いのちを統計で見ないという事【自然農・漢方の世界】
近代は生命に限らずあらゆる事を統計で示し、社会の把握と将来予測をしています。
統計は個々のいのち本来の姿を見るものではなく、あくまで全体の傾向を示すものであり、それは17世紀に国民国家の国力を計る物差しとして統治する側に用いられてきました。
統計学ではあなたも私も何万分の一に過ぎず、統治する側にしたら、あなたも私も一つのコマに過ぎません。
しかし命の世界では、あなたも私も一分の一であり、誰かに計られるような存在ではないのです。
現代医療も教育も農業も統計学を基礎としており、それは本来のいのちの姿を見ることはありません。(物理学・経済学・社会学・心理学など)
自然農や漢方(後世方派ではない)は、東洋思想や中医学の思想を用いず、その現場現場、個々のいのちの姿を直接的に見て対応するあり方で、それは実践主義とも言えます。
近代の統計学という名の効率化の裏には、非効率が隠蔽されています。
統計学上の数値を良いものにする為には、分母の均一化を目指さねばならなくなり、そこに必ず生命の矛盾を抱え込みます。
均一化に膨大なエネルギーを必要とするのです。
例えば、職人が一つの道具を作るのに必要な物は、職人が使う道具と材料だけですが、これを統計学的効率化で工業化させると、均一な材料が必要になり、それを遠いところで掘り出し、工場を作りその工場で材料を精製し、その材料を運び出すトラックを作り、運び、材料を加工する工場を作り、工場を運営する人を雇い、工場の機械を作り、工場の機械を操作する機械を作り、、、などと、ものすごいエネルギーと資源を消費しなければいけません。
そのことにより出来た施設にも膨大な維持費、エネルギーが必要になってきます。
棚田や石橋を作り上げた昔の人たちの智慧は本当に凄いものです。
石一つ一つの性格を読み取り、適材適所で仕事を成し遂げます。
自然農は少しの道具と種と土地と、農夫の健康と智慧さえあれば実践でき、漢方も優れた師に学び、古典書と生薬と経験と智慧があれば実践することが出来ます。
いのちに沿う農、医学は既に人類が見出しており、一人一人がそれを学び実践し、フィードバックし、また学び、実践する事を通して、本当の意味で私と世の中が治る、という事を実践者として実感しています。