キルギス通信Vol.19 2016年版 再発行
なんだか更新が滞っている昨今、頼みの綱はやはりキルギス通信の再発行です。
来週から日本出張が入ってますが(日本で欲しいものリストが長すぎて引くレベル…)、オーストリア帰国後は心機一転して、オーストリアの記事をちょこちょこ出していこうかと思います。
それでは、キルギス通信のPDFはこちら↓
КЫРГЫЗ(キルギス)通信~大草原の小さな国から~ 2016.2.29発行
小春日和の幸せ!
日差しが春らしくなってきて、夜も19時近くまで明るくなってきました。世界的な暖冬ではありましたが、やはりそれなりに寒かった冬。実は去年の夏に職場の近くに引っ越したのですが、新居にはアタプレーニヤ(集中暖房システム)がないという事態!!外気が時にはマイナス10度ほどにはなりましたが、なんとかこの冬を乗り越えました。
ただ、そのためにつけた(ついてしまった!?)皮下脂肪という名の防寒着をそろそろ脱がなくてはならないなと少し焦っております。
さて、今まで割とキルギスの明るい話題ばかりが多かったので、今回は実際にキルギスが直面している問題を特集します。(と言っても、多過ぎるのでほとんどを割愛させていただきますが…笑)
教育の構造的問題点
キルギスの教育はお世辞でも良いとは言えません。
教師が絶対的権力を誇示する押さえ込み教育で、考える事をさせません。また、教師の都合で授業がなくなるという、大人の事情に子どもが巻き込まれる典型。親もそのように育ったので、子どもの教育にはほぼ無関心。
ただし、ビシュケクの富裕層は、子どもを私立のトルコ学校や韓国学校に入れるので、教育格差も生まれ始めています。
高等教育に至っては、単位がお金で買えるとの話まであるほど。
ほとんどの生徒がなんとなく簡易的な法律か経済を学ぶため、専門知識も身に付かず、さらに理系が少ないため、国内のエンジニア不足も深刻になっています。
公務員である教師の給料もべらぼうに低く(新任で月給6,000円程度)、モチベーションがありません。これでは、教育の質が向上しないのもうなずけます。
強欲な医者と政治家の「先生たち」
医療制度も崩壊気味。
病院の診察は無料なのですが、しっかりと診察してもらうためには、医者にお金を払う必要があります。(ちなみにこれは袖の下)つまり、貧乏人は病気すらできないのです。また、最新技術や医療機器が外国から入ってくることが少ないので、病院はぼろぼろで、診察結果も信頼できず…。
風邪は全てインフルエンザと診断される始末…。また、先生もとにかくやる気が無く、電話しながら診察というのも「キルギスあるある」のひとつです。
そして、国の政を司る政治の腐敗も大きな問題です。
キルギス人が政治を揶揄する言葉に「キルギスの国民はお金持ち。国は貧乏」というものがあるほど、現在は国にお金がありません。
なぜ、お金がないのか。
それは、経済政策のミスもありますが、議員の先生方が賄賂によって食べ尽くしてしまったという見方が強まっています。
正統的な労働によって得られる賃金に限りがあること、そしてそこから脱出するために人々が賄賂や汚職に手を染めるという悪循環ならびに倫理観の欠如(しょうがないのかもしれませんが)が原因の一つと考えられます。
世界中の支援団体が、こういった状況を改善するために来ているのですが…
いやぁ改善は難しい!しかし、嘆いてばかりはいられないので、少しでも役に立つように、周りの人々に「公的なお金は宴会に使っちゃだめだよ!」と助言する日々です…。
コラム1 桃源郷が故に…
なぜ、キルギスは水も豊富で土地が豊かなのに問題が多いのでしょうか。それは彼らに向上心がないためだと私は考えています。
キルギスは、夏になれば作物に囲まれ、寒い冬も家畜がいるという桃源郷。生きるために工夫をしなくても生きて行けるのです。
もちろん、みんな、現状よりも良くなりたいと思っていますし、お金もあるだけ欲しいと思っています。しかし、人間は常に楽な方に逃げるもの。
「生きていることが幸せ。今の生活で十分」という考え方が人々の根幹にあるように見受けられます。(非常に良いことなのですが…)
コラム2 キルギスの台所
肉としゃがいも。まさにキルギスの心。「クールダック」
じゃがいもと羊肉を炒めただけの簡単な料理。しかし、屠ったばかりの羊で作るクールダックは日本人でもうなるほど。ただ…油の量には驚かされます。少し多めの1人前 220ソム~(400円ほど)。
コラム3 キルギスクイズ
キルギスの生活において切っても切れないものの中に停電と断水があります。特に冬は断水が多いのですが、それはなぜでしょうか?
1、雨が降らないので水不足
2、公共機関の資金が底をつく
3、水道管が凍る
コラム4 大草原のひとりごと
キルギスにおいて「死」というものは近くにあります。
それは家畜の屠殺などで「命をもらう」という行為を目にする機会が多いということ、そして厳しい自然環境のため、人間ですら「命が奪われる」ことが多かったためです。私も、キルギスで死というものを身近で感じる機会が増え、「生きる」ということが尊いことなのだとなんとなく感じるようになりました。
一度過ぎ去ってしまった日は戻ってこないけれども、明日なら変えられる!命が有る限り、やれることはやっていきたい。っと、明日に食べられてしまうかもしれない羊たちを見ながら思うのでした…。
メイリニズ!(それではまた!キル語)