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ミヤジ・オルディアの優しさの根源について

『一一だから私は医者になることで…。
   失うものの多い世界で…。
   せめて命だけは…。
   誰もが当然のように、持っていられるようにしたかったんだ。
   (「悪魔執事と黒い猫」ミヤジ・オルディアのホーム会話より)』

 「ミヤジ・オルディア」という執事の魅力を一言で表すとしたら、何であろうか。
 「優しさ」、「穏やかさ」、「大人の落ち着き」、その中に燃える「傷つけさせまいとするものを命を賭して守る強さ」……。彼に惹かれた主様の数だけその答えがあるだろう。
 私自身は、彼の声に惹かれてから、その「穏やかな優しさ」の虜になった人間だ。
 ただ、彼の持つ「穏やかさ」と「優しさ」の根源とは何なのか、と疑問に思う。何せ、彼を長く知る人物にこそ、「頑固」や「強情」のレッテルを貼られる執事である。
 そこで少し、「ミヤジ・オルディアの持つ優しさの根源」について考えてみようと思い至った。
 この文章の中には、あくねこメインストーリーエピソード3、ミヤジの執事ストーリー「救ってくれた男」、3thアニバーサリーイベントに関するネタバレが含まれる。ご了承いただきたい。

悲哀の執事


 ミヤジ・オルディアとは、「悲哀の執事」である。
 この称号は、彼の初登場エピソード、メインストーリーエピソード1、2部29話のタイトルとなっているものだ。
 メインストーリーエピソード1、前半の目的は「13人いる執事の紹介」で、ミヤジは貴族間の舞踏会でトラブルを起こした破天荒なラト・バッカを制御すべく登場する。
 因みに、他の執事が登場する話のタイトルは、ボスキだと「義手の執事」、アモンは「薔薇の執事」、ナックだと「会計の執事」……と、その外見の特徴や、担っている役割がタイトルになるパターンが多い。
 それに比べて、「悲哀の執事」はなんと言うか、曖昧な表現だ。そして、ストーリーの中で悲哀に満ちた様を見せるのかと言えば、そういうわけでもない。
 「令嬢にしつこく声をかけた肥えた無礼な貴族をどうして消してはいけないのか」という疑問を呈するラトに対し、時にその主張を受け止めつつ、貴族を害した場合、自分達に降りかかるデメリットを挙げてラトを落ち着かせる。
 このシーンから見えるミヤジ・オルディアの特性は、地下執事のリーダー的存在であり、他の執事より落ち着きがあり、「狂気な執事」と称されたラトの扱いに長けている、という人間像だ。「ここで貴族に害を成しては自分達は共に暮らせなくなるかもしれないがそれでも良いのか」というマイナス点に目を向ける部分に、若干の憂いが見て取れないこともない。しかし、あくまでこの提案は、未だごく狭い自分の周囲にしか目を向けられないラトに対しては有効な説得方法だろう。飽くまで、「ラトを説得するという名目で」挙げた例として捉える方が納得がいく。
 では、なぜ彼を表現するのは「長身の執事」や他の言葉ではなく、「悲哀の執事」だったのか。それは、彼が常に悲しく哀れな状態であるからではないか。そう仮定して、ここから先、そのキャラクター性を深掘りしていきたい。

