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3章後半‐けテぶれ交流会と指導者の役割

割引あり

けテぶれチャンネルプレミアムということで、今日はけテぶれ宿題革命の三章後半についての解説を行っていきたいと思います。

宿題交流会とは

まず百六、百七の学びの大豊作「宿題交流会」についてです。このような宿題の交流の仕組みを作っていきましょうというページになっています。これは本当に大事で、実践されている先生方から「宿題交流会がめちゃくちゃ盛り上がりました」というような声をたくさんいただいているところです。

この取り組みはぜひ実施してもらいたいと思います。簡単に言うと、どのように勉強したのか、どのようなノートを作っているのかということをみんなで見合ってコメントし合うということを実施するのです。その際に重要なのは、昨日の放送でも言ったかもしれませんが、学習を見る目です。どういう学習が良いのかということが子供たちにとって実感できていないと、この交流で何を交流したらいいのかわからないということになります。だからこそ、けテぶれという枠組みや、その行為をちゃんと土台として確立することがまずもって大切なのです。

「好きなことを学びなさい」だけだと…

もし何の基準もなく、ただ自学ノートの交流会をしようとなったら、ただ見た目の綺麗さやカラフルさといったノートの外見ばかりに目が行ってしまいます。教師も「学ぶとは何か」や「自由に学ぶ時の注意点」、「本質的な学びのサイクル」というものが理解できていないと、結局教師もその見た目の綺麗さやカラフルさばかりに目が行き、そういった表面的な部分ばかりを評価してしまうという、自主学習でよくある問題が発生してしまいます。

学びとは何かということの判断や理解がないままに子どもたちに自習学習を求めてしまうと、容易にこのような表面的な学びが実現してしまいます。それを何とかしようと課題意識を持って改善を試みようとした時、よく出てくるのが自学メニューのようなものです。これは、メニューの中から自学のテーマを選ぼうというものです。確かにそれはそれで、テーマを選んでそれを一つずつ学んでいくことで、そのテーマについての学びは良いかもしれません。しかし、そうやって与えられたテーマから選んでいるだけで、「学ぶとは何か」ということに子どもたちは気づいていくのでしょうか。

いつまでもテーマを与えられてその中から選び、選んだことについて何となく取り組むというようなことをする中で、本当はその子の中に学びのサイクル(けテぶれQNKS)が回っているのですが、誰もそこに対して意識が向かないのです。そうなると何が起こるかというと、できる子はできる、できない子はできないままという状態が変わらないのです。

自学メニューがあれば楽しく取り組めるものの、その中で目指すべき方向性もまた、綺麗さやカラフルさといったところの価値基準だけしかないとすれば、そのような表面的な学びになってしまいます。自習学習を交流する際には、けテぶれという共通の土台が必要なのです。それがあってこそ、交流会が本質的に盛り上がり、真の学びになるという構造を作りたいわけです。

より良い学びとはなにかという共通認識を育てていこう

しかし、手放しにけテぶれをやっている子たちだけで実施すれば盛り上がるかというと、限界があります。そこで大切なのが、その学習観というか、良い学びとは何かということへの感度です。これをどんどん高めていかないと、その場がただのおしゃべりの場になってしまいます。

では、どういう方法があるのかというと、それが日々の教師のフィードバックになるわけです。教師がここはこういう風に良いねということを、子どもたちのノートから一つから三つ取り上げて示していくということを続けることで、子どもたちは「こういうことをやれば認められるんだな」という理解を深めていきます。学級通信でも同様です。学級通信で言語化し、「こういう取り組みに先生は今日は星を出したよ」ということを毎日子どもたちに伝えることによって、子どもたちは「こういう勉強すればいいんだな」ということの理解を深めていくことができるわけです。

だから起点は確実に教師であり、これこそが教師がやるべき指導なのです。毎日子どもたちのノートを見て、授業でもリアルタイムの学びの姿を見て、その中から学習の価値、学ぶ時にそういうところが素晴らしいという価値の切り取りをひたすらに続け、それを子どもたちに返していくことによって、子どもたちは「学びってこういうことなんだ」「より良い学びというのはこういうことなんだ」ということを理解していきます。

まず「知る」「できる」「やってみる」で言うと、知ったらそれをやってみようとできます。それを今日の宿題で「今日は〇〇さんの真似をしてみよう」というように実践すると、それが「やってみる」という経験になるわけです。そのやってみることを繰り返すことで、自分の経験を宿題交流会において語ることができます。「自分はこういう学びをやったんだ」ということを自分で説明することが可能になるというサイクルを回していきたいわけです。

