#4 #thinkingwristcut【短編】

(2016年6月に大学サークルで書いたものです)

 若者の間で最近、リストカットというものが流行っている。
 リストカットというのは手首にカッター等で傷をつける行為だ。若者という言葉、あるいは最近という言葉を規定する事は難しいのだけれど、少なくとも、リストカットは僕らの間を含めた東京全土の間で流行っていて、気づいた時にはそこにプレイとして存在していた。
 あくまでリストカットはプレイとして——すなわち病んだ精神によって及ぼされたものではなく単なるファッションとして——流行していた。いや、元々は正味の自傷行為としてあったのだけれど、学芸大学駅近くのライブハウスでやっていたインディーズバンドがバンドの象徴としてそれをやり始めたのが事の初めだった。リストカットはそのバンドのファンから徐々にサブカル層を通して広がり、やがて元々ファンでは無かった渋谷とか原宿とかの層に伝わった。そうしてリストカットは流行として一般層にまで広がっていった。
 《リストカットはぁ、痛いんですけどぉ、それがかわいくて、そして気持ちがイイんです》
 《最初は怖かったんですけどぉ、やっていくうちに良くなくなってきて、今ではトモダチ同士でリストカットし合って見せあうんですぅ》
 先日朝のニュース番組で、所謂ギャルがこういう台詞を言っていた。渋谷のハチ公前で彼女らが自慢げに話しているのを見て、僕はこういう事が公然の面前で言えるようになったのだと思った。それは少し不思議な事だった。僕と全く違う考えが大多数の意見となったのだから。
 テレビ番組では他に、田舎の女の子が都会の——つまり関東圏で流行っているファッションに憧れて、初リストカットをする始終を取り上げていた。化粧の下手な女の子達は《わー、こわーい》とか言いながらカッターを手に取って、刃を手首に当て、引いた。手首の赤い線から丸い滴がつぶつぶとわく様子がアップに撮られ、僕はそれを見ながら食パンにストロベリージャムを塗った。不思議なものだ。
 リストカットは僕らの間——つまり僕が通う大学の友人らの間——でも流行っていて、僕と同じ学科の女の子は皆、手首に赤黒い傷跡を付けていた。それは今さっき付けたみたいに紅色をしたのもあったし、かさぶたができていて立体的に茶黒くなったものもあった。
 女の子たちは袖が一サイズ分短い服を着ていた。それはリストカットがより良く、ファッションとして見えるように考案されたリストカット専用のファッションだった。そしてそれはリストカットと一緒に東京の最先端のファッションとして流行を広めていた。春の間中彼女らは例年より短い袖のカーディガンやシャツを着て、傷を周りに見せつけていた。
 そしてリストカットは女子らの間だけではなく、男たちの間にもファッションとして広まっていた。ファッションに敏感な男らは皆して手首に傷を付けていたし、手軽な行為だから彼らにくっつく多数大勢の金魚の糞のような男たちもリストカットも始めた。リストカットのダークなイメージもあってか、普段はオシャレをしないオタク系の連中もチェックシャツの隙間からチラチラと傷を見せつけた。バンドとか絵画をやっているサブカル関係も何故か流行りに乗ってやっていた。
 本当に、現在リストカットは若者の間で流行しているのだ。やっていない奴は空気が読めぬ独り者か、本当に流行に乗りたくないひねくれ者くらいだった。前者は本当に少数だし、後者はいつかは消える存在だった。それほどリストカットは社会現象と化していたのだ。
 リストカットで付ける傷も蔓延に従って多様化していった。手首に一本線を引くスタイルはもう古く、今は主に細く長い傷を四本均等に配置するテトラシンプルか、複雑な図形を組み合わせるマルチコンプの二種が流行っていた。後者は今も発展途上で、今後より良いリストカットが発案される事だと思う。
 他にも、自分を象徴する言葉や記号を描く他、手首から前腕・肩まで使って傷を作るものもあったが、そういうのは難しかったり扱いが難しかったり、あるいはより限られた服装を要するので少数派ではあった。少数派といっても、もちろんリストカット多数派から拒絶されているわけではなく、逆に目を引く《特別な人間にしかできないリストカット》として密かに羨まれていた。
 一度友人ら数人と一緒に池袋を歩いた時、すれ違った男の、肩から手首にかけて無数の幾何学模様を描くリストカットに出会った。通り過ぎた後友人らは《あれ凄いよな》などと興奮したように騒ぎ、僕は適当に話を合わせた。こういった大型のリストカットは大変でファッションの域を超え、アートと化していた。僕は特に思うところは無かったが、ああいうのが友人たちにとってはカッコイイらしかった。
 流行のリストカットに乗っかって様々な会社が商業展開してきた。例えばリストカット専門のファッション誌が某出版社から発売され、多くの若者からの支持を受けていた。通常のものではない、リストカット専用のカッター(リストカッター)というものが作られ、浅い傷用とか太い傷用など様々なバリエーションが存在していた。また出血を抑える軟膏とか傷薬とかが普段の十倍売れていて、製薬会社は密かに顔をほころばせていた。
 初心者用に、リストカット入門用にセット化された、所謂リストカットセットというものもあった。数種類のカッターや傷薬一式、正しいリストカットの説明書等が一つの箱にまとめられているらしい。
 こういったように、何故だかは分からないけれどリストカットは若者中で流行していた。もはや周りでリストカットをしない人間はどこか変わっている(もちろん悪い意味で)奴として冷ややかな目を向けらた。都会に住む女の子は仲間外れにされないよう皆して手首にファッション誌を模倣した傷を付け、田舎に住む女子高生らは皆してリストカットに憧れ、ファッション誌の真似事をした。都会に住む青年らは髪を固めるみたいにリストカットしては女と寝る事を考えて、田舎に住む芋くさい男子高校生は一生懸命オリジナルのリストカットをしては女と寝る事を考えた。日本中の大多数の若者がが毎週手首に傷を付けていて、それを周りに見せびらかしていた。ツイッターでは《#today'swristcut》というハッシュタグを含んだツイートが毎日投稿された。インスタグラムでは手首の自撮り投稿が途絶える事は無かった。
 
