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【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#3
一限目の民俗学の講義を、俺は夢うつつに聞いていた。昨晩は夜三時過ぎまで過去問題集と睨めっこしていたため、十分な睡眠が取れなかったのだ。教授の長ったらしい論説をうつらうつらしながら聴講していると、不意に「オオヤケハイジ」という言葉が聞こえた気がして、俺ははっと目を開けた。
昨日、明坂がそんな名前の遺跡の話をしていた。もしかするとここで詳細が聞けるのではないか、という若干の期待が膨らみ始め、眠気という奈落の底に沈みかけていた俺の意識は、一気に覚醒した。
しかし、講義内容から逸脱していたためか、教授はすぐに本題の地域の祭りに話を戻した。
結局、仔細はわからなかった。少しだが期待した分、もやもやとした気分が、今度は俺から眠気を奪った。
いったいそれは何なのか。本当に実在するなら、どういった遺構なのか。興味がなかったはずが、気がつくとそればかり考えてしまっている。
一限目が終わるとすぐ、俺は「オオヤケハイジ」とやらを探しに行くことに決めた。午後には二コマ続けて授業が入っていたが、幸い二限目は予定がなかった。
俺は構外へ出た。通用門を出るときに、ちょうど一限目を終えたのか、画板を携えた上回生たちとすれ違った。大学の北にある、岩屋神社で測量の実習があったらしい。
「坂下の公立中学の付近にある」という明坂のたったひとつのヒントを頼りに、俺は門を出ると南西に伸びる坂を下り、名神高速道路の高架沿いにしばらく歩いた。五分ほど進むと、車やバスが往来に突き当たった。この府道近くに、例の中学校があるはずである。
府道沿いをしばらく彷徨っていると、とある中学校の校名がフェンスに掲げられているのを見つけた。そこの塀に沿ってアスファルトの路地が伸びているので、俺はそこへ吸い寄せられるようにして、坂を上がっていった。右手には畑が見え、奥に中学校の校舎らしい建物が見え始めた。しかし、その周辺をぐるりと見回しても、それらしき史跡はどこにもありはしない。
……どこにもないじゃないか。明坂に弄ばれたのか?
などと考え出すと、次第に怒りが湧いてきた。すると、校門のすぐそばに、一輪の自転車が駐めてあるのが目についた。スタンドが下がっただけで鍵はかけられていないところを見ると、誰かが一時的にここへ置いたのだろうか。
俺は不審に思って門の向こうに視線を移すと、中に花壇のような段差があり、その前に誰かが立っている。こちらに背を向けているが、腰上まである長い黒髪を見るに、女性のようである。四月下旬にしてはまだ肌寒そうなノースリーブを着ており、まるで彫刻のように固まってその場を動かない。ただじっと花壇を眺めているように見える。風が北から吹き抜けると、ふわっとその髪が持ち上がった。
あまりにも非日常な光景すぎて、俺は目を奪われ、その様子に無意識に魅入ってしまっていた。そのためか、相手の反応に気づくのが遅れてしまった。その人は何の予兆もなく、いきなりこちらを振り返ったのだ。
俺はどうすることもできず、相手と目が合ってしまった。それと同時に、既視感に目を細めた。つい最近、これと似た出来事があった気がする。
あれはたしか二日前だった。山科川に架かる小橋の上から川面を眺めていたとき、どこからともなく歩いてきた一人の女性と、目が合ったのだ。
年恰好、身なりがあの人と妙に似通っている気がした。が、あのときの俺には相手の顔を正視する余裕などなかった。
目の前にいる彼女は俺を見て、にこりと優しげな笑みを浮かべた。
「こんにちは」
と、何の疑念も抱いていないように、俺に挨拶をしてくる。
どこの誰かもわからない相手に対し、屈託なく声をかけるという精神は俺の理解の範疇を超える。
返事をすべきかもわからないまま、「あ……えっと……」と俺はしどろもどろになる。
彼女は何者なのだろう。中学校の職員か、それにしては若すぎる。風姿から察するに、年齢は二十前後といった感じに見える。
「あ、ごめんなさい。びっくりさせちゃったよね?」
