#7 乗客 【ショートショート】

 友人から長く借りている本があって、返さないのも悪いから早く読もう読もうと思うのだが、いざ電車内なんかで読もうとしても何だか面倒になってしまう。
 
 座席の下からもわもわと出るあの熱気もあって、頭は睡魔が立ち込め理路整然としなくなってしまう。そうして結局、スマートフォンを片手にしてしまい、どこの馬の骨が書いたか分からないネットニュースを読むなどして暇を潰すのだった。

 今日はまさしくそういう日だった。日曜日の午後、私は渋谷の電気店で買い物を済まし、電車で帰路へとつく真っ只中であった。

 スマートフォンで暇つぶしをしているうちに電車は次の駅に到着した。ドアが開いて数名の人々が入り、数名がドアの傍に寄りかかるくらいには車内は人
で混んでいた。

「■■■■■■」

 声が聞こえたので頭を上げた。

 ドアの傍に立っているスーツ姿の男が何か独り言を言ったのである。

 彼は白いマスクに赤いニット帽を被っていた。腕を組んで少々猫背気味だ。身長は私と同じくらいだろうか。

 先程の停車時に乗ってきたのだろう。どことなく異質な雰囲気を感じた。

「■■■■■■」

 また男が震える声で同じように言った。結構大きな声だったので、私と同じように数人の乗客が男の方に目を向けた。しかししばらくしたらその乗客らは皆興味を失って、自らのスマートフォンなり本なりに目を戻した。

 私も特に何も思わずツイッターに目を戻し、ふといつもの癖でツイッターに軽く一文を投稿した。
 
 <@doll#043(post) : 何か電車内に変な人がいるんだけど>

 送信ボタンをタップしたところでチラりと男の方を見た。男の異質な雰囲気がどこから現れるのか、その時気付いた。

 まずおかしいのはその服装の組み合わせであった。日曜日だからといってスーツを着ている人は特段珍しくない。しかしスーツに派手な色のニット帽を合わせている事が酷く不自然だった。

 それに、さらに変なのは何かに酷く怯えているという事。彼は挙動不審で、腕を組みながら頻繁にあちこちを見ているようだった。しかし、その目つきは常人のそれで、アルコールに冒されているというわけでも無さそうだった。

 彼は正気のまま、明瞭な理由をもってして、何かに怯えているようなのである。

 一体何に怯えているのだろう?

「■■■■」

 また呟いた。それはヨーロッパ圏の言語のような特徴(巻舌、英語でいうRとLのような特徴的な発音)をもっていた。

 車内の人間はほぼ全員、彼を無視している。当然だ、電車内で一人だけ何かを叫んでいる彼は、傍から見れば狂人のそれでしかない。

 しかし、私だけは彼に興味を抱いていた。

 普通の人間から見れば彼は狂人だ。しかしその原因である何かに私は何故か好奇心を抱かずにはいられなかった。

 見れば見る程怪しいその男を見ているうち、ふと、ある考えが思いついた。

 それはモラルの無い行為だった。

 しかし我慢しきれず、私はスマートフォンをそれとなく彼に向ける。

 そして動画の録画ボタンに指をあてた。

 スマートフォンで彼の録画を始めたのだ。
 
 バクバクと心臓が脈打ち始める。いけない事をしているという罪悪感が私を蝕み始めた。

 録画ボタンに指を置く間、嫌でも呼吸が荒くなった。気分が急に悪くなったような感じがし、全身の毛穴がじわりと開いて熱を放出し始めるようで、暑くて仕方がなかった。

 周りの人間に悟られないようにしながらも、ついに耐えきれなくなって、十五秒程度でとうとう私は指を放した。

 画面を見る。録画は成功していた。

 ついにやってしまった!

 私は周りが気付いていないか何度も見回す——一見して気付いていない人はいないようだ。

 スマートフォンに目を戻す。ツイッターの投稿画面には録画した動画のサムネイルが載っていた。

 ガタンッ。

 私はビクリと身体を弾ませてしまった。しかしそれは、ただのドアの開閉音だった。
 
 罪悪感のあまり自分は挙動不審になっているようである。顔が熱くなるのを感じた。電車がまた次の駅に停まっただけなのだ。
 
 自己嫌悪に陥りながら、しかし今更動画を消すわけにもいかないので、兎角適当に本文を打つとすぐさまツイッターにそれを投稿した。
 
 <@doll#043(movie) : 電車に変な人がいる。スーツ着ているこの人>

「■■■■■■!」

 男の声量が跳ね上がった! 
 
 驚いて私も顔を上げる。

 男は先程よりさらに挙動不審で、あちこち視線を泳がしながら、恐怖している様子で悲痛そうに異国の言語を発している。
 
 まるで私の投稿に感付いたタイミングだった。
 
 そんなわけがない、と思おうとしたが私の罪悪感はどんどんと加速した。
 
 収まっていた心臓の鼓動が再び速まる。車内の人々も、もはや車内に響き渡る声を発す男を無視できなくなっていた。

「■■■■■■!」

 それは、見知らぬ人々が一斉にある一人の男を見つめているという異常な光景だった。男は先程よりも短い間隔で、例の台詞を放つ。

 私はパニックになりかけていて、兎にも角にも逃げ出したい気分だった。出来るものなら今すぐにでも立ち上がって、隣の車両へと駆け込みたかった。だがそんな事をすれば今よりさらに目立ってしまう。この乗客の人々は私の最低な行為に気が付いていただろうか? ——良心の呵責に私は手を握りしめてじっと耐える。

「■■■■■■!」

 男のそれはもはや発狂だった。もう電車内のほとんどの人が彼を見ていて、ざわざわと声を立て始める。私はパニックに気が狂いそうになりながらじっと俯いていたが、ふととある事を思い付いた。