 

 ところで僕自身の話をすると、僕は二流大学に通うごく普通の経済学部の二回生だったが、リストカットをした事はこれまで一度も無かった。
 別に前述の『空気が読めない独り者』でも『本当に流行に乗りたくないひねくれ者』でも無かったのだが、何となく自分からリストカットをしようとする気が起きなかった。友人から何度も勧められたが、そのたびに誤魔化したり言葉を濁したりして先延ばしにしてきた。
「いや、やるべきだよ! 皆もやっているんだから」
 そんな日の正午、僕は自身の恋人と、ベンチに座って昼食をとっていた。彼女は自分で作ってきたらしいサンドイッチをもそもそと食べ、僕は購買で買ったうどんを啜った。食事はどうであれ、太陽と風のにおいを感じながら昼食を食べる時間は、中々に気持ちいいものであった。その日は突き抜けるように雲ひとつなく、日差しが少し強くしかし大らかに地上の生命らを照らす、文句一つない最高の——本当にそれは最高だったのだ——五月の陽気な天気だったのだ。ただし、それは彼女がその話をするまでの話であったが。
「いや……やりたいのはやまやまだけど、時間がないんだ。課題だってあるし、バイトも入れているし」
 リストカットの話題に一気に気分が冷め、光をてらてらと反射する新緑の美しさも感じられなくなってしまったが、それでもそれを表情に出さないように気を付けながら僕はそう言った。本当に、我々は五月晴れの陽気の下でリストカットの話をすべきではないのだ。感じられるものも感じられなくなって、何が何だか分からなくなってしまうのだから。
 そんな僕の気持ちもつゆ知らず、彼女は微笑しながら反論した。「大丈夫だって。時間だってそんなにかからないし、手軽にできるものもあるよ」
「金が無いからなぁ。ちょっと厳しいかもね」
「バイトしてるのに?」
「まぁ」
「確かに少しかかるけれど、キットを買ってしまえば大体それでだけで済むし、それだって四千円くらいしかしないよ。何なら道具を貸すし」
「あー……そっか、じゃあ機会があったら今度やってみようかな」
「ダメ、そうやってまた逃げるんだから」
 何でも見抜いているというふうに、僕の彼女は顔をしかめる。
「四限終わったら時間が空いてるでしょ? その時に池袋に行って道具を一緒に買うから」
「…………」
「今夜、やってもらうから。いい?」
「…………」
 そういうわけで、僕らは授業が終わった後、池袋のサブカルショップというか、名前もよく知らなかった店を転々と回ってショッピングを(無理やり)した。
 僕は彼女から紹介された初心者専用リストカットキットを内容もよく見ずに買って、それから服屋に行ってリストカットが映えるというVネックを買った。その後適当な喫茶店に入り、彼女は何とかというパフェ、僕はホットコーヒーを頼んだ。
「カップルリスカっていうのがあるの。私たちでセットのリスカをするのよ。君がリスカを始めたら今度しましょうね」
 ヨーロッパを意識したお洒落な店内で、彼女はそう言った、さもそれが当然だというように。それに軽く相槌を打ちながら僕は、世界は変わったのだ、こういうところで血と傷の話をする事が似つかわしくなって、変貌に対応できていないのは僕だけなのだ、とぼんやり思った。
 その店での会計は全て僕が受け持った。その日一日で五時間以上の労働の成果が消え、僕はまたしてもバイトのシフトを増やさなければならなくなった。
 