次に、子どもたちには学級通信の「先生の言葉を空いた学級通信」も作るのです。今までは、ノートの写真とそれに対して先生が「こういうところがこういう風に良いね」というコメントが入った通信を配っていました。子どもたちはそれを見て「ああそうなんだ」と納得していたわけですが、次はその吹き出しに何も入っていない通信を配って、子どもたちが自分で考えるのです。

これはどういうことかというと、先生がここが良いという箇所だけは示すのです。「これが良いと思ったよ」と先生は写真は載せるのですが、その写真のどこがどのように良かったのかということについては言語化されていない状態です。ここを自分で書き込めるかどうかというチャレンジをさせていくと、また面白いわけです。

だから宿題交流会の前に、まずはこの空白の穴埋め学級通信の交流会をするということも足場掛けとして考えられるわけです。「僕はこういうふうなコメントを入れてみたんだけど、みんなどう思う?」ということを班のメンバーで交流すると、「ああ、そうか、ここが良いと思ったのか」という話になります。最後に種明かしとして先生の視点を伝えますが、それは先生が正しくて皆が間違っているというわけではありません。あなたが見つけたその価値というのは、あなたが価値だと思っているところなので、その価値観を誰も否定することはできないわけです。

こうやって自分の価値観と他者の価値観というものを擦り合わせながら、学びをどう見るのかということについてどんどん深めていくという話です。こういうことを素地というか土台として作っておくと、宿題交流会、けテぶれ交流会の内容がまた深まるという話になってくるわけです。

こういうことをやると子どもたちにとって学びとは何かということがわかりやすくなりますし、その時に学びを交流するためのノートには、先生が欲しい一つから星三つまでの印をつけておくことで、「ここを星三つもらえたんだよ」というような目印にもなるわけです。

やり方は様々ですが、例えば班のメンバーの半分が教室の中を移動して、もう半分は自分の班のノートを、移動する子たちも自分のおすすめのページは机の上に開いておいて、店番のような感じでやる時にも、他者のノートの中からどういうところに先生が星を出したのかということを星を目印に、他者のノートの良さに気づいていくということがあり得ますので。

とにかく本当に大事なのは先生のフィードバックです。これがちゃんと回っていないと、けテぶれ交流会は盛り上がらないかもしれませんという話です。

朝の会のプログラムに入れてしまうのもあり!

朝のプログラムに入れてしまおうということも書いてあります。こうやってイベント的に時間が取れないということもあるでしょう。総合の時間で学び方探求にしたらどうですか、という発信を時々やっているのですが、それもない場合、結構宿題交流会で一時間時間を取るというのが難しかったりもします。その時にもう朝に班の中でやってしまうということです。これは、その大きい宿題交流会において宿題を見合うとか勉強を見合うということの価値に既に気づいている状態が必要かなと思います。

簡単に朝の会の中で5分ぐらいで隣の人もしくは4人程度でノートを回してそれにコメントを入れて、そのコメントが入った状態のノートを先生に提出するというようなことをやっていた年もありました。これで結構効果が良く、そうなると朝必ず友達のノートを見るという状態になります。

すると宿題をサボってしまうような子たちがいるわけですが、その課題というものはまず班のメンバーが受け取ることになります。班の中で「今日どうした?宿題出してない?」となった時に、「やってないね」となったら、「またやってなかったの?」「ダメじゃん」という話になるわけです。その時に、その班の中でまずその課題が自分の中だけに蓄積されてしまわずに、班で共通の課題のような感じになっていくのです。

そうなると、それが見えたら今日明日どういう課題をすべきか、どういう宿題の取り組み方にするかというような話し合いが少し出たりします。そんな話し合いをしていたら次の日どうなるかというのも自然な話です。「昨日の作戦どうだった?うまくいった?」ということが班の中でまた話し合いできます。

だから子どもたちからしても、先生にプレッシャーをかけられて先生に「やれよ」と言われてやるのではなく、友達と「明日こうした方がいいよ」とか「こういう作戦で行ったらどう?」というようなことを話した中で次の日学校に来ると、ちょっと雰囲気が違います。

これは高学年は非常に有効です。5年生6年生でこういう取り組みをしましたが、もうめちゃくちゃ有効でした。本当に温かい雰囲気になります。だから本当に忘れてしまうとか次の日もできなかったとなったら、それをまた分析して、最終的に連絡帳にも書いてあげるとか、小さいカードを出してきてそのカードにやるべきことを書いて、それを目指す所に貼るとか、いろんなことを班の中でやって、「今日やってきたね」となったら先生に報告するのです。