 すぐさまスマートフォンを操作し、内蔵されていた多言語に対応した翻訳アプリを立ち上げる。彼の台詞を機械に翻訳させて、その意図を探るのだ。アプリでは言語の種類をある程度設定しなければならなかったが、彼の言葉はニュアンスからヨーロッパ系の言語らしいというのが分かった。設定した言語の語派が同じであれば、ある程度似通った意図の翻訳が表れるかもしれない。

 すぐさま入力フォーラムを設定すると、私はマイクを男の方に向け、音声の録音を開始した。

 心臓の鼓動がさらに速まる。手が震えないようにするのが必死だ。

「■■■■■■!」

 と、その時丁度タイミングよくその男は叫んだ。ほっとして私は指を離して、音声の入力を解除した。数メートル離れているこちらからでも男の声は十分大きかったから、確実に入力しきれているだろう。

 そう思いながら私はスマートフォンの画面を見る。既に男の言葉は翻訳されている。

 <ここから逃げてください>

 え?
 
 その次の瞬間、画面上部の通知バーに何かが表示され、ドキりと背中に氷を当てられたような感覚が走る——それは先程したツイートの、リプライ通知であった。

 男を動画にした、あのツイートへの返信だ。

『ここから逃げてください』

 心臓が痛い程に跳ね回るのを感じる。冷えた汗が身体にべたりと貼りつく。

 震える親指を何とか動かして、私はその通知をタップする。

 アプリが切り替わるアニメーションが表れ、私のツイートがまず表示される。

 <@doll#043(movie) : 電車に変な人がいる。スーツ着ているこの人>

「はあ、はあ、はあ」

 酷く嫌な気分だった。翻訳サイトの言葉が脳裏で渦巻いて火花を散らしている——『逃げろ』とあの男は言っていたのか? もし彼の言葉の本意がそうであるなら、今すぐ席から立ちあがり逃げるべきだ。

 しかし私はスマートフォンから目を放す事が出来なかった。私は、私自身に向けられたその返信を、読み遂げる必要があるように感じられたのだ。私はそこで、親指を動かす事しか出来なかった。

 ゆっくりと、画面をスライドさせて、そのリプライを見た。

 
 <@4h65kr73q(replay) : @doll#043 お前を見ているぞ>

 
 その瞬間、車内が無音になった。

「ひっ——!?」

 私は恐怖に息を飲んだ。先程まで大声で叫んでいた男が急に黙ったのだ。

 何故、急に黙ったんだ?

『お前を見ているぞ』

「はあ、はあ、はあ」

 車内には電車が線路を通る通過音と、私の荒い呼吸音だけが響いている。

 私はその文章から目を離せない。心臓が今にも爆発しそうになり、あまりの緊張に鼓膜に激しい痛みが走る。

『お前を見ているぞ』

「はあ、はあ、はあ」

 スマートフォンのバックライトが暗くなった事で時間が止まっていない事に気付く。車内には電車の通貨音と私の荒い呼吸音だけが響いている——何故、車内にいる人間の誰もが物音を立てようとしないんだ? 

 何故まるでここにいるのが私とあの男だけだというみたいに振る舞うんだ?

「はあ、はあ、はあ」

『お前を見ているぞ』

 スマートフォンから目を逸らしてはいけないと思った。間違っても男の方を見てはいけないと思った。スマートフォンを持つ右手はがたがたと震え、時間が経つにつれついにスマホの画面もバックライトが消え、真っ暗となった。

「はあ、はあ、はあ」

『お前を見ているぞ』

 顔を上げてはいけない気がした。あいつの視線を痛い程感じるのだ。

 だが私の傍には気が狂いそうな程の恐怖がいる。

「はあ、はあ、はあ」

『お前を見ているぞ』

 もう耐えきれない——私は顔を上げて、男の方を見た。

 男は直立不動で私をじっと見ていた。

 真黒な両目がじっとりと濡れている。既にニット帽もマスクも取り外している。

 ——その男は私の顔をしていた。

 ——その男は私の顔をして、こちらを見つめていたのだ。

「——ッ!!」

 私は絶叫した。 
 

 
 日本から何千キロも離れたとある一軒家——そこにある地下室で、二人の男が向かい合って座っていた。一人は高級な安楽椅子に座り長く口髭を生やした欧米人だった。その向かいに、ガラス製のテーブルを挟んでアジア人風の若者が身を固くして座っていた。電機製のヒーターが唸りを上げ、部屋は十分に心地よかった。

「——情報ウィルスですか」

 若者が言葉を発する。手汗が酷いのか何度もズボンの腿のところで手のひらを拭っている。

「そうだ」

 老人がゆっくりと口を開いた。

「人を狂気に陥れるミームだ。それらの情報は第一媒体と呼ばれる最初に感染した人間を介して、人々に広がる。第一媒体を録画してインターネットにでも放流すれば、その情報を見た人間も感染する——ペストなぞ目では無い、現代最強のウィルスだ」

「成程」

 若者は恭しく頭を下げ、しかし老人に向かって恐る恐る質問をした。

「待ってください。しかし、人間が聞いたり見たりするだけで感染するウィルスなら、我々にも危険が及んでしまいます。一体我々はそれらをどうやって防げばいいというのですか?」

「簡単な事だ」

 老人は机の方に手を伸ばし、置いてあった一冊の本を取り上げる。分厚く、古ぼけた表紙の本だ。

「果報は寝て待て、というだろう。ウィルスがその効力を失うまで待てばいいのだ。インターネットなぞ見ずに、本でも読みながらゆっくり待てばいいのだよ。ゆっくりとな……」


                                                                (2017年4月 第一稿執筆)                          

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?