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「あばよ」――極端かつ過剰な言葉の選択

 研ナオコが歌う「あばよ」を初めて聴いたのは、1976年の日テレ「カックラキン大放送!!」。私が、10歳の頃だ。子供心に中島みゆきが作った歌詞に違和感があったことを、いまだに思い出す。

(a)何もあの人だけが世界中で一番 やさしい人だとかぎるわけじゃあるまいし 
(b)たとえば隣の町ならば隣なりに やさしい男はいくらでもいるもんさ

 当時の思いは、概ね以下の通りだ。
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(1)言葉が極端かつ過剰だ。
 (a)の趣旨は「やさしい男はあの人だけじゃない(=やさしい男はほかにもいる)」であるから、その事実を伝えるのに「世界中」「一番」「限る」などという極端な表現は不要である。
(2)主張に矛盾がある。
 仮に「限るわけじゃない」が事実だとしたら、まず「あの人が世界で一番やさしい男」であり、かつ、他にも「世界で一番やさしい男」がいることになり、世界で一番が何人もいるという矛盾が発生する。
(3)慰めになってない。
 あと、(b)隣の町にもやさしい男がいるって、なんの慰めになるの?私をふったあの人が世界で一番やさしい男だ、という前提なら、隣町に隣町なりのやさしい男がいても、慰めになんないよね。
(4)男を物色する話なのか。
 それに、この町で駄目になったら隣町って、1丁目の男にふられたら次は2丁目の男を物色するの?恋人って、町から町へとしらみつぶしに探すものなの?
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・・・ああ、でも今ならわかる。極端な言葉を過剰に使っている理由も、矛盾に構わず言葉を重ねる理由も、隣町のイメージと、そこにいるはずのやさしい男に馳せる思いも...

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