【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#5
学生会館正面の教務棟の前には、帰宅学生による蜿蜿長蛇の列ができている。それを見て俺は、食堂でわざわざ時間潰しなどする意味のなかったことを知った。
俺は、腹の底から湧き上がる私憤を燃やし、列に並んだ。明坂の誘いを断っておけば、あと三十分ははやく帰宅できたのに、と嗟嘆しながら。
学生たちの行列は、少しずつゆっくり前に進む。本当に「少しずつ」進むのだ。
四限終わりは山科直行の便も多く、五分間隔くらいで直通バスが運行しているのだが、一向に前進しない。その原因は、ほとんど毎日乗っているから自然とわかってしまった。
座席が埋まり、それを見かねた学生が、次の便までバスを見送るのだ。後方の学生が足止めを食らっていようとお構いなく、次にバスが来るまで、時刻表の前に立っている。座れなくても先に帰りたいやつだけ乗ればいい、というスタイルなのだ。いつも思うのだが、どんだけ座って帰りたいんだよ。
列は、蟻のようにちまちまと前進する、バス待ちの列に内心辟易しつつ、ようやく停留所の標識が見えてきたとき、いきなり背後から肩を叩かれた。
「ちょっと、いいですか?」
それとほとんど同時に、耳元から、囁くように爽やかな声が聞こえた。
若干躊躇ったものの、俺は声の主のほうを振り向いた。
どこかで見覚えのある顔。それも、直近で見たような気がする。その既視感の正体は、すぐに解消した。
今日の昼過ぎ、「大宅廃寺跡」の石碑の前で宇宙的邂逅を果たした、神の手――「ゴッド・ハンド」を享有する女性。蓮実さんだったのだ。
蓮実さんは、邪気とは無縁ともいうべき、純粋な微笑を口許に湛え、「また会いましたね」と言った。「今からバスで帰るの?」
先程の明坂と全く同じ質問をされたが、彼とは違い、俺を小馬鹿にするような調子はない。
「そうっすね、まだ時間かかりそうですけど」
「もし歩きでよかったら、一緒に帰らない?」
やにわにそんな誘いを受けたものだから、俺はやや顔をしかめた。ただ、とっさに「はい」と答えていたのは、自分でも驚いた。
それでも、後悔というのはあまり感じなかった。どう考えてもバスで帰ったほうが帰宅時間は早まるが、知らない学生どもの波に押し合いへし合いされて満員車両に詰め込まれるくらいなら、彼女と一緒に帰ったほうがまだ能率的だという気もした。
俺と蓮実さんは列を抜け出し、通用門から構外へ抜けて坂を下り始めた。
蓮実さんは自転車で来たと言うので、駐車場からE棟の前を通って体育館の裏へ回り、駐輪場で彼女は自転車を回収した。
自転車を押しながら再びキャンパス外に出て、悠然と歩く彼女の隣を、俺も歩いた。
「そういえば、手フェチくんって、学科はどこだっけ?」
それまでは怖いくらいに無言だった彼女が、何を思ったのか、急にそんな質問を俺に投げかけてきて、戸惑った。
「すっかり定着してないですか、その呼び方」
「ふふ、嫌かな? でも面白いでしょ?」
小悪魔的な上目遣いでこちらに目線を合わせてくる彼女に、俺は得体のしれない剣呑な気配を感じた。
若干困惑したけれども、事実、悪くないとも思えた。同世代の女性に初めてつけられた渾名が「手フェチ」というのもどうかと思うが。
蓮実さんも、俺の反応から、満更でもないことを感知したのか、安堵したように微笑した。
「それで、学科はどこ?」
「遺産学科です」
「へえ。じゃあ、歴史が好きなの?」
「まあまあ、ですかね……ほかに興味のある学科もなかったんで」
彼女はくすっと笑い、
「べつに敬語じゃなくていいよ」と言い添えた。
しかし、俺は違和感を拭えなかった。
「だって、あなた、二回生でしょ?」
「私、学年とかそういう括りで喋るの、あんまり得意じゃないんだよね」
そう言いつつ、彼女は、後ろに遠ざかりつつある大学のキャンパスに、やや哀愁に沈んだ視線を向ける。その理由を尋ねようか一瞬迷ったが、なんとなく、踏み入ってはいけないような気配が俺を引き止めた。
代わりに、東京からなぜ京都の大学に来たのか、という、些細なことを訊いた。その質問に対し、蓮実さんは「京都の歴史が好きだから」とハキハキ答えた。
