社は副業できるところなのか?」
「ああ。規約書にはそう書いてあった」
これは嘘である。僕は、副業が許されている会社の内定を取る事が出来なかったのだ。
「そうか。書ききったら今度こそ読ませてくれよな」
少し赤らんだ顔の彼に、ああ、と答えたが、見せられる程自信は無かった。逃げるように僕は先に風呂に入る、といってその場を去った。
彼について考える、あるいは、彼の武器について。
僕達が住んでいるマンションは、2DKの割かし大きい一室だった。築十年で新しく、七階建てだから外から見ればとても大きい。社会人二年目の同居人が、しかも独りで最初に住む部屋としてはどうしても不自然だった。
彼が就いたところは誰しもが聞いた事がある大企業だったが、この家に来た当初彼は生活するので精一杯のようだった。僕は毎月バイトで稼いだ四万円をこの家に納めていて、それでようやく彼は上等な食事を取り始めた。
きっと就職した直後から、彼は将来の恋人と住めるように準備をしていたのだろう。やはり彼には彼なりの将来のビジョンが見えているようだった。というよりはそのビジョンを完遂させる為に無理にでも二人暮らしが出来る所を住処に選んだのだろう。
そういった面は高校の時から彼に合った。彼は武器を育てるのが上手かったのだ。己の鋳型がどういう形なのかよく知っていて、それを早々に鍛え準備をしなければ、自分は幸せになれないのだという事を知っていたのだと思う。だから大学受験の勉強も怠らなかったし、大学に入ってからも様々な活動をして経験を重ねていった。
その結果がこの部屋で、だから僕は、ここにいると喉元に刃物を当てられているような息苦しさに襲われるのだ。彼の武器の輝きを、目の前で四六時中見せられているようで、目が眩んでゆくのだ。
僕は彼の仕事の事は一切分からないが、人の為になるような所に就いてるというのは本当に思った。毎日夜遅くに帰って来ているし、彼の部屋の机の上には分厚い専門書が何冊も積まれている。それに、彼がいつも充実していそうに見えるのが、彼が価値ある仕事に就いているという何よりの証明だと思った。
人は己の武器を最大限に活用出来るところで生きれば、幸福になれるのだ。
大学に行く予定も無く、彼の洗濯物を干している時、そういう事を僕は本当に強く考える、あるいは、彼の武器について再考察する。特に、空気が冷たくて虫歯が痛むような時には。
昼間外に出ると煙の臭いがした。マンションを出た時、きな臭くて、どこか懐かしいものが僕の元へやってきた。空は曇っていたが、それは今にも降り出しそうな曇天というわけではなく、雲と雲の隙間からちらちらと青空が見えるような、気まぐれみたいな曇り空だった。
灰色の大きなマンションやその塀を潜り抜けるようにして、僕は住宅街を縫うように進んだ。
ぬるりとした風が僕を撫でる。
コンビニから出てくるおばさんを見たり、軽自動車の傍で仕事の話をしている男の人達とすれ違ったりするたびに、何だか彼等と僕との間にいくつもの薄い壁があるように感じた。それは目に見えない、しかしはっきりと何層にも分かれて存在する透明な壁だった。住宅街は閑静で視界に誰もいない数秒間が幾つもあった。その間のたびに、僕はまるでこの街の時間が止まってしまったように感じた。
長い二車線の坂道に出て、時々車が通り過ぎるところを僕は下る。車の風切り音や、風が耳元で煩く唸る音、色彩の淡い塊が、まるで僕を取り囲んでいるようだった。水分をまとった風が体温を奪い、厚めのダウンジャケットを着ているのにどこか肌寒さを感じた。地面のアスファルトは昨日の雨のでせいで、てらてらと濡れて光っていた。僕はポケットの中の拳に強く力を入れて、その道を踏みしめた。
五分程度の道のりで、僕は大型のスーパーに辿り着いて、同居人が送ってきたメールの通りに食材を買った。
レジに並ぶと割烹着を模したような制服のおばさんが、手際よく食べ物を左から右へと送っていった。僕はその光景を見ながら、こういう所で働くというのはどういう事なのだろうと少し想像した。この人が何時間もここで、こうして商品の会計を済ませているところを想像し、あるいはバックヤードに回って芋だとかの品出しをし始めるところを考えてみた。多分いるであろう夫と子供の世話の合間に、そういった仕事をするという事は少し楽しいかもしれないと思えた。
それが彼女の武器なのかもしれない。
レジ袋に野菜等が傷まないよう、買ったものを詰めると僕は外に出て帰路へとついた。若い男女とその息子とすれ違い、トラックを停めて荷物を急ぎ足で運ぶ男とすれ違った。
柔らかな曇り空は依然としてそこにあった。
僕は周りとの温度の差が無くなって、どこか消えてしまいそうな気分になった。
まるで自分の濃度が二分の一になったようだ。あるいは僕の中に灰色の雲が入り込んで、その代わりに僕の要素を半分、溶かしていったみたいだ。
行きと同じように五分かけて帰宅した。家について食材等を冷蔵庫に入れると、僕は頼まれていた家事をした。軽く掃除をした後洗濯物を干し直し、浴槽を洗った。全ての仕事が終わると僕はテレビをつけて、ソファに横になって一時間程軽く眠った。暖房をつけると大量に水を含んだ空気が、布団のように僕にまとわりついたみたいだった。
ある日同居人が動物園に行かないかと言い出した。
どうやら恋人と行くつもりのチケットが、何かの手筈で一枚余計に手に入ったのだという。
断る理由も無かったので僕はその提案を了承した。
