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#11【短編小説】種 後編【R15】


  5

 そこには血の気を失くした三輪がいた。
 口にはガムテープが貼られている。手首は縛られていない。しかしその肢体はだらりと垂れて力ない。病的なほどだった。彼女は、その茶髪を顔に張り付かせて、わなわなとただ震えていた。
 何故だ?
 何故三輪がここにいる?
「三輪さん」
 私は思わず声をかけた。くまがひどい眼窩が、ぎょろりと私の方を向いた。むがむがと三輪が何事かを呟いた。
 すると田沢が何かを手に取った。トランクにあったそれは、どうやらモンキーレンチのようだった。車の装備品か何かだろうか? そう思った矢先、田沢は頭上へそれを思い切り振りかぶった。
 ゴキッ。
 ぼきりと三輪の左腕が折れた。彼女の関節が一つ増えた。
「何とか喋ってんじゃねーよッ」
 田沢が怒鳴った。
 あえあえと何か三輪が言ったが、やがて力なく、動かなくなった。
 その様子を、私は愕然として見ていた。
 何故だ?
 何故三輪がここにいる?
 そんな疑問しか沸いてこなかった。私の、私の三輪が。どうして?
 ぐるぐると感情が巡りまわっていた。私は、三輪に対しよからぬ思いを秘めていた。実のところ、それは愛なんて美しいものではない。その真逆の、とても汚れた黒々とした感情だ。私は、頭の中でいつも三輪を凌辱していた。その豊満な尻を抱き、美しい首を締めあげる妄想を常にしていた。しかし、だからといってこの仕打ちは、無いだろう。何故三輪が、三輪さんがここにいるのだ? そんな疑問しか湧いてこなかった。
「金田さん」
 田沢が私に言った。
 その顔はおぞましいほどににっこりと笑っていた。
「三輪さんを運ぶのを、手伝ってくれますか?」
「は、はい」
 現実に無理やり引き戻された。私はぼおっとする頭を無理やり動かして、田沢と三輪の元に駆け寄った。我々はだらりと垂れた三輪の腕をひっぱり、肩を担ぎあげた。
 その柔らかな肌に触れた瞬間、私は現実と妄想の区別が一切つかなくなった。三輪は、私の女であったはずだ。理屈上は彼女はただの女だ。私とは関連もない、ただの同僚の関係であるだけの、ただの女。だが、私は頭の中で彼女を妄想していた。私の中では、彼女は恋人であり、愛人であり、伴侶であった。だがこれは何だ? 何故三輪が力なく私に肢体を見せているのだ? その身体は、その尻は、その肌は、力強くまた艶やかであるべきなのに。
 力なく、まるで糸の切れた人形のような彼女の身体を、我々は磔台まで運んだ。そのX字の磔台から鎖で垂れた手錠を、田沢は彼女の手首に括り付けた、とても器用に。
「金田さん、後ろ失礼します」
 家永がぬっと私の後ろに現れた。
 その腕には何か注射器のようなものが携えられている。
「な、なんですか、それは」
「麻酔薬です」
 まるで昨日の夕飯を尋ねられた時みたいに、平然と彼は言った。
 私が三輪の前からどくと、彼は手なれた様子で彼女の折れてないほうの腕に注射針を刺した。妙にどろりとした、透明な液体が彼女の中に侵入した。それまで時折するとびくびくと動いていた三輪の身体が、もうぴくりとも動かなくなった。
「もともと薬を飲ませて身体を弛緩させていたのですが、これはさらに強力なものなのです。ちゃんと彼女の体重を量りとって薬の濃度を調節する必要がありました」
「そんなものを、一体どこから、それに家永さんは、どうしてそんな事ができるんですか」
「元看護士ですから」
 彼は注射器を片しながら言った。「薬の入手経路も、その時に知り合った薬剤会社の営業マンから秘密裡に手に入れています」
「…………」
「どうです、驚いたでしょう。確か彼女は、あなたの同僚でしたよね」
「……何故、三輪さんがここにいるのですか」
