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【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#15
五月も終盤に近づくに連れ、二十五度以上の夏日が続く。梅雨前の蒸し蒸しとした時節には、ついクーラーをつけたくもなるが、電気代が嵩むと両親に申し訳ないので、六月になるまでは我慢することにした。
三限の講義が終わった後、俺はまっすぐ下宿に帰った。部屋に戻る前、エントランスにある集合ポストの中を覗き、届いた郵便物を根こそぎ掻き出した。ガス点検のお知らせや広告チラシの類のほかに、A4サイズの封筒が入っていた。気になってその場で閲すると、この間受験した模擬試験の結果だとわかった。
それを自分の部屋まで持ち帰ると早速、俺は中身を見た。この結果で、俺の今までの努力が測れるに違いない。ただ、なんとなく、嫌な予感はしていた。俺はおずおずと、封筒の中で野に放たれることを虎視眈々と待ち望んでいるであろう、採点表を摘み出した。そして、ゆっくりと結果シートに目を通した。
俺の予感はなんと的中していた。すべての志望校がE判定。しかも、第三希望まで欄があるにもかかわらず、現時点での実力を勘案した結果、確実に受かるだろうと考えて適当に書いた大学でさえ、判定はEだったのだ。
俺は絶望に打ちひしがれ、崩折れるように、がっくりと座り込んだ。
今更こんなことを言ってもどうにもならないが、内心やはり少しだけ期待していたのだ。A判定とまではいかなくても、Bくらいの望みはあるのではないか、と。ただ、それも俺の自己満足的な夢想に過ぎなかったのかもしれない。
たしかに、俺は昼間大学へ通いながら、夜間にのみ勉強していた。浪人生や現役の受験生のように、決して生産的な時間の使い分けができるわけではない。それでも、俺なりに必死に勉強してきたはずだ。努力は必ず報われる、そう言われることもあるが、努力しても無理なものは無理だと諭されるような気がして、俺は失意には拍車がかかった。
ただの勉強不足か、単純に地頭が悪いのか。もはや、それすらわからなくなっている。
俺は、床に仰向けに寝転がった。真上にぶら下がるLEDライトが、いつも以上に激しく光って、俺の視界に焼けつくような残像を見せるように思われた。
誰も彼もが俺を嘲り、嗤笑しているように思えてくる。俺は萎れた草花のように、平臥した状態のまま起き上がる気力も失い、誰かが扶け起こしてくれればいいのにとすら思った。誰でもいい。誰か、俺に水をくれ。
◯
日が改まっても、俺の精神に蟠った煙のように暗い雲が晴れることはなかった。それどころか、次第に内面を黒く塗り潰してくるようだ。
現実に殴られ、下宿にただ一人で燻っていると、さらに頭に靄がかかってきて、何をする気も起きなくなる。
久しぶりに山科川でも見に行こうという気になったのは、正午を少し回ったころだった。水面の光の反射を眺め、川の声を鑑賞するうちに、心も少し安らぐかもしれない。
俺は部屋を飛び出し、エントランスに下りた。
ふと、ポストにチラシが溜まっているのを思い出し、中を覗いた。不要なチラシがたくさんあるのを確認し、まずはそれらを処分してからにしようと思い、ピザのメニューチラシや電化製品の宣伝の広告などを、一気にガサッと取り出した。それからその紙束を抱え、再びエレベーターに戻ろうとすると、煩雑に重なり合った紙の隙間から、一通の封筒が零れて俺の足元に落ちた。
それを拾い上げて、無意識に差出人の名前を確認する。祖母の春江さんからだった。そういえば葵祭の少し前に、春江さんに宛てて手紙を書き送っていたのだ。その返信が、いつの間にやら届いていたらしい。
俺は一旦、部屋に戻って中身を拝読することにした。
「お手紙をありがとう。ちゃんとお勉強を頑張っているのですね。こちらは何事もなくのんびりと暮らしております。昼間は私以外に誰もいないので、少し寂しいです。偶には帰っておいで。会いたいです」
たったこれだけの短い文だったが、達筆に書かれた癖のない文字は、幼いころからよく目にした春江さんのものだとすぐわかった。
俺は目指している大学に合格するまでは一度も実家には帰らないと決心し、この三月に実家を出た。だが、考えてみると春江さんは、去年まで以上に一人でいる時間が多くなったのだろう。ただでさえ、祖父がいなくなって侘しい思いをしているに違いない。俺の両親は、昼間は大学の授業やら研究やら忙しくしており、兄は大学院生で実家から通っているとはいえ、夜遅くまで帰らないことも多い。
静まり返った家内でただ一人、春江さんは居間のテレビをつけ、鷹揚自若でいるが、心の奥では孤独に浸っているかもしれない。
