コンテンツの好き嫌いと信頼
お笑いもドラマも音楽も、昔は何でも雑食で楽しんできた自分が最近は好き嫌いが激しくなってきたなと実感する。
最近になって自分が好まないコンテンツの共通点がうっすらと浮かび上がってきたのだが、要は製作者に「ナメられてる」と思ってしまった瞬間に冷めてしまうようだ。
逆に自分が好きだなと感じるのは「信頼してくれてるな」と感じるコンテンツであることにも薄々勘付いてきた。
「僕をナメている」コンテンツとは
視聴者の心情の動きを設計しながら作っているような、企画書が透けて見えるようなコンテンツはやっぱりちょっと冷めてしまう。
ドラマや映画だと大げさな感情表現や丁寧すぎるキャラ付け、どストレートな緊張と緩和、明らかに拡散を目的にしているわかりやすいキャッチフレーズ etc..
「ここでほっこりさせておいて」「ここで戦慄させてから」「ここで感動してもらって」「一丁上がり!」的な型に沿ったベタベタな流れを見せつけられてしまうと、どうも単細胞扱いされてしまうような感覚になってしまう。
映画やドラマだけでなくお笑いやバラエティもそう。特に今になって始まった話でもないが、丁寧すぎるテロップや「笑いポイント」の激しい明示などがどうも冷めてしまうポイント。
そして往々にしてそういったコンテンツは作り手本人が本当に面白いと思いながら作ってるってよりは、「面白いと思わせようとしてる」ものでもある(勝手な予想だけど)
ポップでわかりやすい構成がどうも苦手で、精密に構成されたものよりも人となりがじんわり滲み出てきてるようなものが好きになってきている気がする。
この感覚は程度の差こそあれ根底の部分は普遍的なものであるとは思っていて、例えば子供扱いされてキレる中学生とか、他社からのフラットな批判を聞けず「わかってるんですよアピール」が先行しちゃう問題児社員とかも同じような感情がルーツにあるんだろうなと思う。
大げさに言うと、要は自分のキャパを低く見積もられることにより自尊心が傷付けられてるということなのかもしれない。
それにしても、昔よりもコンテンツに対して「いやナメんなよ」と思う機会が多くなったのは何故だろう。色んなものを見てきてパターン認識するようになってしまったのか、自分自身が人の感情を動かさないといけない仕事が増えてきたのか、原因はわからないが良くも悪くも大人になったんだろうか。
「私を信頼してくれてる」コンテンツとは
逆に自分が好きだなと思うコンテンツって、「見る人をこういう感情遷移させよう」ってよりは「俺はこれがマジでおもろいと思う!わかってくれるよな?」っていう一種の押し付けに近いものなんだろうなって思う。
そこには人を天の上からコントロールしていこうっていう意図はあんまりなくて、「わかってくれるよな?」というある種の信頼だったり祈りだったりに近いものを感じて、受け取る側としても相応の没入感と覚悟を持ってコンテンツと向き合うことできる。
そして自分も面白いなと思ったときには本気で楽しめるし、自分の好みじゃなかったとしてもそれはそれでおもろい。ポジティブな感情とセットで「コイツ何やってんの?」と思える。
我ながらひねくれてるなーと思いながらも、自分の嗜好性を言語化することで好き嫌いが激しくなってきたことをあまりネガティブには捉えなくなれた気もする。
これからも「本心でぶつかってこいよ!」というクソみたいなスタンスでコンテンツを享受していこうと思う。