沈み切った地下執事室室長


 担当執事をミヤジにした際、彼の口から語られる言葉の傾向に「私は私が嫌いだ」というものがある。
 その自己嫌悪的傾向はどうやら筋金入りのようで、自分の命に価値を見出せない、とさえ口にすることもある。その言葉は、悪魔執事の「主」との付き合いによって、「こんな自分だが今は主様ともっと生きたいと感じている」という方向へ変化が見られるが、自己嫌悪的気質の変化に関しては、あまり変化が見られないように思う。
 医者時代、全ての命を手放せない姿に周囲から真面目すぎる、と投げかけられた言葉の棘、それを抜いてくれたルカスに対し、300年近くに渡り冷たい態度を取り続けた自分への呆れと嫌悪感、15歳にも満たない少年だった悪魔執事を犠牲に生き残ってしまった自分への怒り。そう言った、「他者の命を救えなかった自分の命への怒りや罪の意識」を常に抱えているのだろう、と推測される。
 ミヤジは、最も忌み嫌う「自分」という人間から離れることも叶わず、常に共にいきている状態だ。
 そして、3周年イベントのストーリーで明かされたことだが、ミヤジは戦争によって故郷を失くしている。そのことを、彼自身は若い頃から各地を転々としていたから、という理由であまり気にしていない、と言うが、彼が生きた2000年を超える年月の中、眺めた地図に、彼の生まれた地の名前が無い、という情景を想像すれば、彼の空虚さの始まりはそこからではないか、と感じることができる。
 更に、戦争の多発する南の大地で医者として生き、幾つもの命を見送り、悪魔執事になってからも自分より後に悪魔執事となった後輩達を見送ってきたのだろう。
 これはベリアンやルカスにも言えることだが、老化が止まった悪魔執事として、天使から人類を護るべく戦い、「永く生きる」ということは、戦いの中、命を落とす他の仲間を何人見送るか、ということでもあるのだ。
 その中でもミヤジは、悪魔執事になる前から命を見送り続けている。ミヤジは、根っからのサバイバーズ・ギルトだ。生き残ってしまった罪悪感が、彼の認知を「自分は生きていてはならない」と歪める。ミヤジにとって、ミヤジ自身の命は、死者の分重く、そしてある意味で生者の分も重い。
 その「生者の分の重さ」の部分に関しては、メインストーリーエピソード3、5章18話の、過去行われたラトとのやりとりから感じることができるだろう。
 「自分のことを大切にしてくれるか、自分のために死んでくれるか」というラトからの唐突な問いに、ミヤジは戸惑いつつも、躊躇いなく「ああ、死ねるよ」と答えた。
 このやりとりを、「ミヤジは簡単に他人に命を託す、彼は自分の命を軽く見ている」と解釈することも可能かもしれない。しかし、私は寧ろ、「心から大切にしているラトに命を預ける行為は、ラトの命にミヤジ自身の命を加算し、命の重みをつける行為だ」と感じた。
 ミヤジ・オルディアはなぜ、多くの者を見送りながらも生きていけるのだろうか。自分の命に価値を感じないと言いながら、どうやって生き続けることを選んできたのか。私はここに、ラトやフルーレという擬似家族の存在が大きく関わってくるのではないか、と推察する。殊にラトの存在が、ミヤジにとっての一種の「生きる理由」になっていた可能性が大きい。
 デビルズパレスにやってきた頃は、誰のことも信頼せず、近付く者全てに噛み付く勢いにあったラト。そんな彼の心を開き、庇護することは、ミヤジに生きる理由を与えた。傷つけられ、拒絶されてもラトの信頼を勝ち得ること、そして、傷付いたラトを心身共に「治す」ことは、元々医師であるミヤジにとっては生き甲斐であったのではないだろうか。
 ラトとミヤジの関係を一見すると、ラトがミヤジに依存しているように見える。しかし、真相はミヤジがラトを無意識のうちに、或いは当時のラトの荒れ具合を考え、仕方なく、「依存させた」、そしてミヤジもラトを守り、彼を矯正するという行為に「依存している」、つまりこの二人は共依存の関係にあるのではないだろうか。
 つまり、ミヤジの「優しさ」は「依存させること」にあるのかもしれない。
 時々考える。ラトの心を開いたのが、ミヤジ以外の誰かであった場合、ラトはどのようになっていたのだろうか。

ミヤジと三階。


 唐突だが、三階執事の話をしたい。ルカスとナック、ラムリの「自己肯定感の高さ」の話だ。
 一言で言うと、彼らの印象は「自分の機嫌を自分で取ることができる」人間だ。ルカスは時にベリアンに愚痴を溢し、大変な仕事の後にはパウンドケーキやワインといった自分へのご褒美を用意する。
 ナックは自分の言葉を自分の美しいと思うように飾り立て、美しいものを褒め称え、美しい帳簿を作ることで自分の仕事に満足する。ラムリに至っては、清掃係として譲れない場所だけ真剣に清掃を行い、あとは仕事をサボってしまう。
 彼らはとても気分転換が上手く、大なり小なり「自分を肯定するポイント」を持っている。
 それは特別なことだろうか。
 他にも、例えばフルーレは、自分の無力さを感じながらも日々精進し、そして何より彼は彼自身の作る衣装が好きだ。
 ラトに関しては、自分のことが好きな人間だろう。彼は日々美しいものを見つけては、それを美しいと思う自分の感性を気に入っているように思える。彼が体験した過去は悲惨なものだが、「ただ私はお母様の元へ帰りたかった」という願いを愚かなものとして卑下することもない。
 他の執事達も、これだけは他の誰にも負けない、という得意なことや自分の肯定ポイント、誇りを持っている執事がほとんどではないかと感じる。
 では、ミヤジはどうか。
 ベリアンとミヤジのホーム会話にて、印象的なやり取りがある。ベリアンがミヤジに以前の演奏会が好評だったことを告げるが、ミヤジは「私なんかの演奏で」と返し、ベリアンが困惑してしまう、というやりとりだ。
 ミヤジは屋敷の音楽係、謂わばプロの演奏者である。しかし、彼の口から「楽器を演奏することは自分にとって癒しだ」という旨の言葉が出ても、自身の楽器の腕前に関して言及する言葉は出てこない。
 彼は、自分の担当分野であってもそれをそれを「得意分野だ」と誇ることはない。
 では、彼の誇りとは何か。ミヤジが誇らしげに語るのは、彼自身ではなく、彼の同室のラトやフルーレの楽器の腕前が上達したこと、彼の教え子に関すること、そして、主のことだ。
 ミヤジは、自分で自分を肯定できない。彼に欠けているのはその力で、騒がしい場所を嫌いつつも、彼は、精神的な面で一人では生きていけない、誰かを必要とする人間なのではないか、と思う。
 ミヤジは、他人を褒める。他人のために尽くす。他人を肯定する。その行動を通してやっと、自分を少し、肯定できるのだ。

