テクノロジーを駆使した最高に美味しいものより、大切な人につくってもらった最低に不味いものに価値がある という価値観が大切
「データ分析×人×ビジネス」の軸で記事を書いています。
今日は自分がメモしておいたことを、そのままタイトルにしてしまいました。こういう価値観は少し方向性というか、力の入れ具合をうまくしないと、どうも押しつけがましい主張になりがちです。そのため、あくまでも一側面とういうことで読んでいただければと思います。
もう大昔のことなので時効だと思いますが、、ある人からクッキーをもらったんですね。渡されるときに本人から「これ、クソまずいから、ほんとに」といわれたのですが、「まぁ、そこまではないだろう」と思って食べたら本当に不味かったんです。あれから15年以上経っていると思いますが、その前後含めて、未だにあれより不味いものを食べたことがありません。
しかしそれでも、もらった当時はものすごい嬉しくてバクバクその場で(たしか4~5枚あった記憶があります)全部食べてしまったのですね。
こうした話がある一方で、最近は特にスーパーで「ものすごい美味しいんだけど、あまり体によくないもの」がたくさんあります。誤解を恐れずにいうと、あまり体によくないものとは食品添加物のことです。ただ、職位品添加物のことについて語る記事ではありませんし、否定する意図は一切ありません! 言いたいことは、昔は普通だったものが今は手に入りにくくなっているということです。
つい先日のこと、お味噌を切らしたので買いに行きました。ところが、今までは国産大豆を使っていたものが軒並みアメリカやカナダ産になっていました。また、発酵を早めたり、味を良くするような食品添加物が色々入っているものがほとんどなんですね。うどんなんかも、ほぼ例外なく食品添加物が入っていて、小麦粉と塩だけのものなどは皆無に等しい(モチモチとこしがあるような感じになる添加物が入っている)。お豆腐なんかも同じです。
それで、極力添加物がないものを選ぼうとすると、それは「いわゆる二流メーカーがつくっているもの」だったりするわけです。昔から細々と幅を利かせているようなメーカーといった感じですかね。逆に大手の食品メーカーは利益を得ようとすると、おそらく添加物に頼って大量生産・大量流通させないと採算があわないのでしょう。AI時代によくいわれる生産性向上、効率化、省人化というものを一歩間違えると「大量生産・大量流通にはそもそもコストがかかりやすいので、少しでもコスト高になる余地が生まれると、途端に儲からなくなる」というリスクも抱えることになるのです。また、一度そういうしたインフラに会社の主たる事業(収益源)が成り立ってしまうと、どうにもならないということになりかねません。
実際、外食などでも、ふと考えさせられる時があります。「これは美味しいのか、美味しいと錯覚させられているだけなのか?」と、自分の舌を信じられなくなるんですね。その意味で、色々と便利なテクノロジーの恩恵を受けすぎると自分の感性みたいなものが、徐々に薄れていく気がするのです。断言しておきますが、その恩恵を捨てましょうというような意図はありません!
気をつけるべきことは「気をつける」ということなんだと思っています。今回挙げた例でいえば、少しだけスーパーで裏側の表示をみて「どんな産地・食品添加物があるのかな」と少し気をつけるだけでいいと思います。外食しているときも、「これだけおいしい≒おいしく感じるものを、この低価格で提供できるわけないな」と気をつけてみる。これだけでいいと思うのです。
また、大変ではありますが週に1回くらいは自分で食事をつくってみるなども大切かと思います。これは家の掃除なんかもそうなのですが、本来、人がやる仕事(昔は当たり前にやっていた仕事)も、たまには自分でやってみる。そうすることで、現在のテクノロジーの恩恵を改めて感じることもできますし、本当にこれほど必要なのか(過剰ではないのか)と「今を疑う目」を養うこともできます。だから「気をつけてみる」ということを、日常の中でちょっとやるだけでも感性というのは戻ってくるのではないでしょうか。
そういうことを感じたこともあって、タイトルにも示したような
テクノロジーを駆使した最高に美味しいものより、大切な人につくってもらった最低に不味いものに価値がある という価値観が大切
ということを改めて気に留めておきたいな、と思った次第です。