 
 帰宅してから僕は一人、自室で件のリストカットキットに対面していた。
 彼女とは明日も会うし、今日リストカットをしなければその事に言及されるのは目に見えていた。やるなら今しかないのだが、今いち気分はのらなかった。
 僕は自室を見渡す——まるで今、自分がいけない事をしているみたいで、誰かにこの様子を見られているような気持ちがしたのだ。今日は諸事情で家には僕一人しかいないから、そんな事はありえない。しかし、どうにもそういった緊張感が拭えなかった。
 結局僕は数十分それと睨みあった後、終にその箱を開けた。見た目は救急箱というか素朴な木の箱でしかなく、意に反して中身もそれほど違ったものではなかった。救急箱と同じでガーゼとか消毒液とか、絆創膏とかがあった。ただ違うのはその中に刃物がある事だけだった。
 リストカッターは見た目普通のカッターだったが、小学校の頃使った彫刻刀みたいにプラスチックのカバーが付いていて、誤って深く傷をつけない為か数ミリの深さで止まるように、丁度接地面が刃よりも数ミリ短かった。
 後は何に使うのかよくわからない透明な小瓶が数本と、初心者向けの指南書が入っていた。安っぽい綴じ込みがされたその小冊子には、子供でも分かるような当たり前の事しか書いてなかった。
 諦め、僕はリストカットの準備を始めた。
 カッターを消毒して、左腕の袖を捲った。
 リストカッターを持つと、カバーで隠れて全貌は見えないけれど、その刃は新品なのでギラギラと銀色に輝いていた。
 しばらく刃と見つめあう。それが数秒にも数時間にも思える。
 だが、僕は意を決し手首に刃を押し付け、引いた。
 一筋の赤い線が引かれた時、一瞬時が止まったように思えた。
 しかし、傷からまるでスローモーションのように血が玉のように溢れ、それと同時にずきずきとした痛みがやってきた。ゆっくりとした感覚の中、 赤と痛みが、視覚と痛覚との強いシグナルがDNAの螺旋階段よろしく重なり合い、混ざり合って、一種の特殊なトランス状態を生み出した。恍惚で陶酔、自分の意識が広がって世界と一つになってるみたいな感覚を、僕はしばらくの間感じ続けた。
 傷薬を付け後始末をしながら僕は、なるほど皆がリスカをやる理由が分かったような気がした。この一種のトランス状態は、以前ガンジャを吸ってみた時に似ていた。無論ガンジャの強さには及ばないが、ファッション性もあって手軽で合法な分、流行るのも分かる気がした。
 ただ僕としては、わざわざリスカをやるよりもハーブとかガンジャとかをやった方が理に適っているように思えた。総合的なメリットはリスカの方が大きいけれど、自傷行為は自分の身を文字通り削っているようで刹那的で、それが僕の性には合わなかった。
 おそらく、僕のこの意見は少数派で、誰かが認めてくれるという事はないのだろう。
 

 
 昨日のリスカの事を僕の彼女に告げると、彼女は喜んで言った。
「良かった! 貴方もようやくリスカが出来るようになったのね! じゃあ今度早速カップルリスカしましょう!」
「やけにカップルリスカを推すね」
 僕は何だか変に思って言った。というのは、以前僕が彼女に合法のハーブを教えた時、彼女はやりたくないと言ったのだ。別にその時は彼女がそう言うのならしょうがないと思ったが、快楽指向のハーブはやらずに、快楽的なリスカを強く推すのは変だと思った。
 僕が訊くとやはり彼女は、何処か怒ってるみたいに話し始める。
「だって私達の中で(私達というのはおそらく彼女が所属しているグループの一つだろう)カップルリスカをしてないのは私と貴方しかいなかったんだもの。貴方が中々リスカしないから私皆と気まずくて困ってたんだから」
 何だよそれ。それを聞いて僕は酷く怒りが湧いてきた。友達に仲間外れにされたくないから、しつこくリスカに誘ってきていたのだと思うと、彼女の身勝手さに腹が立ってきたのだ。いくらリスカがファッションで彼女の世界でいうところのドレスコードといっても、それを他人に押し付けるのは違うはずだ。
 しかし、僕はそう思った事を顔にも出さず、
「そうだね。僕が悪かったよ。今度時間が合ったらやろうか」
 と静かに言った。
 この世界では僕が異端で少数派なのだ。それも飛びっきり少数のタイプなのだ。彼女の、周りと一緒でいたい、仲間外れにされたくない、という気持ちも分からなくはなかったし、僕が強く文句を言う事は何となく間違ってる気がした。それはお門違いというやつで、言ってもしょうがない事なのだ。
 そういうわけで僕は人付き合いとしてリスカをするようになった。リスカが気持ちいいものとは、経験したようにそこまでは思わなかった。しかし、自分が仲間外れにされたくないという気持ちは僕だって少なからず持っていたし、それがコストの掛からないものならなおさらする努力をした。
 要するに僕もまた、恋人と同じように孤独を恐れる一般人なのだ。
 
