#1-17 ジョンカーストリートを満喫して
前回のあらすじ
明かりがついている。まだ開いているんじゃない?
ジョンカーストリートに戻ってきた私たちは、三度「オランウータンハウス」に来ていた。実はザビエルさんと写真を撮るために一生懸命坂を登っている時に、妻が一言「なんかマラッカマラッカTシャツじゃない方にすれば良かったかも」と呟いた。「ちょっと怖めな人が2人描かれたTシャツ」を買えば良かったと後悔しているというのだ(詳しくは「#1-13 マラッカで日常を過ごして」参照)。時間的に水上モスクに向かいたかったので、夕陽を見て帰ってきた時にお店が開いていたら交換してもらおうと話していたのだ。
なので、妻、歓喜。ピンクのおばさんはもういなかったが、長髪のおじさんがまだ作業をしていた。目当てのTシャツを持って、これとこれ交換してもらえない?とカタコト英語で何とか交渉し、差額を少しお支払いして、ミッションを達成することができた。
妻、再度、歓喜。嬉しそうで良かった。さあ、夜市だ。
やっぱり夜の方が賑わっている。昼間には姿を見せなかった屋台が道路の両側に所狭しと並んでいる。
ストリートに入ったところでいきなり気になる食べ物を見つけた。一口サイズにカットされたソーセージが卵に包まれて串になっている。うまそうだなぁ。食べてみたいなぁ。ただ、この道の奥にもっと魅力的な食べ物がたくさんあるかもしれない。このソーセージ卵串が魅力度ランキング最下位の可能性だって否定できない。
お腹に入る量は有限なのだ。
たくさんの美味しいものを前にするといつも残念に思う。無限に食べることができたなら。あとのことは気にせず好きなものを片っ端から食べることができるのに。だけどもし人間がそうなら、それは幸せではないのかもしれない。何を食べようかなと考える楽しみも感じなくなってしまうのだろうし、そもそも「美味しい」という感情さえなくなってしまうのかもしれない。「美味しい」のためには「美味しくない」が必要なのだ。
ただ生きるために食べる。それはもはや、走るためにガソリンを入れられる車と同じになってしまう。限りがあるから価値を感じられるというものだ。死ぬことがわかっているから人生は楽しくすることができる(ちょっとポエマーになってしまった、まだ夕陽の効果が残っているようだ。)。
1回すべての屋台を覗いてから何を食べるか決めることにしよう。よだれを垂らしながらも足を一歩一歩前に進めた。
最初に足を止めたのはジョンカーストリートのちょうど真ん中あたり。3組くらいが並んでいる視線の先には、マンゴーと氷を入れたミキサーがゴゴゴと勢いよく回転している。妻の大好物マンゴースムージーの登場だ。
しかもよく見ると、スムージーの上に1センチ幅にカットされたマンゴー1個分が乗っかっている。言うなれば「マンゴーもりもりスムージー」だ。いくらだったかは忘れてしまったがそんなに高くはなかったと思う。
私はマンゴーが嫌いなのでこれは妻が1人でゴクゴク。美味しいらしい。私はどうにも「草っぽくて」苦手で。完熟のは美味しいよ、と言ってくれる人もいるが、完熟の方が草感が増してしまいより苦手。
マンゴー好きの人って多いですよね。妻を見ながら、昔友達3人と台湾旅行に行った時、かき氷屋さんでマンゴーかき氷を食べた時のことを思い出した。いちごかき氷も頼んで2つのデカかき氷を3人でシェアするつもりだった。
しかし、マンゴーは減らなかった。
食べ始めて1分経つ前に察した。マンゴーが減っていない。その代わりいちごが倍速で減っていく。3人の手に持つスプーンは全く同じ一定のリズムで2つの器を行き来している。いちご、いちご、マンゴー、いちご、いちご、マンゴー、いちご、いちご、俺マンゴー好きじゃないんだよね。なんと3人全員がマンゴーを苦手と感じるタイプの人間だったのだ。
3人が3人とも、他の2人はマンゴー好きに違いない、と思い込み、気を遣って言い出せなかったというオチである。何とも愛すべきアホたちである。結果いちごばかりが減っていくという始末。かなり時間をかけて、ゲラゲラ笑いながらマンゴーを何とかかき込んだ。
台湾のマンゴー、さすがは南国地域だ、めちゃくちゃに草だった。