今の日本で”インクルーシブ教育”なんて無理なんじゃないか説④
日本の全体主義教育はインクルーシブに相反する
インクルーシブ教育の大前提は「多様性を尊重する」ということだと思います。
ところがいまの日本の公立義務教育が目指す(少なくともそのように感じられる)のは「全員同じことができる力をつける」であるように感じるのは、おそらく私だけではないはずです。
例えば、私の子どもたちが通う小学校では、授業は全員同じ姿勢で着席した状態で、机の上には同じ教材が準備された状態から始まります。
立ち歩いたり、隣の子と喋ったり、自分にとって楽な姿勢で座ったり、放課に使っていた折り紙や落書き帳が机に乗っていることは許されません。
できていない子には、先生、もしくは子どもたちが注意をします。
その子がみんなと同じことができるまで、みんなで待ちます。
授業中は発言する子を、みんなで注目し、誰かの意見に対して先生が「いまの意見はどうですか?」と聞くと、みんなで「いいでーす」と答えます(算数の授業でした)。
クラスには約30人の子どもたちがいましたが、和を乱す子は数人で、その子たちですら注意されながら懸命に「みんなと一緒」にやろうとしています。まだ10歳にもならない子どもたちが整然と「みんなで」を守っている。
この空間において、この秩序を乱す子は「異端」で「注意されるべき」子です。
みんなと違う子は、困った子なのです。
誰も困った子にはなりたくありません。だから「みんなで」がんばる。
でももしインクルーシブ教育を目指すなら、みんなとちがう子=困った子では、いけないはずです。
みんなとちがう子も、違和感なくその空間にいられなければ、インクルーシブではありません。
しかし残念ながら小学校低学年から、徹底的に「みんなで」を叩き込まれた子どもたちは、みんなとちがう子を対等なクラスメイトとはみなしません。
困った子だから、わたしたちが注意してあげないといけない子
同じことができないから、助けてあげないといけない子
として「みんな」から一線を画した存在として認識されます。
いまの日本のインクルーシブ教育とは、他の子と違う特性を持った子が、他の子に迷惑をかけながら同じクラスに存在している、というのが現状なのです。
私は、その大きな原因が日本の全体主義教育(「みんなで一緒に」教育)にあると考えています。
インクルーシブ教育を本気で進めるつもりなら、まずこの全体主義教育「みんなで一緒に」を考え直すべきです。
インクルーシブとは、特性のある子が、ただ同じ空間にいればいいというものではありません。
その子の特性が個性として認められ、そのうえでみんなに受け入れられ、対等に扱われなければならない。
多様性の尊重とは、そういうことではないでしょうか。