 

 そうして季節が過ぎ、心地よい柔らかな日差しからじめじめと雨が降り注ぐ梅雨がやってきて、それが過ぎると今度はむんむんと気が狂いそうなくらい蒸し暑い夏がやってきた。相変わらずニュースではゴシップや汚職など暗い問題が続き、流行のファッションとしてミニスカートに七分丈のTシャツが流行った。
 時代は今リスカだけには及ばなくなってきたのだ。リスカに留まらず流行はレグカ——レッグカットまで強要し始めた。街の女の子たちはすぐに太ももを見せるようになり、その白い肌には赤い幾何学模様が描かれるようになった。自傷行為はさらに複雑になり、より美しく、ファッショナブルな傷を持つ女の子が可愛くて美しいといわれるようになった。
 僕の彼女も例外ではなくて、毎日ミニスカートを履くようになったし、レグカも多量に行うようになった。それなりに細い太ももにはいつも赤黒いグロテスクな傷が付いていて、それを見せびらかされるたびに僕は不思議な気持ちになった。そして何より厄介なのは、彼女が傷を見せるのにさらなる快感を覚えているという事であった。
 ある日、休日彼女の家に泊まりに行った時(彼女は一人暮らしをしている)、酒を飲んで映画とかを見ていると、自然とそういう流れになって、二人でリスカし合う事になった。
 それまで何かリスカし合うという事はやってきたのだけれど、その日の彼女は特におかしくて、付ける傷もいつもより深かった。まるで肉が見えてしまうのかというくらいに深く、そして長く彼女はリスカするのだ。 彼女はリスカする時独特の「あー」とハスキーな唸り声を上げた。まるで人が立ち入らない森の奥深くに生息する狼の唸り声みたいに。
「あー」
 その日も彼女はそう唸りながらレグカをした。一瞬僕は「あっ」と叫んだがもう遅くて、カッターは異常なほど深く、太ももを切り裂いてその内の肉を露にしていた。今まで見た事のないような量の血液が噴出し、あたりのカーペットやらを赤く染めた。
「ちょっと」
 その時僕は結構酔っていたのだが、流石にやばいと思って彼女に言った。しかし彼女はカットの独特の痛覚と気持ちよさに身をよがらせながら、
「あー」
 とまた唸った。5mmはあるんじゃないかというくらい厚くて深い傷は、その勢いを一切合切抑える事無く血液を噴水よろしく噴き出していた。
「やばい、やばいって、やばくない? やばい」
「あー」
「いややばいって、救急車、救急車」
「あー」
「血、血が、やばいって」
 兎に角危険だという事は分かるのだがどうにも彼女は気付いていないようだった。それどころかレグカの快感に浸っていてまるで返事をしなかった。白目を剥いてよだれを垂らし、時折痙攣を起こす彼女に僕は恐怖みたいなものを感じた。
 なにも言えなくなって僕がひたすら彼女の様子を見ていると、彼女はやがて自分に言い聞かせるように話し始める。
「もっと、もっと、もっと、大胆じゃ、大胆な、あー、傷で、ないと、私は、あー、私で、あー、あー、あー、もっと、深く、厚く、多く、じゃないと、あー、私は、私は」
 大量に流れる血液の赤と、まるで死人のように真っ青な顔をした彼女の表情に、僕は酷く恐怖と混乱を抱いて、逃げるように家を飛び出した。
 途中で恐ろしい程の吐き気に襲われ僕は繁みの中に嘔吐した。多量の血が僕を狂いそうな程の不安に引きずり込むのだ。大量の赤、白い肌。そしてそれを喜びで向かい入れる彼女。
 その時初めて、僕はこの国の若者が無意識のうちに狂気の世界にのめり込んでいる事に気づいた。積極的に働き、各々の目標を達成していくべき若者たちが、こうにも死に向かっているみたいな趣味に没頭しているのだ。
 僕は今まで彼らの行うリスカを、刺青のようなものだと思っていた。それは一種の自己主張で、違うのは何度でも好きな形を彫れるという事だと思っていたのだ。しかし、実際はそれ以上の意味を持っていたのだ。それは手軽でファッショナブルな性質と見せかけておきながら、実は深い絶望を宿していて悲しいほどにデストルドーに包み込まれていていたのだ。
 終電はとうに過ぎてしまっていたので、僕は公園の片隅で一夜を過ごした。身体の気だるさが酷く熱帯夜だというのに身震いが止まらなかった。今夜も日本中の若者たちがリスカをしているかと思うと頭がおかしくなりそうだったのだ。

