【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#1
「君におすすめしたい場所があるんだよ」
これまでの会話の流れを切るように、何の脈絡もなく、明坂がいきなり言い出した。
「大宅廃寺っていうんだけど」
「なんだって?」
「お、お、や、け、は、い、じ」
明坂は妙な抑揚をつけて、繰り返した。
一限目の英語が定刻より早く終わって、まだ閑散としている第一館の廊下を、同じ教室で授業を受けていた明坂と一緒に歩いている。
彼は顔面に少年のような青臭さを残し、男子大学生の平均身長よりもやや低く、加えて顔立ちも幼いので、中学生だと言い張っても多くの大人を欺けるだろう、と俺は密かに思っている。卵のようなぷにぷにした触り心地の良さそうな頬も、彼が幼く見える要因ではないだろうか。あえて大学生らしい点を挙げるなら、短い散切り頭を明るいアッシュブラウンに染め上げているということくらいだ。
しかもこいつは口が軽く、口八丁でよく喋る。あまりにぺらぺらとうるさいものだから、間がな隙がな開いているその口に、ガムテープを巻いてやろうかと何度か考えたほどだ。
「君、遺産学科だろう? こういう何でもなさそうなところにある遺構に目を向けてみるのも、新しい発見をするチャンスかもしれないよ」
ただ無邪気に勧めてくれているのか、俺が仮面浪人生だからなのかは知らないが、明坂はそう続けた。
たしかに俺は歴史関係の学科に在籍し、文化財に興味はあるけれども、その「オオヤケハイジ」とやらがどんなものかがわからない。名前からして、「アルプスの少女ハイジ」と何かの関連性があるのだろうか。
「予定が空いてるなら、これから一緒にいてみない? 僕も五限までは暇だからね」
明坂がちゃっかり誘ってくるので、俺は内心辟易しながら返した。
「行かない。というか、どこにあるんだ?」
「坂を下ったところにある、中学校の門内だよ」
そんな彼からの返答よって、ますます所在があやふやになる。
「え、敷地内にあるの?」
「そうだよ。授業で聞かなかったのかい?」
「聞いたことないな……」
明坂は意外そうに眉を上げるが、実際に聞いたことがないのだから、そうとしか答えようがない。
とりあえず、「オオヤケハイジ」とは何だ? まるで都市伝説に登場する幻の遺跡みたいな、実際には存在せず、噂だけが独り歩きしている、といったようにも聞こえる。逆に、明坂は狙ってそんな物言いをしている可能性すらある。
「君はもっと、人の話に耳を傾けるべきだよ。せっかく貴重な講義を聞ける機会なのに。ありふれた内容に思えても、興味をそそる歴史の微粒子が存在するかもしれないからね」
明坂は、あたかも俺が教員の話を聞き漏らしたという前提の話を宣った。その言い方が気に食わなかったので、俺は思わず食い下がった。
「お前が何を知ってるんだ。だいたい俺が受けてる授業、ほとんど履修してないだろ」
「君の話しぶりを聞いてたらなんとなくわかるさ。どうせ今日も、参考書を買いに行くから行けない、なんて言い出すんだろう?」
「なんでわかる」
明坂の顔を見ると、「やっぱりね」とでも言いたげな顔で、白い歯を見せてニヤッと笑った。彼は笑うと、持ち前の子供っぽさがさらに浮き彫りになる。
「で、順調に進んでるの?」
「まあまあ、ってところだな」
「ご両親は?」
「是非も無し」
ははは、とわざとらしく、彼は声に出して笑った。静まり返った廊下に、明坂の声が木霊する。まだ授業が行われている教室の学生たちに聞かれていやしないかと、俺は少し焦って彼の腕を引っ張った。明坂も俺の不安を感知したのか、今度は小声で、こんなことを言い出した。