「ああ、この人は三輪というのですね。こいつはとあるやくざの女なのです。そのやくざは我々にとっては敵対組織なのですが、ええ、なんと言いますか、報復をするんです。彼らが我々のしまに入り、我々の組織の人を殺しました。それに対する報復、そして脅しもこめたスナッフビデオを撮影するのが、今回の目的です。何故麻酔を彼女に打ったのか、分かりますか? 痛みに鈍感になるためですよ。これから彼女は気絶をするような、下手すればショック死するほどの痛みを味わう事になります。しかしそれでは報復の意味がない。彼女には意識を保ったまま、死んでもらう必要があります。その為の麻酔なのです。」
 一息で喋ってしまうと、家永はぷつりと三輪から注射針を抜き取った。その様子があまりにも不気味で、私は怖くなって彼に訊いた。
「そんな……家永さん、あなたは一体、これから三輪さんに何をしようというのですか」
「金田さん」
 家永はつまらなさそうに笑った。
「この世の中はあなたの知らない事だらけなんですよ」


  6


 少年時代はもっと陽気だった。
 少年時代の私は明るく、朗らかだった。学生の頃は仲間とよく遊んだし、いじめる方かいじめられる方かで言えば、ほとんどの場合いじめる側の人間だった。しかし十二歳の頃に親が離婚した。母は私から離れ、父との二人暮らしとなった。それが全てを壊した。何もかもを滅茶苦茶にした。
 ひたすらに会話のない日々。父は無口だったし、私も家の中では無口だった、友達とは仲良く話せるのに。そのうち私の中には怪物が――『孤独』という名の怪物が巣食うようになった。愛情のない日々、俺はどこにいるのか? まるでどこか知らない雑踏に放り出されたかのような不安。私には母親の無償の愛情というものが必要だった。子どもが成長する上で、それは無くてはならない必須のものである。それがなければ、子どもはやがて愛情を注がれずに育った大人として育つ。愛されずに育った大人が、どうやって他人を愛すればいいというのか? そんな方法知る由もないのに。
 私は愛を知らぬまま育った。他人を愛する仕方を知らないまま育った。心の歪みは大学生の頃から非常にひどくなっていった。私は次第に、他人に対して猜疑心のようなものを持つようになった。当然人は誰しも、他人に対して少なからず猜疑心を持っているものだ。しかし私のそれは、人間不信に陥るほどの巨大なものだった。私はどこのサークルにも部活にも属さず、学科でも一人とも喋る事なく大学生活を過ごした。私は、怖かったのである、苦労も何も知らず、ただ与えられたものを享受しながら生きている人々が。彼らは薄気味悪く、また私にはないものを持っていた。人を愛するというのはどういう事か。人とうまく接するというのはどういう事か、私はそれを知らず育った。そういう事を知っている他者が、憎かった。許せなかった。それに、羨ましかった。信頼できる友を作れなかった私は、その後さらに歪んでいった。
 大学を卒業し、成り行きのまま私はエンジニアとしてとある千葉県の田舎の工場に入社した。何もかもが退屈な日々だった。住んでいるのは爺や婆しかいない、娯楽も何もない片田舎。毎日安く買った中古車で通勤する日々。どこの誰が使うかも知らない部品を設計し、時折古株の工員に怒鳴られる日々。鉄とオゾンの臭いに生気のない人々、話す事といえばパチンコか風俗の話ばかり、こんなところで一人で生き、死んでいくのかと思うと吐き気がした。