 
 
 それ以降、僕はリスカと、それに関するものから極力離れる事にした。ファッションの為にリスカをする事も止めたし、彼女と会うのも極力最小限にした。大抵昼食を一緒に食べるくらいで、もう放課後出かけたり彼女の部屋に泊まるという事も無くなった。
 梅雨明けから随分経って時は7月中旬となった。各々の授業で期末試験が始まり、授業をちゃんと聞いていなかった生徒は試験勉強に追われるようになった。僕はそれなりに勉強していたから試験前日に少し勉強するだけでよかったが、彼女は過去問やらレジュメやらの貸し合い借り合いで忙しいみたいだった。そういうのもあって、彼女とは疎遠になっていった。
 ニュースメディアの、政治汚職やらスキャンダルやらの俗なニュースは相変わらず流れ続けていたけれど、それに加えて過剰なリスカによって病院に運び込まれた若者らの件が報道されるようになった。曰く、深い傷によって出血多量で危険な状態になったり、傷の処理を怠って傷口が膿み危険な状態となった男女どもが引っ切り無しにいるらしい。無論僕の彼女も例外ではない事は確かである。
 しかし、そういった報道にも関わらず、世間一般においてリスカはどんどん過激になっていった。レグカとの併用は最早当たり前になり、最近では身体中に傷をつけるのが流行りつつあった。まるで世間の暗い話題の速さに比例するみたいだった。僕はそういった現実を知りつつも、目を背けざるを得なかった。僕一人がそれに気付いたとして、一体何になるのだろう?

 
 
 ある日、僕は僕の恋人と一緒に昼食を取っていた。お互い試験勉強とかで予定が合わなくて、それは実に二週間ぶりの飯であった。
 いつものように世間話や試験の愚痴を言い合いながら昼食を取っているうち、僕は何か違和感を感じた。彼女の目つきが少しおかしいのである。動作も何だか愚鈍で怠そうだし、時折何かぶつぶつと独り言を言うのである。それで僕が何か言った? とでも言うと「何でもない」と言い返しにやりと笑うのである。
 ストレスでおかしくなってしまったのだろうか、とでも思っているうち、彼女は急にその話を切り出した。
「いま私が参加しているリスカ愛好会の中で、こういったものがあるの」
 そう言って彼女はA5サイズのチラシを僕に渡した。——《デイ・オブ・リストカット》と題目に大きく記されたその会は、要するにリスカが好きな人達が集まる集会みたいだったが、僕にはどうにも胡散臭く見えた。実のところ僕はそれを見て——カルト集会みたいな怪しさを感じたのだ。
「みんなとても優しくて聡明な人達なのよ。各位がリスカに関してしっかりとした考え方を持っていて、会長さんなんか特に尊敬できる人達なの。ねえ、知ってた? リスカってつまり自己表現なのよ?
 ねえ、貴方も今度のこの集会に来てみない? 貴方のリスカに対する考え方がきっと変わると思うの」
 彼女は、僕がリスカに対して再び否定的な意見を抱いたのを、きっと見抜いてわざわざ僕にこういった集会があるのを伝えに来たらしい。
 無論僕はやんわりとだが断った。
「ちょっと予定が合わないみたいなんだ。僕も期末試験とかサークル活動とかで忙しいし、申し訳ないけどまたに機会にしたいんだ。ごめんね」
 そう言うと彼女はしばらくの間うつむき、何も言わなかった。きっと彼女は僕のこの台詞が、ただの言い訳で実際はただリスカがしたくないだけなのだと気付いているのだろう。もちろん僕はそれも承知のうえであった。
 しばらくして、彼女は突然顔を上げたかと思うと怒って捲し上げた。
「何なの!? 何なの!? 何なのよ!? 
 どうしてリスカの素晴らしさを貴方は分かってくれないの? 
 リスカは人間的表現なの! 
 痛みを乗り越えてこそ人間は強くなれるのよ! 
 それを! それを貴方は! 行かないですって!? 
 リスカを馬鹿にしてるのね? 
 リスカは人間的尊厳の象徴よ! 
 それを馬鹿にするって事は貴方、
 人間自体を馬鹿にしてるって事なんだからね!」
「おいおい待ってくれよ、ただ僕は——」
「言い訳なんか聞きたくないわ! 私はあんたの言い訳は何十回も聞いてきたんだからね! 
 ねえ! 私を愛しているの!? 
 愛しているなら集会に来てくれるはずでしょ! 
 集会に来ないってことは、私を愛してないって事なんだから! 私の言ってる事分かる?」
「まあ、大体は」
「絶対に来てくれるでしょ!? だって貴方は私の彼氏なんだから!」
 僕が黙っていると、終に彼女はワッと泣き出してどこかへと行ってしまった。周りの席で座っている人達が、皆して僕に悪意の視線を送ってきた。やれやれ、僕だってこんな事態を引き起こしたくなかったのに。
 