苛烈な執事


 ユーハンからは、「デビルズパレスの良心」と評され、年下の執事からは「先生」と呼ばれるミヤジだが、彼を永く知るルカスやベリアンは、ミヤジをこうも表現する。
 「頑固」「強情」「不器用」。
 どちらが正しいと言うことはないだろう。しかし、なぜ古参である二人は、ミヤジをそう言うのか。
 一番大きな要因は、「284年続いたルカスとの断絶期」だろう。人間の寿命およそ三年分に渡り、ルカスを憎み続けた断固さ、その点に関してはベリアンの意見も素直に受け止めなかったであろう強情さ、そして、ルカスと対峙できなかった不器用さ。ハウレス達300年組もミヤジとルカスの断絶期を始まりから終わりまで見ていたはずだが、悪魔執事になってから数十年のハウレス達と、1000年以上を共にしたルカス達ではその印象も変わってくるに違いない。仲違いするまでの期間、ミヤジとルカスは同じ医療係のツーマンセルとして仕事をしてきた背景がある。
 医療係が一人になり、不便なことも増えただろう。しかし、それでもミヤジは、仲間の命を救う仕事から目を逸らし続けた。
 ひとつは、ルカスとの不仲、気まずさ、彼を許せない気持ちから、そしてまた、自分よりずっと若い執事を犠牲にしたことから、「自分にはもう仲間の命に携わる資格はない」と感じたのかもしれない。
 なんにせよ、ミヤジは何かしらを決断し、それを頑なに守り続けた。このようなミヤジの頑なさは、ホーム会話で主人に対して「主様のおかげで生きる希望を得たが、いざという時は自分の命を投げるかもしれない(意訳)」と言う言葉や、ミヤジの執事ストーリー「救ってくれた男」の、昔の医師時代の様子からも見てとることができる。
 特に、昔の、おそらく南の大地で医師をしていた頃のミヤジの行動や思いは、穏やかな語り口で語られることに違和感を覚えるほど苛烈と言ってもいい。彼は怒っていたのだ。命ひとつ救うことができない無力な医師である自分に。
 「苛烈」とは、特に厳しく、激しいさまを表す言葉だ。この言葉を改めて調べた時、なぜかとても「ミヤジっぽい」と感じた。第一印象である穏やかさとは正反対とも言えるにも関わらずだ。
 1stアニバーサリーや2ndアニバーサリーで見せた姿こそ、苛烈そのものだろう。メインストーリーエピソード1の、カランの街の墓場でのルカスとのシーンでも、自制した苛烈さを感じることができる。
 普段の穏やかさと、その底に隠れた強情なまでの自己否定感、更にその下に押さえ込んだ苛烈な自分への怒りが、「ミヤジ・オルディア」を構成する要素なのではないか、と思う。

不器用な優しさの根源

『一一優しさを生む 母は強さではなく 痛みなのだ
  寧ろ 強さはその娘』
(Sound Horizon 9th Story Album 『Nein』「忘れな月夜」より)

『一一美しいと皆親切よ それをゲンキンだと言う人もいるけど 親切ってとてもや
  さしい気持ちでしょ
  やさしい気持ちのただなかに居るって すてきよ…』
(売野機子『同窓生代行』より)