 結局一年ももたなかった。私は仕事を辞め、再び東京に戻った。日銭を稼ぐためにアルバイトを転々とした。時間を経るとともに、私の鬱屈は熟成されていった。一度ドロップアウトしたら二度と上がれない社会、それに拒絶されているような気がした。私を愛してくれるものは? いない。他人を愛せない男を、誰が愛してあげようと思うのだろうか? 愛されない事に加え、社会からの拒絶、すさまじいほどの孤独感、私は、徐々に頭がおかしくなってしまった。自殺を試みた事が二回あった。一回目は富士の樹海で首を吊ろうとしたが、その前に警察に補導されてしまった。二回目は睡眠薬の服用だったが、身体が薬を受け付けなく嘔吐し、死ぬに死ねなかった。
 やがて映像関係のアルバイトに入り、日々生きるために働いていた私は満員電車の通勤中、一人の女に出会った。どこにでもいる普通の、通勤している二十代の女だった。私はその首を見下ろしながら、首を絞めて殺してやりたいと思った。何故そう思ったのだろう? 今までそんな事は考えもしなかった。それを考えた時下半身が隆起した。私の中の何かが壊れた、いや、もともと壊れていて、それはただのきっかけに過ぎなかったのかもしれない。私は陰茎を彼女の尻に擦り当て、彼女の首に手を当てた。彼女の首は冷たく、瞬間彼女私へ振り向いた。その瞬間私は正気に戻った。慌てて手を放したが遅かった。私は痴漢の現行犯で逮捕された。とてもつまらない、あっけない最後だった。
 私は拘置所でひたすらに考えた。あの時、彼女の首を思い切り絞めていたらどうなっていただろう、周りが止めようとするのも構わず、殺すつもりで手に力を入れて、そうして女は涎を垂らしながら力なく絶命する、その瞬間私は最高に生きているという感じがするはずだ。しかし、何故それができなかったのだろうか。そういった後悔が次第に私の心に降り積もった、まるでホワイトクリスマスの夜みたいに静かに。
 私は自分自身に殺人欲求がある事に気付いた。それは私の中の薄暗い孤独感――くらやみがもたらしたものだった。
 運よく、不起訴処分となり、私は刑務所にぶち込まれる事は無かった。しかし会社にはこの事を知られてしまい、あえなく私は首になってしまった。仕事を探していたところ、前職の同僚が私に仕事を持ちかけてくれた。彼は会社ではつまはじきもので、何故かいうと陰で裏社会の人間と繋がっていると噂されているからだった。夜の街とか裏社会とか私はよく分からなかったから、私は喜んでその仕事を受けた。そうして私は前科持ちながら運よく、この狂気の映像会社へと入った。

 撮影が、始まった。
 田沢は手持ちのカメラを持って三輪の性器やら乳房やらをアップで撮っている。
 家永はキャリーバッグを地面に広げて、中からノコギリやナイフを取り出し、切れ味を確認している。彼のバッグの中は刃物やら液状の薬物やらで大量だ。
 そして家永はナイフを持って三輪の元に歩み寄る。カメラは回っている。家永はこれから、カメラの前で何をするのだろうか? そう思っていると彼は手を伸ばし、三輪の口からガムテープを引き剥がした。
 べりっ。
 三輪の目に一筋の光が差した。彼女はだらりと垂れた舌を必死に動かして、私に向かって叫んだ。
「かね、かねらくん、らすけて、らすけて、らすけてよぉ」
 うぐっ、と思わず喉から音が漏れた。あの三輪が、私に向かって助けを求めているのだ。私は逡巡した。困って家永の方を見ると、彼はにやりと笑っていた。何かがおかしいみたいだ。
「金田さん、こう言っていますが。どうしましょうか? あなたなら何をしますか?」
 家永はおかしくてたまらないふうに言った。『どうしましょうか?』? 何を言っているというんだ? 私は眩暈のような疑問符を抱きながら、呆けた頭で考える。家永は一体、私に対して何をさせたいのだ? 彼が私に求めている事は? 少なくとも彼は今日、三輪を殺すために、しかも惨殺するためにここに来た。その仕事が存在するというのは覆せない事実だ。
「…………」
「かねらくん、らすけて、おねがいらからぁ、ころさないれ、ころさないれ」