「だって君は、〝やってる感〟を出したいだけなんだろう。他人と違うことをやって、自分の優位性を見出すのに躍起になってるんだ」
「黙れ」
「仮面浪人なんて、能率的じゃないよ、全然。一年まるごと棒に振る気かい?」
「余計なお世話だ」
親切か、それとも注意喚起のつもりなのかは知らないが、俺にとって、大きなお世話であることに変わりはない。
突然、「仮面浪人なんてみっともない!」などと明坂が、廊下に響くくらいの声で言った。俺は内心ドキリとし、慌てて周囲を見回したが、幸い、誰かが近くを歩いている気配はない。
「まったく、君も強情だね。そんなにこの大学が嫌なら、今すぐにでも辞めて、浪人生活に専念すればいいのにさ。そっちのほうが、能率的だし、有意義だと思わない?」
「うるさいな。こっちにも事情があるんだ。というか、よく喋るなあ」
「僕には口がふたつ付いてるからね。顔と、君が愛してやまないオテテに」
「片方だけか? どうせなら、三つにしとけ」
などという与太話を二人で繰り広げているうち、通用口の前に来た。重厚なガラス扉をゆっくり外向きに押し開けると、生暖かい春風が流れ込み、静かに俺の頬を撫でた。実に春らしい、とろけそうな爽やかな陽気だった。
「大宅廃寺、行ってみない?」
第一館前の小広場を横切る途中、懲りずに明坂が誘ってきた。
「さっきからマジでわからないんだけど、どういうものなんだよ、それは」
「それをさっきから見に行こうと言ってるんじゃないか。君、歴史的価値のある建造物に惹かれて、遺産学科に入ったんだろう? このあと授業ないんだったら、いいじゃないか。僕ももう今日は帰るだけだからさ」
たしかに、俺は三・四限のゼミが学外授業の振替日のため休講であり、五限の講義までは特段予定がなかった。それでも、容易く承諾はできない。
そもそも、話を聞くに、存在自体がどうにも胡散臭い。あるかどうかもわからないものを探すことに時間を割くなど、馬鹿げている。そう思うが、それを直接言ったところで、明坂は大人しく引き下がらない気がする。
俺は若干肩を竦めながら、それらしい理由を添えて、断る方向に針路をとった。
「あの……今日は別に寄るところあるから」
「へえ。じゃあ、いいや」
明らかに嘘だとわかる口調で突っ撥ねてしまったものの、思いのほか、彼はあっさり納得してくれた。
「君だったら、ちょっとは興味持ってくれると思ったのになぁ。ちぇっ」
最後の「ちぇっ」が微妙に気に入らなかったが、俺は何も言わず歩を進めた。どうせ、「面倒くさいんだろうな」と思われたのは間違いないから。
俺と明坂は、入学課や学生本部のある管理棟脇の階段を上った。そこを上がりきると、キャンパス中央広場の前に出る。そのまま管理棟の壁に沿って左手に歩いていけば、山科駅直通のバスが出ている停留所がある。
バス停の前で足を止めると、そこで明坂と別れた。
明坂は「じゃあ、また明日ね」と陽気に笑い、こちらに手を振った。しかし駆け出した直後、急に足を止めたかと思うと、また振り返り、言い忘れていたことがあるといった顔で俺を見た。
「日本語表現のクラスにね、すっごくきれいな手をした子がいたんだよ。今度、紹介してあげようか?」
「いらん!」
相手が言い終わらないうちに、俺はぶっきらぼうに応じた。すると明坂はまたくるりと身を翻し、何も言わず、正面の通用門から学外に駆け出ていった。
本人いわく、大学から徒歩五分圏内のところにあるアパートに下宿しているというが、俺はまだ明坂の住所を知らなかった。
それから数分も経つと、一限目が終わってこれから帰宅すると思しき学生たちが、俺の後ろに徐々に列を作り始める。さらに数分後、到着したバスに乗って俺も一時帰宅した。
明坂が話していた遺跡(?)に行ってみようかなと思い始めたのは、翌日になってからだ。
続く