俺は心を決め、実家に帰ることにした。
昼過ぎ、JR山科駅から湖西線姫路行の新快速に乗って、そのまま高槻に向かった。実家の門をくぐるのはたったの二ヶ月半ぶりだったが、どこか懐かしく、夏草の野性的な匂いが庭先に満ちていた。
玄関を開けると、線香の香りが鼻尖にまとわりついてくる気配があった。二間先の仏間のほうから、誰かの起居するような音が聞こえる。耳を澄ますと、かすかに話し声もする。俺はとりあえず廊下を進み、開放された和室の中を覗いた。そこでは春江さんがいつものように、卓袱台越しにテレビを見ながら、湯呑みを啜っていた。玄関のほうまで聞こえてきた話し声は、テレビから発せられるものだった。
春江さんは即座に俺の気配を察し、静かにこちらを向いた。
俺は不意に照れくさくなった。そして「おばあちゃん、ただいま」という意味を込めて、こう言った。「ばばあ、帰ったぞ」
俺の顔を認めるなり、春江さんは目を細め、常住坐臥シワの多い顔をより一層しわくちゃにして笑った。
「あら、おかえり。いつ帰ったん」
「今着いたとこや。通帳、ちゃんと母ちゃんに見てもらっとるか」
「え、誰にも預けとらんよ。箪笥に仕舞いよる」
「去年とか、無意識に使い込んでいつの間にか残高なくなっとったやろ。あれから母ちゃんが定期的に工面してる言うとったぞ」
「そんな話じゃったかな……?」
春江さんは腑に落ちない様子で、首を傾げた。
「そうそう、今日は何曜日やったかいな?」
春江さんは急に話を転じた。
「火曜日」
「ああ、そうじゃった」
彼女は俺の返答に軽く相槌を打つと、また忙しく話を変える。
「いつまでおるん?」
「様子見に来ただけや。すぐ帰る」
俺はわざと素っ気なく返した。
帰郷に際しては、両親にも断っていないので、鉢合わせるのが嫌だった。両親が帰宅するまでには山科に戻りたかったので、休憩がてら、ついでに参考書などを必要な分だけ持って帰ろうと考えた。自室に行くと、リュックに教科書やポケット六法などを詰め込み、玄関に向かった。あくまで「参考書を取りに来たついでに顔を見せた」ふうを装いつつ、玄関で靴を履いている後ろから、春江さんが見送りに出てきた。
「あら、もう帰るん?」
「うん」
春江さんは名残惜しそうに、「そう」と切ない声で言った。
俺は振り向きざま、眉をハの字に曲げて露骨に悲しげな表情の春江さんと目が合った。
「大丈夫? 何かあったら、いつでも帰ってきてね」
心配する春江さんに対し、俺は無愛想に、大丈夫だと返した。
そして、「じゃあね、愛してるよ」という意味を込めて、
「じゃあな、ばばあ。あんまり無駄遣いすんなよ」
と言い残し、戸を締めた。我ながら、素直になれなさすぎるのが困りものである。この歳になって祖母に甘えっぱなしでは、面目が立たない。大人への第一歩として、親離れもとい祖母離れをすべきなのである。
下宿に帰ってきても、何をする気にもなれなかった。せっかく春江さんに会えたというのに、ろくな会話もできなかった。心配をかけまいと気丈に振る舞ったら、それはそれで、話すらまともにできなくなるらしい。自分のことながら、嫌気が差す。
俺は床に寝そべって、時間が流れるままに、目を閉じた。
やはり自分の思い描いた未来は、机上の空論でしかないのか。己の夢見た学生生活は夢として終わっていくのだろうか。
心から望んだことを現実にできない、現実とは無情だ。こんな人生に、意味はあるのか?ただ漫然と生きて、周囲の波に流されてばかりだった。今にして思えば、幼少期からそうだったのだろう。自分では意見を持たず、春江さんが行きたいところについていき、進路を決めなければならない岐路に立っても、親や兄の言い分に唯々諾々と従ってしまった。
こんなにも、自分が駄目なやつだと思いたくはなかった。だが、本当に俺は駄目なやつなんだろうか。何をするにしても、自分の主張は胸に秘め、一歩下がっては毎回後悔する。
否定されるのが怖かったからか? 敵を作りたくなかったからか? わからない。俺は、一体何がしたいのだろうか。誰か、教えてくれ。俺に道標を与えてくれ。俺を、暗晦の奈落から救い出してくれ……。
思考がぐるぐると迷走を始めんとしたとき、俺は生まれて初めての感情を抱いた。
こんな生活に意味などない。かといって、今さら変化を求めたところで、俺はその術を知らない。腹の奥から、溶岩のように突き上げてくる不快な感情が激した。
絶望的な将来が大口を開けて、俺を食い散らかそうと手ぐすね引いて待っているような気さえする。そんな最悪の未来へ抗議するために、俺にできることはひとつ。
……この肉体もろとも、人生と決別すればいいのだ。