 端正な顔にアンバランスなひきつった口元、私は三輪を見ながら、何も答えられない。沈黙が流れる。家永は私に向かってじっと口をつぐんでいる。早く答えなければいけない。早く答えなければいけない。焦りが、そして期待されているのだというプレッシャーが私の心臓を早く鳴り動かす。彼の言葉に早く答えなければ、今度は私が――
「ころさないれ、ころさないれ、かねらくん、らすけてぇ。仲間らったじゃない。仕事の同僚らったじゃない、あなたはわたしを……ォォオオ、好いて、好いていたじゃない。らすけて、らすけてよぉ、止めて、止めてよぉ」
 そこで私は気付いた。
 今度は私が――殺されるかもしれない。
 先ほどの言葉――家永が言っている事はそういう事を表しているのだ。
 三輪を助けるか見殺しにするか? それこそが家永が訪ねている疑問だ。そして実のところ、助ければ今度は私が殺される番になる。もちろん、彼らが私を殺す事でメリットが何かしらあるというわけではない。しかし、世界のルールは贈与と返礼なのだ。家永は私に『人を殺すのを眺める権利』を贈与した。それに対し私は返礼をしなければならない――そうしなければ、それは彼に対する裏切り行為となる。そして、裏切り者に対するやくざの対応は冷たく、厳しい。
「……始めてください。仕事を始めてください、家永さん」
 私は、そう言った。
 その瞬間、三輪を見捨てた瞬間、腹の中から嘔吐感のような熱いものが激しくせりあがってきた。思わず口を抑えたが、私は吐かなかった。そして気付いた。それは興奮だった。
 私は激しく勃起していた。他人の命を見捨て、自分の命を助ける、そこに興奮が、命のたぎりがあった。
 家永はナイフを携えると、するりと彼女の乳房に刃を通した。鈍色は面白いくらい簡単に三輪の身体を切り裂いた。
 おお、ああ、とうなり声を三輪は上げた。ぎこ、ぎことナイフを引いては押し、引いては押しとまるでのこぎりのように、家永は乳房を徐々に裂いていく。そしてその隙間から、大量の血液が漏れ出し、鮮やかな黄色い脂肪と紅色に染まった胸筋が見えた。
 おおおおおあああああああああ、あああああおあああ、ああぅぅううあ。
 まるでくらやみから聞こえる空洞音のような叫び声を三輪は出した。
 家永は手なれた手つきで乳房を引き千切っていく。
 三輪は首を振って痛みに耐えている。
 彼女は気絶できない。
 したくても彼女の身体は麻酔で鈍っている。
 激痛が抑制されているが、それが悪い。彼女は死なず生かさずのまま苦痛を味合わされる。
 私は何も出来ずにいた。三輪を見殺しにしていた。彼女が何をしたというのだ? 
 目を背けたくて仕方がなかった。しかし背ける事はできなかった。何か強い力が、その三輪への拷問に釘付けにさせた。
「っ!」
 家永が最後の一太刀を入れ、三輪の乳房を千切り取った。その瞬間痛みでびくびくと彼女の身体が跳ねたかと思うと、性器から小便を垂れ流した。
 黄色い液体がびちゃびちゃとコンクリートの床に跳ねた。
 それからおまけと言わんばかりに糞をぼたぼたと垂れた。
 硬く乾いた大便の塊が小便の海にびちゃりと音を立てて沈んだ。
 家永は無表情で千切れた乳房を揉みこむと、汚いものでも触ったかというようにその汚物の海へと叩きつけた。乳房はぷるぷるとまるで命を持っているみたいに、地面に叩きつけられた後もしばらく揺れていた。
 私は何度も、もう止めようと言いたくなった。もう終わりにしよう、これで十分だ、そういえば、三輪の命は助かるかもしれない。少なくともこの痛みが続く事はなくなる。しかしそう言おうとするたび、喉はぎゅっと絞められたみたいに声を発せなくなってしまう。
 私の中の暗い感情が、くらやみが私の道徳を押しつぶすのだ。駄目だ。お前はこれを見続けるしかないのだ。そうしなければお前が殺されるし、何よりお前はこの惨殺を求めているのだろう? 射精したくて堪らなくなるんだろう? 
