曖昧のツボ──シアターコモンズ'21を繋げた、百瀬文の『鍼を打つ』
シアターコモンズ'21のプログラムを体験した。
シアターコモンズとは、サイトには「都市に新たな共有地(コモンズ)を生み出すプロジェクト」とあり、もう少し噛み砕いて言うと、演劇メインのアート&カルチャーフェスティバルとなるだろうか。フェステバル/トーキョーの初代プログラム・ディレクターで、今年、文化庁の芸術選奨新人賞を受賞した相馬千明さんが中心となって、2017年以降毎年、2月から3月にかけて港区を中心としたさまざまな施設や街なかで行われている。
今年はVRやARを活用したプログラムが大半で(昨年はレクチャーパフォーマンスが多かった)、その背景には新型コロナウィルスの影響はもちろん、それ以前から関心が高まっていたエコロジー問題、バーチャル技術とアートやエンターテインメントとの接近などがあるが、そうした情勢を複合的、直感的に読み取った相馬さんは、シアターコモンズ'21に『Bodies in Incubation 孵化/潜伏するからだ』というコンセプトを立て、その中に「病の時代、治癒と再生」と題したひとつのテーマに織り込んだ。
https://theatercommons.tokyo/concept/
告白すると、「病の時代、──」の文章を読んだ時はピンと来なかったのだが、結果として、大半のプログラムを体験した中で最も強いインパクトを受けたのが、百瀬文さんの『鍼を打つ』という、病や治癒をダイレクトに扱ったものだった。
Twitterの私のTLには「幽体離脱しかけた」「泣いた」といった感想が上がっており、あいにく私はそうしたマジカルだったりエモーショナルだったりする体験はしなかったのだが、この『鍼を打つ』によってシアターコモンズ'21全体を俯瞰するような理解が得られたので、書いておきたい。
(*これはあくまでも『鍼を打つ』というパフォーマンスに対する私の感想で、一般的な鍼治療の目的や効果とは異なると思うので(もしかしたら一部カバーするところはあるかもしれませんが)、その点、誤解なきようお願いします。また、東洋医学について少し勉強した人からすれば常識という内容かもしれず、その場合はご一報くださるか、笑っていただければ。)
『鍼を打つ』パフォーマンスの内容は次の通り。
①指定された会場(田町のSHIBAURA HOUSE)に到着すると、パフォーマンスの流れを書いたリーフレットを渡され、シアターコモンズの係員からそれを読むように指示される。リーフレットには「ベッドに腰をかけたら靴と靴下を脱ぐ」といった手順、「強い痛みを感じた場合」などの注意、「6ページに渡る問診票があるので、それに記入する」とある。
②開演5分前、同じ時間枠で鍼治療を受ける人達と、階上の施術室に移動。
③施術室前で、係員から①と同じ指示を説明を受ける。
④施術室に入り、自分にあてがわれたベッドに座ると、係員から「これから15分間で問診票を記入してください。問診票は6ページあります」と改めて説明される。
⑤鍼灸師が入場して各ベッドに座り、5分ほどかけて担当する被験者(観客)の問診票を黙読する。
⑥被験者(観客)は用意されたイヤホンをつけて横になるよう指示され、両腕、おなか、両足、頭頂部に鍼を打たれる。その間、イヤホンからは問診票の質問と同じ文言が女性の声で読み上げられている。
⑦そのまま20分ぐらい?横たわる。
⑧鍼灸師によって鍼が抜かれ、そのまま5分ほど休む。
⑨係員からパフォーマンス終了が告げられ、起きて会場を出る。
この一連で私が違和感を感じたのは問診票の扱いだ。都合3回、口頭で「6ページあります」と言われる。さらにパフォーマンスのスタート時、記入時間を厳密に指定される。整体やマッサージの初診時に問診票を書かされることは珍しくないが、6ページは量が多いし、15分というも時間も長い。そもそもなぜ「問診票が置かれていますから記入してください」だけではなく、わざわざ「6ページ」と毎回繰り返すのか。