はにかむように、彼女は顔をやや紅潮させる。
俺も半無意識的に、彼女から視線をそらせた。そしてそのまま、俺の視線は無意識に、彼女の手へと移行する。
ノースリーブから露出した手は、色白いが健康的で、日光を浴びて淡く光って見える。それがなんともいえず神々しく、高潔極まる手だった。
肩から二の腕にかけて美しい流線形で、爪の形状もよく、十本の細い指は、重力に逆らわないことが至高の美徳と主張するように、付け根から地面へ向かって、だらりと気怠げに垂れ下がっている。それでいて時折、しきりにショートスカートの裾をつかもうとするように小刻みに揺れ、それが駄々をこねる子供を見ているようで、どこか愛らしくもあった。
彼女の腕から指先への、完璧な線に俺は驚かされた。
有り体に言うと全く非の打ち所のない――まさしく、「ゴッド・ハンド」と呼びに相応しい手、俺が長年追い求めてきたものにやっと出会えた心地がした。
昔、実家の隣に住んでいたお姉さんの手を百とするなら、彼女の「手偏差値」は百二十だった。それほどにその手は俺の心を打ち、それはまるで「完成された神の手」にほかならなかった。
ただ視線を下へ向けたまま呆然としている俺に、彼女が声をかけた。
「あの……どうしました?」
その妙にたどたどしい声にはっとして、
「いえ、何でもないです」
とすぐに俺は顔を上げ、平静を装って少し笑ってみせた。
不自然な笑いになっていないか、かえって不安になったが、彼女も優しく微笑んだので、俺は内心安堵の息をついた。
しかしその安心も束の間、次に彼女は俺に向けてこんな質問を発した。
「君は、手フェチなの?」
そう言われた瞬間、俺の頭は真っ白になった。脳に電撃を食らったように、脳内回路が乱れていく感じがした。無理に作った笑顔が、どんどん引きつってゆく。その光景が、瞼の裏にありありと浮かんだ。
「えっ、えっ……?」
「だって、今さっき、私の手ばかり見てたでしょう?」
ものすごい観察眼だ。
いや、たしかに視線の位置といい、間といい、気づかれても別段おかしくはない、かもしれない。それにしても、一瞬で見抜かれるとは思いもしなかった。鋭敏な彼女の観察力に脱帽するしかない。
それでも俺はなんとか誤魔化す方法を、必死に考えた。ただの悪あがきだったが。
「と、ところで。このあたりに、〝オオヤケハイジ〟っていうのがあるって聞いたんですけど、知りません?」
ここに来た諸悪の根源の在処を尋ねることでお茶を濁そうとしたのだが、彼女はますます怪訝な様子で、きょとん、と俺を見つめる。
内心冷や汗が止まらない。急にこんなことを訊かれても、困ってしまうのは無理もない。
俺は詳しく説明しようとしたが、その前に彼女は目線を自分のすぐ後ろへやった。
「それなら、ここにありますよ」
今度は、俺の頭にハテナマークが浮かんだ。
彼女の背後に目を向けると、花壇かと思われた段差に石柱が立ち、その横に石碑らしいパネルがある。石柱には黒い筆文字が刻まれ、よく目を凝らすと、「大宅廃寺跡」という文字が見えた。
そこで俺は、ようやく腑に落ちる。べつに某アルプスの牧場物語とは何も関連性がなかったのだ、と。
言われてみれば、そりゃそうだと言わざるを得ない。こんな辺鄙な郊外の史跡と、有名児童文学に何の関わりがあるというのだ。我ながらひどい勘違いをしていた。
「もしかして、君もここに興味を惹かれて? 私もたまたま大学の講義で聞いて、気になったから探しに来ちゃった」
彼女は腰を屈め、石碑をまじまじと眺め始める。
俺は妙に得心した気分になった。明坂が「中学校の門内にある」とは言っていたが、まさか俺も学校の敷地にあるとは思わなかった。
そのとき、ここは中学校の敷地内ではないかという事実に思い至って、俺は門外から彼女に呼びかけた。
「何してるんですか。そこ、学校の敷地ですよ。不法侵入になっちゃいます」
それを聞いて、彼女はまたこちらへ振り向くと、かすかに笑ったように見えた。
そうして悠然たる足取りで、俺がいるところまで歩いてくる。特に走ってくるわけでもなく、余裕をかました足の運びは、かなり肝っ玉が座っているなと俺に思わせた。校舎の窓から、生徒に見られているかもしれないのに。最悪の場合、通報されてもおかしくないことをやっているのだ。
