#1-4 スイスの銀の誓い
またお腹が空いた。というか空いていた。フライドチキン入りとはいえ、おかゆはおかゆである。胃に優しすぎた。
今すぐランチにしたいところだが、妻は買い物欲が最高潮のご様子。食欲のことはお忘れみたいだ。こちらから「先にお昼にしない?」とは言いにくい。
とりあえず日本から持ってきた、無印良品のかぼちゃスコーンを2人で食べた。いつも日本からお菓子を持って行くのだが、食べずにただの荷物にしてしまっているので、このタイミングで食べられたのはベストだったとは思う(結局他のお菓子は食べなかったので次回からは持って行かない)。
口の中の水分はかなり持っていかれたが、とりあえず30分くらいは買い物に集中できそうだ。
まずは1階をぶらぶら。セントラルマーケットは2階建てである。1階はアクセサリーとか置物とかの雑貨系と、キーホルダーやマグネットといったお土産系、あとはお菓子といった品揃えだった。
私は東南アジアの雑貨が大好きだ。アジアっぽい柄も良いし、なんとも言えない温もりを感じる。実際家にはミャンマーで買った置物や、ラオスで買ったぬいぐるみなどを並べている。そういえば妻にはじめてあげたプレゼントもラオスで買った猿のぬいぐるみだった。今思うと女の子にプレゼントしするものとしてはなかなかのチョイスだな、と思う。しかもまだお付き合いする前である。ただ、これは本当の話なのだが、ラオスの露店に鎮座していたお猿を見た瞬間、「あ、これあげよう」と雷が落ちてきたのである。キューピットと言えるのかもしれない。若かりし大学3年生のお話。
木でできた亀の置物にとても惹かれた。目が点でかわいい。首も動くみたいだ。でもちょっと大きいなぁ。重さも割とあったので今買うのはやめにして2階に上がってみた。
2階は服がメインらしい。
実は私たちのメインも服である。「タイパン」を新調しにきた。セントラルマーケットに来たメインの目的ではなく、マレーシアに来たメインの目的だ。ちなみにメインの目的はもう2つあって、バクテーを食べること、ライムジュースを飲むこと、である。
タイパンとは東南アジアで売られている特徴的な、アジアっぽい柄の薄いズボンのことである(私たちがそう呼んでるだけで正式名称は知らない)。ただ、東南アジアに行ったことのある人であれば何となく想像はつくと思う。サラッとした緩めの着心地で、柄も可愛いので夫婦で大ファンなのだ。
そのタイパンを新調したかった。4着ほど持ってはいるのだが、どれも古くなり穴が空いているものもある。
便利な世の中になったもので日本でも通販で買えるしそこまで高くもない。けどねぇ、それはプライドが許さないというものだ。そこで今回マレーシアで新調しようと思って意気込んできたのだった。
高い。え?2000円くらいする。私が知っているタイパンは300円くらいだったはずだ。円安物価高の影響がここまできているのかとも思ったが、私が持っているものと少し手触りが違う。ずいぶんと生地がしっかりしている。
確かにいつも買っていたのはなんちゃらストリートにある名もない個人店みたいなところだ。「シャチョウサン!」の掛け声で始まるお店のおばちゃんとの価格交渉を経て300円で購入していたことも思い出す。セントラルマーケットは値切り交渉をするような雰囲気ではないし、そもそも威勢の良いおばちゃんが1人もいない。うーむ。タイパンに2000円かけるのはなあ。そういうんじゃないんだよなあ。
ここでは買えない。もしかしたら私はおばちゃんとの攻防込みでタイパンのファンだったのかもしれない。
そろそろ良い頃合いだ。ランチの提案をしよう。たくさんのタイパンを物色し買い物欲は充分満たされた。次はお待ちかねの食欲を満たしてあげる番だ。セントラルマーケットに来るまでの道中で、近くにある美味しそうなお店はピックアップされていた(妻によって)。
その中で私が気になっていたのが、牛肉麺のお店「Sin Kiew Yee Shin Kee Beef Noodles」。並ぶらしい、というメモが書いてあるが、今はまだ12時前。並ばずとも並ぶほどの美味しさの牛肉麺にありつける可能性の方が高いはずだ。
そろそろお腹すかない…?と話しかけようしたが、妻の視線はこちらに向いていない。タイパンがたくさんある2階から、小物系中心の1階に降りてきたところだった。
去年の夏に新婚旅行でギリシャとスイスに行った。その2ヶ月前に入籍をしていて、そのまた2ヶ月前に金の結婚指輪をゲットしていた。物より経験にお金を使うのが好きな私たちにとって、その金の指輪は自分史上最高額の買い物となった。つまり旅行に着けていく勇気はまだなかったのである。
とは言え新婚旅行中に左手の薬指を自由にさせておくのも何となく嫌だなあ、と思ったので、昔作っていた銀のペアリングを、右手の薬指から左手の薬指にお引越しさせることにしたのだった。
ハネムーンも折り返しかかったスイスのツェルマットにて事件は起きた。偽結婚指輪を無くした。妻が。マッターホルンが綺麗に見えるホテルの部屋の中を隅々まで探しても、ない。荷物の中にもない。
次の街に向かう電車の時間も迫っていたので、ホテルの受付の女性に事情を説明して、清掃の際に見つかったら連絡をしてほしいとお願いをして駅に向かう。当たり前ではあるが、あからさまに落ち込む妻。そして慰めることが下手な私。少々喧嘩をしてツェルマット駅前のマックで3000円のハンバーガーセットを2人で分け合ったのは今となっては良い思い出である。
ホテルの受付の女性には申し訳ないことをしたと思う。ベルンのホテルに着いてキャリーケースを開けると、奴はそこにいた。私はここに居ると、自分の存在を主張するかのように光り輝いて見えた。もっと早く主張してくれよと思いながら、2人で安堵した。
もちろんそれ以降左手の薬指には自由を与えることにした。もう二度と無言で黙々とマックを食べることのないように(しかも新婚旅行で!)。これは俗に「スイスの銀の誓い」と呼ばれる。