 
 長い間ずっと考えていたが、結局僕は何やらというその集会に出席する事にした。ただ彼女と一緒にというのは何となく嫌だったので、彼女には黙って隠れて行く事にした。その方がお互いの為にいいだろう。それでこのライブにもし納得できたなら後で彼女に謝ればいいだけなのである。
 件の場所に行ってみると、そこはよくありがちなライブハウスだった。僕は料金を払って中へと入った。当日だったから僕は、後ろの立ち見席に着く事となった。
 中は大抵のライブと同じように薄暗く、何かヘンテコなBGMが流されていた。それをぼんやりと聴きながら、僕は彼女がどこにいるか少し探してみた。だがハウス内は僕と同じ大学生とか若者達が男女比3:7で集まっていて、彼らの服装は皆同じだから後姿だけでは彼女の姿を判別する事はできなかった。
 そうしているうちに、前説の人が壇上に現れ、果たして集会が始まった。といっても予想に反して、壇上にはトークライブのようにタレントかミュージシャンかのような男が二人上がって話等をしていた。大抵はリスカに関する事で、知識の無い僕にはちんぷんかんぷんだったが、それでも周りの女の子たちが笑ったりふむふむと納得したりしていて楽しそうに聴いていた。きっと彼女達には壇上の二人の話が理解できるのだろう。
 と、しばらくトークライブが続き、僕もうさんくささがただの思い違いであると考え直し初めて来たそのときだった。
「では次に、待望のメインライブに移ろうと思います」
《ウォォォオオオオオッッ!!》
 突如両隣、いや会場中の人間が叫び声を上げ、僕は驚愕で10cm飛び上がった。壇上にはドラムやらシンセサイザーやらが次々と運び込まれ、いかにもロックバンドという風の恰好の男達が出てきた。
 声援はずっと続いたままで耳がイカれそうになる(本当にこの表現がぴったりなのだ)。
「よウ……おめえラ」
 ボーカルっぽい男が口を開くと、途端にピタリと声援が止んだ。その声に僕は少し聞き覚えがあって、遂には思い出した。
 このバンドはリスカが流行った当初の原因である、リスカをモチーフにしたインディーズバンドの奴らだ。思い出してみれば、確かにチラシに書いてあった出演メンバーにはその名があった。
「死、生命、輪廻、人間、傷、悲しみ、怒り、苦しみ、喜び、血液、臓器、皮膚、眼球、感覚、魂、そして」
 会場内に何か怪しい臭いが充満してきている事に僕は気付いた。詳しくは分からないけれど、それは何かケミカル系のハーブの臭いに似ている気がした。まさか観客らをトリップさせるための仕掛けだろうか?
「俺達は次ノステージへと行ク。俺達は次のステージへト行キ、そして《真理》へト近付く」
 《真理ッ!》《真理ッ!》《真理ッ!》《真理ッ!》
 突如観客らが叫び始める。彼女らの目はクスリによって決まっている奴のそれに酷似している。
 何か原始の恐ろしい感情が僕の底からぐつぐつと盛り上がってくるのを感じた。
「行こうゼお前ラ。俺達ノ……『リスト・カット』へ!」
 暴力的な音楽が果たして開始した。
 ロックとテクノをごちゃ混ぜにしたようなサウンドが鼓膜を破るかというくらい鳴り響き、狂ったように観客は立ち上がって叫び始めた。
 低音が僕の内臓を揺さぶり、高音が僕の耳をつんざいた。
 慟哭に近い歌声が場を支配し、全てが狂気に満ちていた。
 まるで次の世界へと行きもがいているように、死の世界へと……。
 僕は発狂した。
 