 「人に優しくすること」に、メリットは多い。
 相手に自分を良く見てもらえる。見返りを求めることができる。相手を油断させることができる。自分を肯定して、満足させることができる。数え上げればキリがない。どれだけの人が、無意識にでも何のメリットを求めず、人に優しくできるだろうか。
 こう書くと、優しさとは打算的なものに見えるかもしれない。それでも、実際、打算的であっても、人に優しくするには努力と気遣いが必要だ。そして優しさは、人として生きるのに必要だ。それは、通貨のように、人と人の間で交わされ廻っていくものではないだろうか。
 優しさがなければ世間は滞り、ひとりひとりが殺伐とする。他者に優しさを廻らせる気持ちを忘れては、自分に対しての潤いの与え方も忘れてしまうのではないか。あくねこのアプリを開き、パレスに帰ってきたことに礼を言われるたび、そんなことを思う。
 ミヤジに限らず、あくねこの執事達は傷を抱えている。アプリのシステムとして、ユーザーが癒される側だが、メタ的なストーリーとして、主に優しさを与えることで、執事もまた癒えゆくのだろう。

 ミヤジの第一印象は「穏やかで優しそう」だった。
 それから、ストーリーを追い、他の階に比べて閉ざされた傾向にある地下執事室、自分の命に必要性を感じないミヤジを知り、「穏やかで優しく、疲れていて、ちょっと病んでるのかもしれない」と思うようになった。そこも含めて彼の魅力である。人と共依存の関係に陥りやすいかもしれないところも、頑固で強情で不器用なところも、全てが魅力で、だからこそ、抜け出せないキャラクターであると感じる。
 人間誰もがそうであるように、ミヤジには問題がある。そこを魅力的に感じては、その問題ごと惹かれてしまうため、嫌いになる要素が無くなってしまうのだ。
 そんな、いくつかの問題点を抱えるミヤジの「優しさの根源」とは、結局何なのか。
 この文章を書きながら、私はそれを、彼の抱える「問題点そのもの」であると感じた。
 医師時代の挫折、数多の命の喪失、そんな中、生きている自分を赦せない自分を抱え、傷ついた彼は、一人では生きられない。他人を通して、自分への愛を実感できる人間である。だから彼は、穏やかな優しさを身につけたのではないか。
 ミヤジは、人には目に見えない傷があることを知っている。その心に優しく触れるよう、注意を払い、誰かを優しく愛する。愛された者を見て、やっと自分の行いを肯定できる。他者への穏やかな優しさは、他ならぬ彼自身への穏やかな優しさであると、私は思う。
 彼がこれからも、穏やかな優しさを持ち続けてくれることを願うばかりだ。

読まなくてもいいおまけ。ミヤジに行き着いてほしい結末


 3thイベントストーリーの、「天使との戦いが終わったらどうしたいか」というムーや主からの質問に、ミヤジは「主様の執事以上の仕事が思い浮かばないので、デビルズパレスに残る」と答えた。
 それに対し、「自由に旅がしてみたい」と言ったラトは、「旅が終わればパレスに帰ってくる」と答え、「ティサイユに自分の店を持ちたい」と言ったフルーレは、「まずはエスポワールに店を開いて、屋敷から店に通う」と答えた。
 微笑ましい回答だが、ミヤジを父親、ラトとフルーレを息子と考えると、なんというか……若干親離れできない子供と子離れできない親感がある。ここで地下の関係性、本当に健全な擬似家族?という疑問が湧き、以前から疑っていた「ラトがミヤジに依存したのではなくミヤジだからラトは依存した説」から、「ミヤジの『優しさ』の正体は実は依存させ体質なのではないか?」と思い、今回の考察に踏み切った。
 家族仲がいいことは良い。しかし、フルーレが後出しで気を遣ってエスポワールに留まることを提案するのはなんだか……親に気を遣う子供が独り立ちできないでいるみたいだ。
 そこで少し、フルーレやラトだけでなく、「ミヤジも独り立ちするにはどうすればいいか」考えた。
 結果、「ルカスと一緒に旅に出ろ」ということになった。尚、主様にはパレスに留まっていただくこととする。
 ミヤジに対して、もう一度医療行為に向き合ってほしいと言う気持ちがある。ルカスに優秀な医者だと言わしめたミヤジが、医師であることをやめてしまうのは素直に勿体無いと感じるのだ。
 なのでここは、優秀な医者であるルカスと共に、再びツーマンセルで四つの大地を巡り、ミヤジにも適した環境で医者コンビとして1000年後にまで名を轟かせてほしい。パレスに戻ってくるのは多少旅をしてからでも遅くはない。
 というか、そろそろパレス医師一人大変問題も何とかしてほしいと思う。ストーリーの運びにおいても、作中の仕事内容においてもルカスの担うところが多すぎる。
 この辺りに関しては、ミヤジとルカスのストーリーは「1、不仲発覚」、「2、仲が悪い中での共闘」、「3、和解」、「4、ルカスからミヤジへの相談」と言う形でエピソードごとに進展があるので、案外ちゃっかり何とかなるかもしれない。