土曜日の午前十時、上野駅の前で僕達は待ち合わせた。僕達が改札を通ったところに既に彼女はいた。彼女は同居人より十五センチくらい背が低く、肩まで髪を伸ばした大人しめなファッションの女の子だった。僕と彼女は互いに軽く自己紹介してから、果たしてそこを発った。
その日は幸運にもいつもより気温が高くて、過ごしやすく感じられた。僕と同居人の恋人は初対面の関係ではあったが、僕は同居人から彼女の事を聞いていたし、彼女はきっと彼から僕の事を聞いてるのだろう、初めてあったようでは無いように感じられた。最初は同居人を介して行われていた会話が、園内に入ってしばらくするとある程度知り合った仲のように話す事が出来た。
彼女は同居人より一歳年上で、同居人と大学からの付き合いらしかった。今も同居人と似た、重工業系の企業に就いて働いているらしい。
やがて二時間程度が経って、昼食をとる事になった。
園内に設立されたレストランに入って同居人はハヤシライス、彼女はカレーライス、僕は醤油ラーメンを頼んだ。そこのレストランはおせじにも綺麗とはいえなくて、昭和の時代のような古臭さが今だ残っていた。十分程して頼んだ料理がやってきたが、ラーメンの麺は安っぽい玉子麺といった感じだった。しかしその料理は薄汚れたテーブルとどこか似合っているように感じた。
僕等が丁度食べ終わったところで同居人と僕は追加でコーヒーを頼み、それが届かないうちに彼はトイレに行ってくる、と言ってどこかに行ってしまった。きっと煙草でも吸いにいったのだろう、等と思っていたところに例の恋人が話しかけてきた。
「ねえ、彼との生活はどう?」
それは空気のように軽く感じられた質問だった。まるで木の葉が木枝から離れ、地面にふわふわと舞い降りていく瞬間の出来事のように、僕の耳にそれは伝わった。
僕は言った。「まあ、良いところも悪いところもあるよ。誰だって一人でいたい時があるし、かといって一人だとまた寂しいもんだ」
「ふうん」
「あと少しで僕は出ていくから、次は君の番なんじゃないかな」
「私が? どうかな」
彼女は微笑んだ。まるですぐにそこから消えてしまいそうな、そんな笑顔だった。その時僕は、同居人が本当に好みそうな女性のタイプだと分かった。
思い切って僕は聞いてみる。
「ねえ、あいつのどこが好きになったの? 僕が思う限り彼には悪いところが沢山あると思うけど」
「さあね」
彼女は誤魔化した。「でも私が彼を好きな理由なんて、私以上に貴方が知ってるんじゃないの」
「それもそうだ」
僕は彼の武器について想起した。ぎらついた、純粋な欲望によって濡れた刃物。
「ぎらついているよね、あいつは」
「彼が? ……そういう形容の仕方があるのね。確かにその表現はぴったりかもしれない」
僕の言葉に彼女はどこか納得したようで頷く。
「君は彼をどう思っているの?」
「それがね、良く分からないの。イメージとしては、私がベッドで横になってると、彼がやってきて襲い掛かってきそうで、それで私は良く眠れない、ってワンシーン」
「『襲い掛かってくる』?」
「殺されるって事。右手に包丁か何か持ってね」
僕は笑った、それは共感という名の安心からだった。
「その気持ち、すごい分かるよ」
「彼はきっと生きるのが上手だから」
「…………」
「ねえ、小説家を目指してるんでしょ?」
「あいつから聞いたの?」
「そう」
「どうだろうね」
僕も誤魔化した。「実のところ僕は彼以上に価値のあるものを書けてるとは思えないんだ」
「どういう意味?」
僕は何とか笑って見せた。「僕はかき氷売りのほうが似合ってるんじゃないかって事さ」
午後四時くらいになって僕等は動物園から出る事にした。
僕達は朝と同じところで別れた。同居人の恋人は僕等がJRの改札を通り抜けるまで、ずっと手を振っていた。目を放した瞬間まるで空気に溶け込んで、そこからいなくなってしまいそうで僕は少し怖かった。
しばらくして僕は帰りの電車の中で、いい人だったな、と彼に感想を言った。
「まあ、将来どうなるか分からないけどな」
あまり浮かない様子で彼は返した。どこか遠くを見ているような、そんな表情だった。 そのうち、僕は考えている以上に、彼との間には大きな距離が隔たれているという事に気付いた。
それからしばらくの時が経った。住まいは見つかり、僕は長編の小説を完成させた。ゼミナールへたまに顔を出し、頼まれた買い物を済ます以外に、僕は外へと出なかった。引っ越しの準備が始まるまで、あるいは論文発表から卒業までにロスタイムを僕は持て余していた。何も変わらない生活が続き、。やる事も無く、ただただ退屈な一日を繰り返していた。
半年もかけて書いたこの作品も出来上がってみると色褪せて見えてしまう。何度も読み返す内、僕には小説を書く為の武器を、どこかに置き忘れてしまったのではないかと思った。僕はこれまで、自分が右手にどんな種類のそれを持っているのか頓着しなくて、気付いた時には目は霞んで、自分がどこにいるのかさえ、よくも分からなくなっていたのだ。
僕はデータを印刷し、近日中に出版社に送付する事にした。印刷し終わったらすぐさま封筒に入れてしまって、同居人に見せる前に送ってしまおうと考えていた。
僕はどうしても、同居人にこの小説を見せてやる事が出来なかったのだ。
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