果たして読んでいくと、A4の用紙にびっしり書かれた設問の内容がまた、かなり不思議だ。「手の指先が冷える」「こめかみが痛むことがある」など身体の不調を問う質問だけでなく、「人に触られることに抵抗がある」「自分は孤独だと認めるのが怖くて仕方ない」など、明らかに肉体から離れた、自意識と深いところから絡んだ、長いレンジで自分を振り返る必要のある質問がその合間にポコポコと出てくる。「人に触られることに抵抗? すごくある、けれど絶対に嫌ならそもそもここに来ないのではないか?」といった具合に揺さぶられるし、質問の内容と順番に規則性を読み取れず、しばしば戸惑う。しかも答えは、該当する場合のみチェックを入れる形式なので、Yes/Noで分けられないニュアンスはどこかで切り捨てなければならない。記入する前は余るだろうと予想した15分は、あっという間だった。
そして鍼を打たれている間も、イヤホンからその質問が繰り返される。あの答えで良かったのか。そもそもバラバラなこの質問達は、何を探ろうとしているのか。内面的な質問と鍼の因果関係はあるのかないのか──。
どうやらこれは、鍼を打たれること自体より、問診票に大きな意味がある作品らしい。
「これでパフォーマンスは終わりです。そのまましばらく休んでいてください」という係員の声が聞こえて、パフォーマンス前に閉められたカーテンが開けられる。SHIBAURA HOUSE最上階の、普通なら2フロアは取れる高い天井が目に入る。短い時間だが、一般的な鍼灸院ではあり得ない、自分が巨大な白い水槽の底に横たわっているような感覚に陥る。
その時にふと、問診票が6ページだった意味が腑に落ちた。鍼を打たれたのは両足、両手、腹部、頭頂部。つまり6ヵ所で、問診票の総ページ数と同じ数字だ。それは偶然ではない。偶然ならあんなに繰り返されないからだ。
とすれば、1ページ目が右足、2ページが左足、といった具合に各ページが身体の各パーツに対応していたのではないか。例えば「咳が出やすい」という症状を、西洋医学を常識にしている私(達)は、肺という臓器とダイレクトに結び付けて原因や治療法を考えるが、鍼灸では左足に肺の機能を改善するツボがあるからそこを刺激して症状を緩和する、と考えるのではないか。
私が戸惑った、身体についての質問と、内面についての質問という分け方も、それ自体が西洋医学的な考え方で、東洋医学では内と外を影響し合うものとして捉えており、私がバラバラに感じた設問は、被験者を戸惑わせる意図があったのでなく、東洋医学の見地からすれば同じ問診票に並べるのが当然の、フラットなものだったのではないか。
翻って“鍼を打つ”という行為は、皮膚を境界線にした内と外を部分的、一時的に解放して“分けているもの”を曖昧にする行為なのかもしれない。
この“曖昧”という言葉にたどり着いた時、『鍼を打つ』までに体験したシアターコモンズ'21の他のパフォーマンスが思い出された。ツァイ・ミンリャンのVR映画『蘭若寺の住人』、中村容子のAR体験型映画『サスペンデッド』、小泉明郎のVRパフォーマンス『解放されたプロメテウス』、スザンネ・ケネディ&ロドリック・ビアステーカーのVRパフォーマンス『I AM (VR)』は、ひと括りにしてしまうにはあまりにも内容も手法もさまざまだが、どれも生命の、あるいは記憶の、また、この国で社会生活を営む者としての曖昧さを突きつけられていた。それらのパフォーマンスは、いつでもこちら側──自分でこれが現実と、常識と、多数派と認識している状態──から、そうではないあちら側に移り変わる可能性があることを疑似体験させる機能が共通していた。私(達)の身体と意識の宙ぶらりん具合を刺激する、複数のツボだったのだ。それがこの日の鍼によって、まさに“通った”。
コンピュータ技術や映像技術の粋を集めたARやVRを使った鑑賞体験が、長い歴史を持つ東洋の治療によって繋がったのを、私は皮肉には思わない。むしろ、距離も時間も遠いところにあった両者がこうして出合ったことに新しい可能性を感じる。願わくば、問診票をもう一度じっくり読み返し、そのあとで鍼を打たれたい。
そして気が付いた。問診票も大事だが、鍼を打たれる体験もまた、同じくらい重要だった。