 家永がナイフから小さいメスに持ち替えた。そして三輪の腹の方にかがみ込む。田沢が手持ちのカメラを携えその方へと回り込む。
 家永は、慣れた手つきでメスを腹に当てた。きめ細かな青白い腹腔がふるふると震えている。赤い雫がたらりと下へ垂れる。
 そして、家永のメスがゆっくりと彼女の胎内へと侵入した。ゆっくりと、まるでスローモーションのように、ずぶり、ずぶりと。そしてそれは一種の性行為にも思えた。ぶしゅりと一瞬血が噴き出し、彼女は声にならない叫びを上げた。そして、ああ、ゆっくりと、上から下へ刃が落ちてゆく。時折、筋繊維が千切れるぶちぶちという音が聞こえる。
 すーっと刃はまるで水面を裂くみたいに軽々と進む。
「ああ、ああ、あ、ああ、あああ、ああ、ああ、ああ、」
 ぼたぼたと股からよく分からない液体を垂れ流しながら、三輪は唸っていた。その声はメスが臍の穴を裂く瞬間に一番大きくなり、恥骨のあたりに辿り着くところで小さくなり、消えていった。
 それから家永は今度は横にメスを構えると、腹のわきの方から皮ふを裂き始めた。三輪の身体を十字に切り、皮ふの峡谷を作っていった。
 三輪の叫び声だけが、工場中に響き渡っていた。
「金田さん。何故私が最初にメスで線を入れたか分かりますか?」
 唐突に彼が私に対し質問を投げかけてくる。ほぼ反射的に私は首を振った。私の喉はもうからからに乾いていて、声を発するには役不足になっていた。
「それは、これでさらに裂きやすくするためですよ」
 そしてバッグから取り出したのは刃渡り二十センチはある巨大な包丁だった。
 刃の先は尖ってぎらりと鈍色に光っている。
「傷のところに刃を差し込めば、施術のガイドラインになるし、傷をさらにえぐるから腹腔内まで達しやすくなる」
 そんな解説など耳に入らなかった。
「裂け……裂け……」
 私の喉の奥底から唸り声のような、言葉にならない声が漏れ出していた。それに気づいたとき、私は私に恐怖した。
「裂けッ……裂けッ……」
 ああ、私は何を言っているんだ? 私が言うべきなのは三輪を助けろ、その言葉のみではないか。私は人殺しに、罪に加担しようというのか、それも自発的に? 恐ろしかった。今更と思われるかもしれない。しかしそこは私の道徳的精神の最後の境界線だったのだ。
「裂けッ……!裂けッ……!」
 裂くな、裂くな、理性では黒い意思をどうにか押さえつけようとしている。そう言うべきではない。しかし、私は見たい、三輪が死ぬ所を。その美しい命をぱっと消されてしまうところを。
「裂けッ! 裂けッ!」
 ああ、しかし、私は、声が止まらなかった。愛は暴力だ。孤独は猛毒だ。私は犯罪者だ。
 それも愚かで下劣な、劣情を我慢できなかった前科者だ。しかし、世界中に蔓延る愛の物語が、どう私に救いを与えてくれるというのだろうか! この世の中でどうすれば、孤独によってできた穴を埋める事ができるのだろうか! 
「裂けッ! 裂けッ!」
 そのくらやみには最早暴力でしか解決できない残酷さがある。血が見たい。心の奥底では願っている、いつか私の前に、ピンク色の心臓を差し出す女が現れる事を。その虚無なる夢から溢れる原動力こそが、孤独だ。そして暴力こそが愛だ。
 そして今ここにあるのが救いだ!


「裂けッ!!」


 ずぶりッ
 家永が鳩尾内に包丁を思い切り突き立てた!
 あああああああああああおぉぉおぉぉおあおおあおあおおあおあああああああああうううううううううううううおおおおおおああああああああああああああッッッ
 がくりとこうべを垂れて三輪は気絶した。
 しかし家永は容赦はしない。そのまま全体重をかけて包丁を下へと引き下ろす。
 びちびちびちぃッ
 すさまじい音だった。巨大な筋肉と脂肪が裂ける音があたりに響き渡る。
 瞬間、私の中の全てが壊れた。三輪の命、家永への謙虚、田沢への侮蔑、そんなものは全て無くなってしまった。
 命が崩壊する瞬間、人間の中身が――あんなに汚いものが露わになる瞬間! 
 尊く、そして同時に嫌悪すべき物体の登場。
 腹が裂くにつれ内臓が――小腸、大腸が露わになる。全てが壊れてゆく。
 完璧だったものが、三輪が、完璧だった三輪が。
 命を侮辱している。
 家永は恥骨の部分まで腹を裂き、さらに横から刃を入れ、十字に腹を切り裂いた。
 そこまで行うのに大体、十分ほどかかった。
 その間に何度も三輪は、気絶と目覚めを繰り返した、その絶大なる苦痛をもって。
 そんな彼女の悲しみ、恨み、痛みが想像できるだろうか? 私に?