のちのち話を聞くと、彼女は俺と同じ大学に通う、心理学部の二回生だということがわかった。
これから登学するといい、大学に戻るつもりなら一緒にどうかと誘われたので、特に断る理由もなく、俺は同行することにした。主に、運命的、否、宇宙的邂逅の記念として。
彼女は自転車を押しながら、塀に沿って歩を進めていく。俺もその隣を歩きながら、周りの景色に目を配っていた。
右手には、緑の生い茂った畑の朴訥とした田園風景が広がっている。
歩きながら彼女は、出会って間もない俺に、近況の話をし始めた。
三限目に一回生が対象の日本語表現の授業があり、自己紹介を考えていかなければならないのに、自分のいいところがわからない、というのだ。
「なんで先輩が、一回生の授業を履修してるんですか」
「去年、単位落としちゃって。必修の授業だから、今年こそは取らないといけないの」
心なしか、その声色はなぜか嬉しそうだった。
ただ、俺もその話を聞いて、他人事ではない気がしてきた。浪人生活にかまけて、単位を落とした挙句に受験でも失敗したら、もはや絶望しか残らない。
「それだけど、どうしたらいいと思う?」
彼女はそう言うとやや上目遣いに、視線を俺に向けてくる。しかし、何が「どうしたら」なのかわからず、俺は尋ね返した。
「どうしたらって、どういうことですか?」
「自己紹介。ほんっとに何も思いつかなくて……」
「知りませんよ、そんなこと言われても。俺、先輩と今日初めて会ったんで、全然知らないんで」
アドバイスをもらおうという魂胆なのだろうが、実際に彼女とは数分前に知り合ったばかりなのだ。とはいっても、ここで拒否して終わるのは、もったいない。いや、申し訳ない。
「……まあ、すぐ見つかると思いますよ。もしわからないなら、近くの人にきいてみるのは? 友達とか」
俺の助言に、彼女は「うーん」と唸り、顔を上向けた。
「そうしてみようかなぁ」
小さい子が親に甘えるような語調で、彼女は呟いた。そして顔を俺に向け、頬に温和な笑みを浮かべる。白い歯がわずかに覗いた。
「じゃあ、手フェチくんも頑張ってね」
そう付け加えられ、俺はゾワッとした。いきなり変なあだ名で呼ばれたことに、ゾワッとしたのだ。しかも、何を「頑張れ」なのかもよくわからない。
「なんすか、その呼び方は」
「だって、さっき私の手、じろじろ見てたじゃない?」
返す言葉もなかった。彼女の手に見惚れていたのは、事実にほかならないからだ。
「ねえ。私の手、きれい?」
彼女は握っていたハンドルから片手を離すと、わざとらしく、くるくると繰り返し掌を裏返しながら、俺の眼前に近づけてきた。俺はその間、必死に目を背け、無言で歩いた。
飽きたのか、彼女は手を引っ込め、再び両手で自転車のハンドルを掴んだ。
「面白いねえ、君」
と彼女は笑うが、俺自身は何も面白くなかった。
その後も、彼女は自分の身元のことなどを話し出した。
彼女は蓮実さんといって、東京で生まれ育ったらしい。なぜ、急に自分の出生について語り出したかは不明だったが、家庭の事情で中学・高校時代は愛媛県宇和島市の父の実家で、祖父母と一緒に暮らしていた、ということまで話してくれた。
そんな話を聞いているうちに、大学の杏色の建物が近づいてきた。やがて裏門が見えてくる。
周りは田畑や古い民家に囲まれ、テントのような掘っ立て小屋の前には、荷台に木材が積まれた一台の軽トラックが停車している。「丸井工房」と看板には書かれているが、正直、何を作っているところなのかわからない。
「じゃあ、私、これから用事あるから。またどこかで!」
蓮実さんはそう言い置くと、急に足を速め、自転車を押したまま裏門から大学構内へ駆け込んでいった。
「あ、あの!」
俺はとっさに呼び止めたが、彼女はちらりとこちらを振り向き、にっこりと笑顔で応酬するだけで、戻ってくることはなかった。
彼女が駆け去ると、舗道の真ん中に取り残された俺はしばらくの間、呆然としていた。
あの時間は、いったい、何だったのだろう。あの人は、なぜ、俺にあんな話を聞かせたのだろう。そんな疑問がもやもやと積乱雲のように、俺の脳裏に翳を落とした。