 

 何分経っただろうか、あるいは何時間だろうか。狂気に気を狂わせていた僕は少しだけ、理性を取り戻し状況を把握しようとした。
 壇上ではボーカルやその他のメンバーが、ほぼ全裸になって身体中に包丁で傷を付けている。着席用のパイプ椅子はほぼ全て折りたたまれたりしていてその形を成していなく、観客たちは未だに狂ったかのように手を振って踊り乱れている。そして彼女らもまた服を脱ぎ乱し腕やら脚やらに傷をつけている。手には大振りのカッターだ。
「今日は深クイクぜーーーーー」
 刀が振るわれ、血が噴き飛び、まるで血液の海に立っているような錯覚を覚える。赤い肉が露わになって人間達は原始の姿で死へと歩いていく。
 地面には多くの人間が倒れていて、身体中から血を流している。
 地獄だった。あるいは死の世界。
 我々は死の世界に入門しているのだ。
 

 
 気が付いた時、僕は外にいて、警察に電話をしていた。何を言っているのか自分でも理解できなかったが、他からも通報が来ているみたいですんなりとパトカー二台がやってきて事態の確認をしに来た。それで僕は再び気を失って、次に気が付いた時は病院のベッドの上だった。
 医者からの話によると軽い衰弱との事で例のライブハウスから運ばれてきたらしい。腕には点滴が刺さっていたが、昼には取ってもらえ、そのうちに僕は退院し、次に警察の元で事情聴取を受けた。
 僕は正直に訊かれた事を答えた。三十分ほどで聴取は終わり、その後、あの事件の事情を聞いてみた。
「酷い有様でしたよ。死者も出ています」
 刑事の内の一人はそう言って、僕は驚愕した。
「死者……」
「テレビのニュースでも大きく取り上げられてますよ。これから慌ただしくなります。リスカ流行も悪い印象がついてすぐに終わるんじゃないかな」
 彼らから聞いた話と後でみたニュースの内容を統合すると、どうやらこういう事になったらしい。あの集会は前々から行われていて、今日まで酷い事態には陥っていなかったものの警察からは目を付けられていた。案の定昨日のライブで常軌を逸したパフォーマンスをし、バンドメンバーやその関係者が何人か逮捕された。怪我人も多く出し、その内何人かは重症を負っていた(件のボーカルも重症で、何と僕と同じ病院に入院していたらしい)。そして内一人が、出血多量で死亡したという。

 この事件がきっかけで、リスカおよびそれに関わるファッション流行は急激に終息していった。
 メディアは真っ先にリスカファッションを批判し、そこに関わる業界を糾弾し、《リスカはいけない事だ。どうして自傷行為が流行ったのだろう》と発言した。一部では《流行を囃し立てた我々にも責任がある》と自省した番組もあったが、話題には上らなかった。《リスカはいけない事だった。こんな事が今後起きないようにしようね》——そんな中身のない意見を各メディアは発した。
 ファッション業界はリスカおよびそれにまつわる商品を『無かった事』にして、これまで通り若者達に自己表現の仕方を教えた。何かしら反省なり何なりの反応があると思っていたが、本当に彼らは反応を示さず、無表情を貫き通した。
 警察だとかが規制を強めようとしなくても、このリスカ流行は燃料の切れた炎のように急速に消えていった。若者たちはリスカをすぐにやめて、夏なのに長袖のシャツを着て、女の子はロングスカートや丈の長いズボンを履いた。それはきっとリスカやレグカの痕を隠す為なのだろう。僕にはちゃんちゃらおかしかった。傷なんて消えない。どんなに忘れようとしても過去は変えられないのだと。
 