学級経営にも◎

「やってきたよ」とか言って、「こういう作戦で」と僕が聞いたら、「こういう作戦だったらこの子ができる」というようなことになります。これと生活での毎週の席替えとの連動を組み合わせると、学級経営としてめちゃくちゃ良いです。これはもう断言できるぐらいです。

特に高学年の5年生6年生は難しいです。男女がはっきりと別れてしまったり、陰口が横行したりということもあると思います。そんな時にこれです。宿題という、一旦子どもたちがやるべきだと認識しているものに関して自由度が保証されており、その取り組み方について毎朝学級の班のメンバーと交流できるという機会が作られれば、男女の壁なども乗り越えられます。

休み時間でそれらを乗り越えようというのはあまりにもハードルが高いわけです。大人だってそうでしょう?研修に行ってそこから休憩ですとなった時に、普通に仲の良い人と一緒にいるじゃないですか。そこで関わったこともない異性と一緒になりましょう、なんてそれは嫌でしょう、しんどいでしょう?ということは子どもたちも一緒なのです。

大人も全く一緒で、研修の中で必然性を持って文脈がある中で関わり合いましょうだったらできるでしょう?それと子どもたちは全く一緒なのです。だから班のメンバーで、班の中でこういう話を毎日朝5分しましょうとなると、そのハードルや異性がどうのこうのということではないのです。そういうところとなしにプロジェクトとして、タスクとして関わることができるので、そういうことを積み重ねていくと、結局単純接触効果です。その回数が上がれば上がるほど、話した経験があればあるほど、それは別に休み時間も関わることになります。普通にという構造的な解決というのはこの辺も満たされていくところなので、ぜひこのけテぶれをやるからには、本当にこういう他者とのつながり、その個別の学びと共同の学びが一体であるという姿であり、個別の学びが立っていくからこそ協働の学びが生まれていくということでもあり、いろんな面で大事になってくるんじゃないかと思います。

けテぶれ交流会は、クラス、学年をまたげる

次の180、190はけテぶれ大交流会ということで、これがクラスでみんなで見合いましょうというようなことを真面目に書いているページです。ここではクラスだけでしたけれども、ちょっと前の放送から言っている通り、これを学年をまたいだり、学期をまたいだり、学校をまたいだり、中学校でも全校でやったりといろんな実践がここは出てきています。もうこれが実現するのが先ほどの構造です。前チャプターで言ったような要素、先生のフィードバックとか、そもそも学習とは何かということの定義とかいうことがある中で、こういうことをやると非常に盛り上がりますし、もう関係性の垣根というのを超えられていきます。

チーム担任制とかということで、その指導者が入れ替わり立ち替わりするのであれば、もうなおさらこういう取り組みがめちゃくちゃ大事だと思います。ちゃんとどこに地盤を置いて、どういうキーワードで子どもたちと共通理解をし、子どもたちをつなげ、学ぶということをどう捉えるのかということの共通理解をどう図っていくのか、指導者同士が持っていくのかということがないと、チーム担任制は完全にバラバラになります。だからこそ、これは今後の教育において大事なんじゃないかと思っております。

けテぶれ指導においてやるべきこと①

110、111が教師がやるべきこと①ということで、先ほどのことと結構似ています。任せるが放任はダメということと、クラスに語ること①として、テストの点が示すことです。テストの点は自己学習力の表れなんだよということは確実に子どもたちに示してあげたいし、そのために学びの海のメタファーというのもよく言っていますので、そうやって学力の点数とともに、そこに向かう学習力の視点を子どもたちには持たせてあげたいところです。

けテぶれ指導においてやるべきこと②

それをクラスに語ること②、大分析の視点として、大分析の瞬間にそういうことを明確に、学力と学習力の両方が見える瞬間がその大テストの大分析の時間ですから、そこで子どもたちには認識させていきたいという話です。

そしてテストの後に入れるタイミングということで、ここが狙い目だよという話です。こういう深い語りとか、子どもたちに学びの価値を語る時というのは、やはり子どもたちの感情がわっと動いている瞬間です。この瞬間に理論的なロジックの語りというのは入るのです。

やはり感情が動いていない、もうどうでもいいとか分からないとか、そういう中ではこの話は響かないでしょう。では、どこかというと、そのテストが終わった瞬間です。この瞬間、めちゃくちゃ嬉しい、もしくはめちゃくちゃ悲しいという、この感情がグッと動く瞬間が作れれば、そこは語りが入る大チャンスなわけです。ここであなたたちのその行動の意味と感情の価値というものについて、深く深く語ってあげたいわけです。

