心にのこす @リストラーズ
絵や写真を見るのが好きだ。
この写真家、あの画家と体系立てて見るわけではない。大抵の場合、写真家の名前も知らないままだし、画家の時代も気にしない。
これが好き。
それだけだ。
景色でも 人物でも 満足ゆくまで 何時間でも 眺めていることがある。
人物の場合 モデルに選ばれたときの背景を想像したり 描かれた人物の人生を想像したり。
画家や写真家との 出会いを想像したり。描かれる前、描かれたあと、
撮られる前、撮られたあとの会話を考えてみたり。
人生のなかで ここぞと思われて切り取られた瞬間には ふだんは見えないものが描かれ、写り込んでいる気がする。
それを見たり そこから想像してみるのが好きなのだと思う。
もう同じ再現はできない 野村さんの時間を切り取られた動画。
「読み捨てられる雑誌のように」 刹那的では ありたくない 気持ち
「あなたの 瞳の 奥に 旅してく 」 こころの奥を知っておきたい思い
「センチメンタル・ジャーニー」という言葉自体は、イギリスの小説家
ローレンス・スターンの旅行記 (1768年出版) から引用されたもののようで 旅行記らしい事実や風景でなく「どう感じたか」の珍しい視点で書かれている。
この動画については ちょっとヨコに置いて 続きを書いていこう。
筆者自身は 写真を撮らない。
旅行に行っても 遊びに行っても 感動が予想される場所に行くときも カメラを持参したことがない。
最近では スマホに搭載されているから撮れる準備はあるはずだが やはり
撮らない。
そのせいで 家には極端に自分の写真も家族の写真も少ない。
あるのは 子どものころの写真で これは親が撮っておいてくれたものだろう。
代わりに ひと様が 筆者や家族を撮られたものが残っている。
家族まるごとモデルばりの美形ではないから ほんのついでに撮って下さったものを送ってくださるのだ。
以前 旅行に行ったとき
「こんなに綺麗な場所なのに なぜ 写真を撮らないの?」と訊かれて 返事に困ったことがある。
相手は 変人を見るような目になっていらしたが それ以上は訊かれなかった。
が、考えてみれば 景色の綺麗なところや珍しいものは 写真に残したいと
思うのは 普通なのかもしれない。
なぜ 写真を撮らないのか。
深い理由を考えたことはなかったが、
強いて言えば 「今 ここ」にいることを刻んでいるから。
時間が経てば もちろん詳細は忘れていくし、どんなだったかなと 記録に
残しておかなかったことを悔やむことは時折ある。
が それより大事だと思っていることは 今 ここに いる!という瞬間を
ふかぶかと味わうことだと言えばいいだろうか。
今や デジタルですべてを記録できる時代だというのに 記録を残すことに
あまり興味がない。我ながら 奇妙な感覚だとは思う。
その場で感じることとは
空気 匂い 向けられた笑顔 高揚感 暑さや寒さ 触れたときの感触 反響する音 雲の動き 音楽 踊る人たち 色や光 揺れる枝 遠くから聞こえる祈りの声 時には喧騒、風が通っていく感じ
その場所で そのときに 一瞬だけあるもの。
それをこころに刻みたいと いつも思う。
写真や絵のように 物理的に残しておけないのはモッタイナイ気もするが
現地にいるときの気持ちは いつも まったく逆になる。
「今 感じなくて いつ感じとるのか」
という その一瞬を惜しむ気持ちのほうが強い 。
来てよかった、見てよかった、聴けてよかったと感じる、こころを揺さぶられる瞬間を ほかのことに使いたくないだけだ。
もしかすると とてもわがままなのかと思う。
帰ってから「どうだった?」と訊かれても 見せてあげる写真が一枚もないのは 申し訳ないような気もする。
が、たとえ 何枚かの写真を撮っておいても たぶん さーっと見るだけで終わるのではないだろうか。感動を写真に閉じ込めるほどの技量を持っていないのだから当然だ。
逆に 筆者自身が
友人が行った旅行の写真を見せてもらっても 友人が感じ取ったことは 直接は 感じ取れない。
「へー。きれいなところね。行ってよかったね」と感想を言えば ほぼ終了。
お互いさまのようなものだから 相手も気にはしていないと思うが、そのなかの一枚だけを選んで 「このときにね・・・」と話してくれた写真は 友人にとっても 筆者にとっても とたんに意味を持ち始める。
それは 何かを共有できるからだ。
リストラーズのメンバーも
日頃は 別々の場所で 仕事や家庭維持にいそしむ。
休みの日の一部分を使って 同じ音楽に携わり 考え抜き 共にショーをしたり ひとつの動画のために撮影する。
意見を交わし、アイデアを出し合い、悩んで、迷って その時間を過ごす。
それが いちばん意味のある時間ではないかと思う。
こんなことを今 想像したら 申し訳ないのかもしれないが
いつか 40年、50年の時間が経ったあと、どんなふうに 今の音楽活動を思い出されるのだろう。
得たもの 変化したもの 失くしたもの もう戻らない時間。
白くなった髪と 刻まれた皺に 彼らにしか分からない時間があったこと。
それを 思い出される瞬間を 一枚だけ そっと写真に残してみたい。
だが人生を卒業するときに 持って帰れるのは 写真ではない。
その経験、その努力、その工夫、その愛情、その感動、その悩み、つまりは こころ そのものだけではないのだろうか。
こころの写真は ほかの人には 見ることは出来ない。
だからこそ 誰にとっても 今 この時間が大切なのだと思っている。
< わたしのページが めくれるたびに ♪
そのとき なにを きざむかは 自分次第 >