 
 《そう——本当に皆、僕達がリスカをしていた事を忘れようと、無かった事にしようとしているのだ。でも本当にそれでいいのか? 僕達はこの事を一番に反省し、未来へと繋げていくべきなんじゃないのか?
 誰しも自分の罪を認めようとしない。テレビメディアは業界が悪い馬鹿な大学生が悪いと文句を付け、ファッション業界は知らんぷりだ。そして僕ら若者は目を背けようとしている。そんなんじゃ駄目だ。僕達は教訓を学び取らなければいけないのである。
 何でこんな馬鹿馬鹿しい事が起きたのだろうか、どうして自分の身体を傷つける事がかっこいいだなんて皆思ったのだろう、それは誰が悪いとかそんな表面的な原因ではない。
 これは暗く未来が見えない社会がずっと続いてきたために、社会全体が腐ってしまった一つの結果に過ぎないのだ。
 思い出してみてほしい、リスカが流行する前、そしてしている間中、ずっと暗いニュースばかりが流れていたのを。政治家の汚職、くだらないタレントのスキャンダル、不況、不祥事、株価下落、オリンピック問題、そんな話ばかりだ。誰も○○が成功だとか明るいニュースを伝えちゃくれない。僕らだって明るい気分になろうと努力しなかった。
 その結果がこれだ。ずっと先行き不透明な話ばかりされて、この国はまるでもうおしまいだみたいな話し方するから、無意識のうちに刷り込まれ、若者達が皆して馬鹿みたいに自傷行為をするのだ。これは当然の結果なのだ。僕達が勉強して、必死に就活して、さあようやく働こうとしている時に我々は、未来なんてない、これから先堕ちていくばかりだ、なんて考えさせられる、そういう無意識下でリスカをしないわけがないのである。
 この事件は無意識のうちに若者に刷り込まれた不安によって引き起こされたのである。だからこれは僕ら皆のせいなのだ。何故か? まずメディアは自分達が思っているよりも大きな力を持っていると自覚して、より良いニュースを報じていくべきだし、国民の——少なくとも未来を予想できない馬鹿な国民の——不安を煽って視聴率を稼ごうだなんてもっての他だ。
 リスカ商品を展開した会社達だって、本当は自粛すべきだったのだ。世の中には売っていいものと悪いものがあって、煽っていい流行と煽ってはいけない流行があるのだ。流行を作るのは俺らだなんて言うけれど、それならそれ相応の責任が生じるはずなのである。
 そして、何よりも悪いのは僕ら若者なのである。僕らがこんなにも不勉強で、ただ何にも考えないで学生生活を送っていなかったら、こんな不幸な事件は起きなかったのだ。例え本当に未来が見えなくても、僕らはポジティブに生きるべきだし、またそうする努力をすべきなのだ。嘘の自己暗示が正義かどうか僕は分からないけれど、少なくともそうすれば明るい未来が見えるかもしれないのは確かだ。
 これまでこんな偉そうな事を書いて申し訳ないと思う。傲慢だと思う。そして、こんな文章誰にも読まれないんじゃないかと思う。けれど、たった一人の目に止まってくれればいいと思うし、貴方に余裕があるなら各種SNS——LINEやらツイッターやらインスタにシェアして欲しい。ハッシュタグは《#thinkingwristcut》だ。よろしくお願いします。』
 とここまで書いてから僕は、テキストエディタからブログにコピペして、太字とかの操作をした後投稿した。それからツイッターにブログのURLを貼って、そこまでしてようやく僕は一息ついた。
 こんな事は多分無意味だろう。ブログのPVはきっと百も超えないだろうし、ネットでの僕の影響力なんて微々たるものだからきっとこのメッセージは届かない。
 そうだ、僕はいつだって少数派なのだ。少数派の意見ばかり持って、周りからは変わり者だと思われ、それが嫌だから僕は皆に合わせようと思ったのだ。
 でも今回は違う。僕は確かに少数派だが、それでも意見を言わなければ僕らはいなかった事にされてしまうのだ。だから僕らは例えそれが無意味でも、こうして意見を表明しなければいけないのだ。そうしなければ、世界は一つの意見しか持っていない人間として扱われてしまうから。
 僕は溜息をついた。
 

 
 因みに僕の彼女の事だけれど、実は彼女はあの日例の集会には行っていなかったらしい。僕がいないまま独りで行く集会なんて無意味だと思って、結局あの日は家にずっといたとの事だ。
「でもまさかリスカがあんなにも危険だなんてね。何て危ない事をしてたんだろう、自分が恥ずかしいわ。もうリスカなんてしない。貴方もリスカなんてこりごりでしょう?」
 昼食の時、彼女はこんなふうに言って話を締めたので、僕は初めて彼女を殴った。
 平手打ちを食らった彼女は何が何だか理解できないみたいでしばらく僕の顔を見つめていたが、ワッと堰を切ったみたいに泣き出した。それで僕はその場から去って食堂から外に出た。


 こんなすがすがしい気分は久しぶりだ、と僕は思った。

 

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