12、13ページは学びの海を語るということで、学びの海のメタファーとして、いろんなことを縦に広げる、横に深めるということも含めて語ってあげたらいいんじゃないかということが書いてあります。

特に大事なのが12ページにおいては、その最初の学習を始める現在位置が人それぞれ違うということです。この図では100点付近に人が一人、海の中にいるのですが、これはつまり、その単元が始まった時とかその学習範囲の学習が開始された時点で、もうその時点でテストを受けた時に何点取れるか、それが学習のスタート時点の位置なのです。これは人それぞれ違います。

漢字の勉強で言えば、漢字がめちゃくちゃ得意な子は、練習しなくてもその日の小テスト、大テストで100点取れるということがあり得るでしょう。つまり、現在地も最初の地点というものが、あなたはこの辺だったということが示せるわけです。逆にめちゃくちゃ苦手な子は、何も勉強しないでテストをやったら0点という子ももちろんいるでしょう。

それ以下の場合もあります。つまり、勉強、漢字が嫌で嫌でしょうがないとか、0点よりももっと後ろに落ちてしまう子というのもいるはずです。そのように、大分析で見定めなければならないのは、学習の最初の時点で、あなたは学びの海の目標地点に対してどこにいましたか、ということをまず把握することがめちゃくちゃ大事なのです。

そうでないと、その位置から今日の結果までの泳いだ距離こそが、あなたの学習力につながるわけです。もともと90点付近にいた子が、ちょろっと勉強して100点取れましたと言ったら、それは10点分の距離しか進めていないですよね。その距離で100点取って満足しているのだったら、あなたの学習力はその距離の範囲のみなのです。10点分の伸びに対して、最初0点だった子が100点取れたと言ったら、それは100点分です。100点分の学習力があなたにはありますよ、という話になるわけです。

そういうところで、学力と学習力というものを見分けていくのです。だから最終的なテストの点だけじゃなくて、あなたが最初にいた位置はどこでしたか、ということをちゃんと認識させることによって、その位置から自分はこれだけ進んだんだということがテストの点で把握できるということが、大分析にとっては非常に大事であるということです。

113ページでは、上位層への上限の解放が大事だということを説明しています。最初の現在地が遠い位置にいた子は、けテぶレを通して100点を取れたら、めちゃくちゃ長く伸ばせます。でも私たちはもともと漢字が得意で90点付近にいる子に対して、「そこに対してそんなのしょうがない状況なんだから90点から100点までしか伸びないのに、それで100点取れたからって、あなたの学びの力は10しかないよ」と言われても、「じゃあどうすればいいの?」という話になります。

だからここに対して上限の解放というのをしてあげる。つまり縦に深めるという努力です。学習範囲において習っていない漢字や、出てきていない熟語や、慣用句、ことわざなどを調べて、それで文を書くという努力をすると、あなたの努力はこの学習範囲においてそれをもっともっと深く深く潜って学ぼうとする、縦に向かって学習を進めることができたということです。これは学びの力の非常に強いところです。

しかも実際の海を考えたら分かる通り、横に進むよりも縦に潜る方がよっぽど泳ぎの技術というものは必要になるわけです。そういうことをあなたはできたんだから、めちゃくちゃすごいということです。こういうことを上位層には語ってあげたいと思います。

また横に広げるという観点では、今日の100点だけじゃなくて、来週の100点、再来週の100点という風に、この学期中のテストの点数をとりあえず100点のレベルまで高めていくという横の努力もあり得ます。その努力というものは、今日のテストは今日のテスト範囲でしか点数が出ないので分からないのです。だからあなたのノートを見返して、あなたの判断で考えてみてください。ノートを見た時に、今日の学習範囲だけじゃなくて次の範囲全て、将来の範囲まで学習できているような履歴があれば、あなたは横に広げるという学習で、今日の100点から次の100点、その次の100点という横にベクトルをものすごく伸ばせたということになります。これも学習力の一つですよ、という話です。

だから最初に100点付近や90点付近にいた子も、あなたの現在位置から縦にも横にもめちゃくちゃ進んで進められる方向があるんだよということを言うと、子どもたちにとってはそうか、という話になります。自分誰しもが自分の現在地から進むということを努力する教室なんだな、ということに対する現実的な理解というか、仕組みとしての納得ということを実現していくことができる。これが大事という話です。

けテぶれ指導においてやるべきこと③

114、115は教師がやるべきこと③ということで、クラスの子どもたちと対話する、困ったことがあったら子どもたちに聞いてみようという話です。この辺はもう目的に向かう手段、手段は無限ということで、けテぶれで意識させるのですが、子供たちが自分なりの学び方を模索するように、教師もまたクラスでのけテぶれのあり方について模索する態度が必要なのです。

