2024年8月前半に観た舞台の感想(全部ではないけれど)

『BALLET The new classic』
バレエ門外漢なので的外れかもしれないが、ラシックバレエの既成概念を、ジェンダーの越境から果敢に攻める企画と受け取った。具体的には男性は衣裳、女性は振付で、美しさと断端さの両立に感じ入ったのだが、『ロミオとロミオ』のわかりやすさはその挑戦を矮小化したのでは。


果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』
今回の再演でようやく観られた。前評判に違わぬ作品で、女子高生が放課後の教室で交わすおしゃべりに性自認やアウティング、同性愛の問題などが幾重にも張り巡らされている。若者言葉は、省略で、イントネーションで、言い換えで、物事を軽くする。それは多くの場合、先行世代から眉をひそめられるが、その軽量化がむしろ本質をむき出しにしたり、新たな一面をもたらすことも少なくない。
個人的な体験だが「クソだな」という表現を口に出したのは5、6年前で、20歳以上年下の知り合いの影響だった。最初は勇気の要ったその言葉が、まさにそれでしかフィットしない対象がいる/ある、という感覚をもたらしてくれるまで、そう時間はかからなかった。この作品に詰め込まれた10代特有の、一見したところ軽い、雑な、その場しのぎの言葉は、次第に、その陰にあった怒り、おびえ、後悔などが前景化し、まず軽い言葉にするしかなかった苦しみが姿を現す。この変化が、作劇的に見事だが作為性が微塵も感じられず、胸に迫った。生徒役と教師役の見た目の年齢差が小さかったことで、子供vs大人の構図にならなかったのも良かった。


八王子車人形西川古柳座『AKUTAGAWA』
3つの車輪がついた小さな箱に座った人形遣いがひとりで一体の人形を操る車人形の一座と、在米アーティストが20年近い交流を重ねての共同制作2作目。執筆する芥川龍之介の精神世界と『杜子春』『鼻』などの作品をひとつにし、映像と音楽を交えて上演。
車人形にも興味があったので出かけたのだが、芥川作品それぞれに関しても、芥川の執筆の苦悩にしても、すべてが言葉(せりふと字幕)、さらに映像で表現されていて、観客が想像する余地なし。せっかく物言わぬ人形なら、繊細な動きに集中し、そこから何かを汲み取る時間がほしかった。


『ビリー・エリオット─リトルダンサー─』
初演、再演と観て今回が3度目なのに、今までで一番泣いてしまった。上演を重ねる意味はそこにあるはずなので、これから観る人もきっとそう感じられると思うけれど、’84年、サッチャー政権下のイギリスの炭鉱の町、というバックグラウンドが、洗いこんだタオルのように最初から全体に沁み渡った、柔らかい社会劇になっていた。
オープニングの映像で、ビリー一家が住むダラムは、炭鉱閉鎖、労組の解体のずっと前から貧しい町で国の方針に振り回されてきたことや、ビリーの年の離れた兄・トニーは、父親世代の肉体を軸とするやりがいも、万が一でも芸術のチャンスが舞い込む弟世代の幸運も掴み損ねた世代ということが、今回特に(とっくに気付いていた方も多くいらっしゃるでしょうが)沁みた。私が観たのは石黒瑛土ビリーで、せりふが聞き取りづらいところもあったが、どの動きの芯にも感情が伴っていて欠点にならなかった。
そして、もう半年も前だけれど、『スプーンフェイス・スタインバーグ』を観てから、同じリー・ホール戯曲(『ビリー』では作詞も)のこの舞台を観られたのは良かった。自分が美しいと思うもの、自分のやりたいことの根源に近付く行為の厳しさと正しさを共通点として感じた。


ゴーチ・ブラザース『彼方からのうた』
弟の死の知らせを受け取ったNY在住の男性が、故郷のアムステルダムに戻り、葬儀を終えてNYに戻るまでの7日間が、亡き弟に向けた手紙の形で語られていく。もともとひとり芝居として書かれたサイモン・スティーブンスの戯曲を、演出・桐山知也のアイデアで、年齢の違う4人の俳優が順番にせりふを引き継ぐ構成に。
弟の死に混乱しながらも、過去に何かあったと想像されるぎこちない両親との関係とその変化、別れた同性の恋人との再会などが淡々と語られていく。過去に遡る記憶と進む現実という時間の流れを端正に表す山本貴愛の美術もあいまって、知的な雰囲気が良い。
ただ、テンポがずっと一定でメリハリに乏しい。また、スティーブンスと並んで「作」にクレジットされているミュージシャンのマーク・アイツェルの音楽の存在感の薄い。パンフレットを読むと、ふたりは時間をかけて共に取材旅行をし、インスピレーションを与え合っていたようだが、この作品の音楽性は、亡くなった弟が歌うテーマ曲でしか感じられなかった。
それらの原因が、もしかしたら聴覚への意識の欠乏かもしれないと思うのだが、それはオープニングで語られる、主人公が仕事で会った中国人女性が非常に小さな声だったエピソードがあるからで、彼女と話している最中に弟の訃報が入るのだが、彼女の聞き取りづらい声に対して意識を開いた主人公が、過去への時間旅行と現実の旅を経てそれまで閉じていた感覚を知らないうちに覚醒させ、やがて死んだ弟の歳を重ねた姿を見る体験につながったのではないかと思うから。
観客の聴覚を開かせる演出がどこかにほしかった。


劇団しようよ『歌舞伎町ノート』
何より気になったのがララという登場人物。歌舞伎町のデリヘル嬢なのだが、お客にまともにお釣りが渡せない、気になる人がいると道に座り込んで話しかけ嬉々として商売道具のローションを出すという人物を私はどうしても、知的障害を持ちながら/持っているがゆえに、性風俗に従事している女性と考えざるを得ず、その後の「歌舞伎町の性風俗産業に身を置いてなおイノセントで、その強力な無邪気パワーが人々に影響を及ぼしてひとときの奇跡が生まれた」という展開に乗ることができなかった。
当日パンフと共に歌舞伎町マップが配布され、そこに実在のラブホテルが記されていたことを考えると、現実世界の性(風俗)は認識されていたと思うので、この人物設定は観ていてかなりつらかった。

アンパサンド『歩かなくても棒に当たる』
これまで観て来た中で最も、あるいは2番目に小道具による仕掛けが少ない作品で、その分、せりふと構成の力で物語が進んで(ナンセンスみはそれでも充分あったけれど)、最も好み。個人的にグッと来たパンチラインベスト2は「ゴムに電気を通すようだわ」と「たこ焼きパーティはコスパじゃない!」。
初参加の川上友里も素晴らしかったけれど、前作に続いて、ちょっとしたズルさと、発揮しなくていい時に粘り強く真面目になる頑固さが同居する人物を演じた安藤輪子の踏ん張りも良かった。


世田谷パブリックシアター『空中ブランコのりのキキ』
目に入るものどれもこれも美しい。佐々木文美の美術、藤谷香子の衣裳は、いつものポップさと奥行きを感じさせながら、いつもにはないゴージャス感で、彼女たちのファンとしては新しい一面を目にできてうれしい。この効果には間違いなく山本ゆいの装飾も関係しているだろう。サーカスのアクションを滑らかに彩る照明(中山奈美)も素晴らしい。このスケール感をリードした演出・野上絹代の力に驚く。
ただ、別役実の3作をひとつにした繋ぎが、ややぎこちなく、時折り時間の流れが停滞するのが残念。



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