それから、いくらか取り留めもない応酬を続けるうちに、俺からはすっかり敬語が抜けていた。あまりに互いの会話が違和感なく成立しているので、同級生だと錯覚してしまうほどだ。
気がつくと、蓮実さんの自宅の前まで来ていた。
彼女が起居しているアパートは、名神高速道路の高架をくぐって大宅甲ノ辻町に入り、南西に歩いて公園を抜けた先の向かいの一角にあった。築年数がそれほど経過していないためか、小奇麗な三階建ての学生アパートで、白壁の外装や、ベランダの窓ガラスがやや強めの西日によって照らされ、燦然と光を乱反射させている。
「それじゃあ、俺はここで」
俺は軽く挨拶して、踵を返そうとしたが、ふいに彼女に呼び止められた。
「待って」
言い忘れていることでもあるのかと、俺は気になって振り向いた。
相手は、食い入るような視線をこちらに向けている。そうして、何か気に障るようなことを言ってしまったかと不安になる俺を憚るように、彼女は相好を崩すと、つけ加えた。
「せっかくここまで来たんだから、上がっていってよ」
俺は一瞬、その言葉の意味を測りかねた。
成り行きで自宅の前まで来てしまった時点で少し後悔し、そそくさと退散しようとしたのだが、これまた成り行きで中に上がれなど、思ってもみなかった。
同じ大学の学生とはいえ、知り合ったばかりの相手を? しかも異性を? 危機感は?
色々な思いが錯綜してまごつく俺に、彼女はまたもや笑いかける。
蓮実さんは電気錠の操作盤にカードキーをかざして、オートロックを解除した。自動ドアがおもむろに開くと、
「どうぞ」
と、俺を中へ案内する素振りを見せる。
いまだ舗道に取り残され、ぽかんとしている俺に向かって、彼女は手招きする。そこで完全に、俺は断るタイミングを逸したような気持ちになった。
多少強引な彼女の挙動に初めは当惑していたものの、彼女の優しい微笑もさることながら、彼女の全身から溢れ出る不思議な魔力によって、俺の身体は曳航される難破船のように動き、無意識にアパートのほうへ歩みを進めていた。
玄関扉をくぐると、すぐ右手にエレベーターがあり、そこから二人で三階に上がった。エレベーターを降りると、LEDランタンが一定間隔で吊るされた白い壁が続き、廊下を挟んで真向かいに1〜6の部屋の扉が連なっている。彼女の部屋は、奥から二番目だった。
部屋へ通されると、俺は室内を見て驚嘆した。俺の下宿しているワンルームと比べてかなり広く、一般的な2LDKとさほど変わらないんじゃないかとすら思えるほどである。
中央には可愛らしい白色の丸テーブルが置かれてあり、傍らのクッションのところに座って待っているようにと彼女は言い残し、キッチンに行ってしまった。
俺は言われた通り、クッションの上に腰を下ろし、彼女が戻るのを待つまでの間、部屋の中をぐるりと見回した。改めて冷静になると、どうしてこんな状況になっているのか皆目検討もつかないが、もちろん、もう後には引き返せない。
都合がいいやつと思われても癪なので、我が身の沽券のために一応弁明しておくと、なにも好き好んで俺がこういう展開を希望したのではない。完全に、ただの成り行きというやつだ。
蓮実さんの目が殊勝に訴えかけてきて、断りづらかったというのも理由のひとつだが、あの流れに抗するというのは、自然の摂理に抗することと同等なのである。まるで、見えない何か「特別な力」によって誘引されているようで、それに抗うことは、俺には困難に思われた。
十分ほど経過したころ、彼女がようやくテーブルのところまで静々と戻ってきた。俺の向かい側に膝をつき、紅茶を淹れたティーカップを俺の前に置いた。そこから立ち上る甘ったるい茶葉の香りが、鼻を突く。
「……どうも」
俺はペコリと軽く頭を下げ、溢れないように両手でティーカップを持ち上げた。ゆっくりと口に運んだが、間近に視線を感じて、すぐに口から離した。
あまり味はしなかった。緊張から味覚が麻痺しているのか、本当に味がなかったのかは知らないが、このときの俺にとって、そこは問題ではない。
出会った当日に、厚かましくも異性の部屋を訪れたかと思えば、視線を向けられながら紅茶を飲む。この天国か地獄かと問われれば、どちらかというと地獄のような時間に、一体どんな意味があるのか? ……ということのほうが、俺には重要だった。