これは教師はけテぶれ指導のけテぶれをしましょうということです。ここがないと本当に何もかもダメです。これもあらゆる教育実践そうなのですが、特にけテぶれは、本当に自己改善サイクルを子供たちに回しましょうって言っているのだから、当然指導者としてはそういう姿勢であるかどうかが問われるわけです。それがないともう上滑りも上滑りでしょう、ということなので、この教師のけテぶれ、教師が自己改善サイクルをいかに回しているかということが問題になるというのは、もう言わずもがなというか、非常に中核的に大事になってくるという話です。

そして、困ったら子どもたちに聞いてみようということで、その自己改善サイクルの中の本当にこれも自律と自立、自分を律する「律」と自分で立つ「立」の二つを使い分けようとした時に、その自分で立つ方の自立というのは、自分でできないことは他者に協力を仰ぐとかアドバイスを求めるということが必要なわけです。

これを本とか、偉い大学の先生とか、SNSに(私もそこに含まれるので私の言葉とか)を参考にすればいいのですが、もっと本質的に確実にその答えに対する情報を一番持っているのは誰かという話です。子供たちだけでしょう?もうその教室における登場人物、その教室における人間こそが、その教室における問題点の解決に向けて前に進めるための情報を確実に持っているわけです。だから子供たちと話し合うし、子供たちをよく見る。そういう姿勢が非常に大切になってくるという話です。

そうなるとベクトルが揃います。その教師も子どもも同じ方向を向いて一緒に進むということを書いてありますが、これが本当の児童中心の学び、子どもたち中心の学びを実現するための大きな感覚です。

教師が子どもたちと相対して指導する、向かい合っているような構図ではなく、教師も子どもたちもより良い学びというものを探求し続ける仲間なのです。その前にはより良い学び、より良い生活、より良い人生、より良く生きるとは何かというところまで見据えて、その上で教師も子供も同じ方向を向いて一緒に進もうというわけです。

指導者はみんなの前と後ろに、ゆるくアツく

そこで教師に求められるのは、その集団の先頭を歩いて自身がよりその目標に対して進みゆく姿を背中で見せること、これがけテぶれのけテぶれ、教師がけテぶれをいかに回せるかという話です。後ろから見たらとても熱い先生だし、かつ時にはその集団の一番後ろに回って「あなたはあなたで最も輝くんだよ」というその緩いやり方を示しながら、その集団全体を温かく包み込んでいく、この二つです。

大きく言うとこれがゆるアツです。ゆるアツのその位置関係で言うと、アツは集団の先頭で自分の背中で語るし、ゆるは集団の一番後ろから暖かく包み込むという、こういう位置関係を上手に使い分けながら、集団として同じ方向を向いて努力するということが一年かけてやっていけると、クラスとしてもかなり豊かになりますし、そもそも子供たちと教師との関係も良くなると思います。

社会参画的な学びというか、今結構大事だと言われていることです。その学級の中で出てきた知識というものをみんなで積み上げて一つのものに仕上げていこうという話です。私の理論というものは全部このプロセスを経て出てきたものなのです。だからよく学級学習科学とか科学の方面とかいろんな方面に私のロジック、理論というものが通じるということを実践者さんたちは言ってくださるのですが、なぜかと言ったらこうやって作ってきたからなのです。

前にも言いましたけれども、科学とかそういうカタカナとかかっこいい言葉というのは、結局はその実際の学びの場面を切り抜いた言葉です。では、この実際の学びの場面においてそれらを充実するための施策とか取り組みということを目指していくと、当然全部入ってくるという話なのです。だからもう目の前にウェルビーイングもあるし、プログラミング的思考もあるし、探究的な思考もあるし、人権教育もある、全部全部この場にあるのです。

その場にあることをちゃんと見つめて、この場で起こっていることを増加しようと思った時に、けテぶれQNKS心マトリクスという言語化になるという話です。これで言うと先行者利益というか、私がやってしまったから乗ればいいんじゃないの?ということで発信しているという話でございます。

はい、ということでちょっと長くなってきたのでここで切ります。4章が少し短いので、3章の後半のその子供たちのタイプ別の指導法というところが結構重要なので、来週ゆっくりこの辺を解説したいと思います。今日の放送はこの辺で終わりにしたいと思います。また次の放送をお楽しみにしてください。

次回はコメント回です。ぜひコメントを寄せていただければ、すべてにお返ししますのでよろしくお願いします。成績シーズンも皆さんお忙しいと思いますが、お仕事頑張ってください。では次の放送でお会いしましょう。バイバイ。

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