惑わないけど惑う@リストラーズ
40代を生きる。
先日の東スポ紙のインタビュー動画で 「全員 40代になった」という発言が耳に残っている。
子ども目線で見れば あるいは、10代 20代の目線で見れば、おじさん
世代で、お父さんや上司の世代ということになる。
40代は「不惑」と称される年齢。
なんの迷いもなく、自己確立ができて、社会の中枢を担う 判断力のある
年齢。
客観的にみれば そうなのだが 当事者は それぞれ いったいどう受け止めながら 生きていらっしゃるのだろうなと思った。
子どもの頃、早く大人になりたい、自立して自由に生きたいと思った人も
いるかもしれない。
筆者の場合は、大人になることそのものが とても怖かった。
自分で責任を持ち、自分で判断をし、自分で道を切り拓く。
回りの環境が大人が多かったせいかもしれないが、大人として生きるのは
タイヘンだという印象のほうが大きかった。
たとえば 前日に家庭内で何か起こって 悩みをかかえてしまっても 翌日は
当たり前の冷静な顔をして出勤して、電話を取り、笑顔で交渉する。
仕事場では 昨日と同じか、それ以上のパフォーマンスを求められ、心の中身を吐露する場もなく、背中の荷物が増え続けるような感じと言えばよいか。
親が会社勤務だと 仕事をする現場を身近で見ないために 私生活と会社での生活の差が、子どもには見えない。
だが 幸か不幸か、自宅と仕事場が ほぼ同じで 出入りもできるような環境で育った場合 けっこう そこが見えるのだ。
仕事を家庭に持ち込むというタイプかどうかというレベルではなく、仕事と家庭が入り混じっているような環境。
もしかすると 農家や酪農の家、職人さんの家も それに近いかもしれない。
子どもに対して 親のほうが隠そうと思っても 隠しきれない。
裏側も表側も 見えてしまう。もちろん全部は見えるわけがないが、しんどさや大変さが 日々 伝わってきていた。
苦労が見えて、大変さが見えて、楽しさはあまり見えない。
さらに教育方針なのか 環境なのか、大人のふるまい、大人の言葉遣いを要求され、子どもとしてのワガママを抑え込むのが当たり前だった。
のびのび振る舞うと周りに迷惑がかかるから、わきまえを心掛けるようになる。
だが 失敗を重ねてしまうから、陰に陽に まだまだ及第点を取れていない
感覚だけが強くなる。
それでも いつか 時間とともに 本当の大人になる・・・。
とても自分には出来そうもない気がして 本当に怖くてたまらなかった。
やがて 否が応でも 大人になって社会に出る。
そこでは もちろん経済的自立を手に入れたが だからといって 精神的に大人になり切れたかというと さっぱり追いついて行かない。
いつまでも 学生の気分というわけではないつもりだが 要求されることに
答えきれていない。
20代は、10代のままのような。
30代は、20代の気持ちが残る。
40代は、30代ぎりぎりの感覚で七転八倒。
社会的に いろんな縛りが融けて、お酒や恋愛も 自由。
結婚も離婚も自分の意志。
子どもを持つのも 持たないのも 自分の責任と判断。
そう言われて 躊躇なく、あるいはやむを得ず、選択してきたことはたくさんある。
その中で 振り返ると、やっぱり年齢に合ってない自分がいる。
精神年齢が そこまで成長していない感じがある。
かれらのインタビューのなかでも「会社では 若造」という言葉も耳に残っている。
あの言葉は いま自分が感じている感覚に近いものなのだろうか。
ただそういう扱いをされているという意味だけでなく、自分が理想と描く
自分像に 届いていない感覚。
まだ若造、まだ小娘な感覚。
いったい70代、80代、90代になったとき、どう感じるのだろう?
まだまだ?
これからも?
努力は もっともっと?
「不惑」という言葉は 難しい。
迷わず 判断できるだけでなく、本当の意味で成長できた実感のあること、
ひと様に 与え切りな思いやりを贈れるひとにしか使えない気がしている。
社会的には「大人」という存在なのに、実感的には「大人」という感覚が
掴めていないような 不足感。
いつか この体感年齢が どこかで帳尻が合うことがあるのだろうか。
企業人として活躍しながら いまだ青春真っ只中な様子を 全力で見せてくださるリストラーズメンバーを見ながら 自分のなかの不一致感を持て余している。
(東スポチャンネルさんから お借りしました)
< 10月初めに誕生日を越えた その日に書き残したもの
ストイックな生き方に憧れるけど 時には緩めてもいいのかな >