「急に誘ってごめんね? でも、あのまま別れるのは勿体ない気がしたの」
蓮実さんはゆっくりと座り直し、一言釈明してから、話を続けた。
「君はどんなことを遺産学科で勉強してるの?」
何がそこまで彼女の好奇心を刺激しているのか、俺にはわかりかねたが、とりあえず、口で説明するよりは現物を見せたほうが楽だと思った。
俺は脇に置いた自分のリュックを開けて、中を物色した。そこから、シラバスに参考文献と記載され、先日生協の購買で買ったにもかかわらず、まだ一度も授業で開いたことのない書籍――『歴史学入門』を取り出し、彼女に手渡した。
彼女はパラパラとページを繰り、興味ありげに目を細めた。
「へえ、楽しそう」
このあまりにも単純な感想は、俺の張り詰めた気をいくらか軽くした。俺は紅茶に再び手を出し、それをちびちびと飲みながら、読史する蓮実さんを眺めた。
「私、一人暮らしだから、よく誰かを呼びたくなるんだよね」
蓮実さんは、開いた「歴史学入門」に視線を落としながら、ふいに言った。
「それはそれは……。だけど、誰彼構わず呼ぶのはやめたほうがいいと思うぞ。勘違い野郎がストーカーの対象にするからな」
そう言った俺を、蓮実さんは視線を上げてちらと見た。そこで、思わず余計なことを口走ってしまったことを猛省し、急いで弁疏の言葉を探した。
「あ。いや……俺じゃなくって、そういうやつがいるかもしれないから、気をつけたほうがいいよってことが……」
こいつは何を言っているんだ、と自分に内心で苦言を呈したが、彼女は特に気にする素振りもなく、視線をまた本に戻していた。
ひとまず俺は安堵したが、急に彼女の顔が見られなくなってしまい、代わりに彼女の手元に目線を合わせた。
見れば見るほど、惹き込まれてしまうような艷やかな前腕。爪の形状といい、手首から肘にかけて肌理細やかに滑るその線もさることながら、微妙に汗ばんで、反射が彼女の動きに迎合するかのごとく、躍動する白い腕。それが、何とも言えない色気を湛えて見える。部屋中の光を一点に凝縮させたような、艶麗の化身である。
その時に、ふと、彼女の視線が本以外の方向に向いているのが気になった。
「どうしたの?」
俺が尋ねると、彼女は俺のリュックを指さし、
「それは?」
と訊き返した。何があるのかわからず、俺もそちらに目を向ける。
開いたままになっている俺のリュックから、参考書の一部がはみ出していた。それは、俺が切望してやまない大学の過去問題集――いわゆる「赤本」だった。俺がいつも持ち歩いているもので、今日も時間さえあれば、授業の合間にでも開こうと鞄に入れていた。それをたった今思い出したのだ。
「それって、赤本?」
相手の興味は、瞬く間に「歴史学入門」から離れ、鞄の中でのべつ幕なし出番をうかがっていた、過去問本に向けられている。
俺は焦って、弁解しようとした。とっさに浮かんだ言い訳は、「これは兄が昔使っていた参考書で、下宿先に持ってきてそのまま置き忘れていったから、今日返そうと思って持っていた」というものだった。だが、それを言う前に、彼女から、とんでもない発言を俺は聞いた。
「もしかして、君は仮面浪人してるの?」
恐るべき推察力。しかし、赤本を所持しているからといって必ずしも仮面浪人しているとは限らないので、単なる邪推という可能性も否めない。……いや、当たっているけれども。
俺は彼女の目を見ず、急いでリュックを閉める、体裁を繕いつつ立ち上がった。
「今日はありがとう、楽しかったよ」
軽く礼を述べて、逃げるように辞去した。
彼女の引き止める声が聞こえたような気もしたが、俺は急いで玄関の扉を閉め、一息ついてからエレベーターに乗った。
時間が経って、冷静に立ち返って思い返せば、かなり不自然な去り方だったに違いない。
過去問を見ただけで俺を仮面浪人生だと見抜いた彼女の眼識、推理力、直感……何が正解かは判断できないけれども、ひとつだけ弁明させていただくなら、俺も好き好んでこんな生活に身を委ねているわけではないのだ。
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