 私に? 私はここから見ているだけだ。私にあるのは罪悪感、そして興奮、矛盾する一対の感情、家永はどんどんと切り裂いていく。彼のスーツは既に血まみれだ。彼は内臓を取り出し、魚の身を切るように腸をばらばらにし、その臓器を一つずつ取り出していった。小腸、大腸、そしてまな板に盛り付けるみたいに綺麗に、コンクリートの床に並べた。それから膀胱、すい臓、そこまで取ったところで三輪が黄色と赤色の混じった液体を吐き出してぐったりと倒れ込んだ。
「三輪?」
 私はカメラが回っているのも忘れて近寄った。
 田沢が何か言ったがもう気にしなかった。
 私は三輪の頭を引き寄せた。
 ああ、ああと何か吐息に近い声を彼女は吐き出した。
 はは、はは、私の喉から空洞音のような音が流れ出た。
 彼女の顔は吐しゃ物と血液でまみれていたが、それが美しかった。
 私の殺人欲求が、今満たされたような気がした。
 その時、後ろから声がした。
「それでいいんですよ、金田さん、あなたは現実に戻らなくていいんです」
「金田さん、金田さん、金田さん、金田さん、女が死にますよ。現実になんか戻らなくていいんです」
 家永と田沢が声をかけてくれた。
 ああそうか。
 今、私の中に初めて奇妙なものが生まれた。
 それは友情と呼ばれるものだった。
 はは、ははは、ははははははははは、ははははははははははははははは!
 私の中から笑いが起こった。それは歓喜だった。
 私は祝福されたのだ。
 彼らの仲間に入ったのだ!!
 最後の仕上げに入らなければならない。
 私は三輪の口にキスをすると、口の中に転がっていた膀胱をねじ込んだ。
 鈍いピンク色の膀胱だ。
 それは彼女の口から美しいリボンが生えているようにも見えた。
 私は服を脱いだ。ボタンを引き千切るように開け、パンツまで脱ぎ勃起した陰茎を露わにした。
 そして私は、三輪の空っぽになった腹腔を見た。それは何かが収まっていないような気がした。そこにはあるべきものがなかった。誰かが入らなければならないのだ。
 そうか私だ。
 私は今日、この日、このために生まれてきたのだ。
 だからここにいるのだ、ここにいてもいいのだ。
 血だらけの海。
 糞と小便で広がった沼。
 その中で私は生まれ変わりの逆行を行う。
 私は彼女の中へ侵入した。 
 生臭く暖かい腹腔の中に、私は入った。子宮の当たりに尻を付け、何とかして潜り込むと未だ膨らみ、萎む腹膜と肺臓があり、そしてどくん、どくんと弾む心臓があった。
 私は血だらけの海で生まれる。
 私は三輪の中に入った。目を閉じると本当に彼女の胎内にいるような気がする。
 いいや、私はいるのだ。そこにいるのだ。もう何も考えなくてもいいのだ、赤子のように。
 三輪の心臓は今だとくり、とくりと不規則に動いていた。私はそれを握りしめ、彼女の胸中に頭を潜り込ませ、心臓を口で吸った。まるで赤子が母親の乳首を吸うように。
 すると、私の中に多幸感が生まれた。もうどこにもいかなくていいのだ。
 つまらない人生が祝福される。
 愛されている、俺は三輪に。愛して、そしてまた赤子として生まれ変わる。
 ははははっはははっはっははっははははっはははっははははっはは。
 それに気づくまでに随分かかった。それは私自身の笑い声だった。
 笑い声が胎内に響き渡る。はは、ははっはははははは、ははははははは。
 ありがとう、ありがとう。私は感謝する。
 これで、つまらない人生が祝福される!
 俺は生きているんだ!
 ようやく生まれる事ができたんだ!
 俺は生きてる!
 激しく生を感じる!


 私は、母親の命が終わるまで、甘い香りのする心臓をずっと吸い続けていた。


(了)

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